昨夜はパッケージ化された言葉すなわち著書の集積が作家だと書いた。 もちろん断片的な言葉の集積が作家であっても構わない。 いずれにせよ集積がそれぞれを、 あるいはそれぞれが集積のありようを担保する。 作家が言葉を書くのではない。 書かれた言葉が作家をかたちづくる。 実体はひとにではなく書かれた言葉にある。 そしてその言葉はそれ自体に依って立つ。 他者との関係性に依存しない。 個あるいは孤に属している。 そのような営みすなわちブランドの提示を人格 OverDrive では将来的に意図している。 一方ソーシャルにおける言葉は他者との関係性で有利に立ちまわるための刹那的な消費財である。 そこでは 「キャラ」 で物事が理解されあるいは断罪される。 キャラとブランドは互いに相容れない概念だが混同されやすい。 ブランドはキャラの文脈に落とし込まれることでたやすく貶められる。 実際には器から 「はみ出る」 のだがはたからはそのように理解される。 佐野元春がいかなる主張をしようがソーシャルメディアではただ後をつけてきた男が仲間や兄弟や見知らぬ親戚や可愛い犬についてすべてわかっていることにされ、 正当な放課後の教師や友だちや判事や天使として扱われる。 ソーシャルメディアでのサイズ感においてはそのような理解が 「わかりやすい」 からだ。 そしてそのサイズ感での 「わかりやすさ」 がソーシャルメディアでは正義なのだ。 大手企業による出版はいまやそのような論理に従属せざるを得ない。 しかしソーシャルメディアと相性のよい巨大モールが読書端末にどう命名しようと原稿は燃えない。 epub やプリントオンデマンドは出版に本来のありようを取り戻す手立てをもたらした。 中央集権よりも地方を、 国家や組織よりも個人を、 数や刹那的な消費よりもひとつを長く味わうことを、 押しつけよりも自由意志を希求する。 それが言葉を公にする (出版する) ことの意義だ。 その意義を裏切らないブランドを提示したい。 キャラとして安易に消費されようがないパッケージ化された言葉の集積を。
2019.
02.10Sun
『D.I.Y.出版日誌』の次にはこれを読め!