妄想中年日記

連載第164回: やりたいようにやる

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2019.
02.03Sun

やりたいようにやる

だれに頼まれたわけでもなくだれに読まれるわけでもない日記を一週間も書きつづけている。いずれ小説にとりかかったらやめるつもりだ。きょうはへとへとに疲れているが書かずに寝たらあたかも筋トレをさぼったかのような無力感に襲われるのはわかっている。いちどはじめた習慣は変えないほうがいい。出版もまた暮らしに根ざしたもので、水を飲むように本を読み身のまわりを片づけるように書いて刷っている。寝る前に歯を磨くのは他人に見せるためじゃない(『48億の妄想』を具現した現代ではその限りではなかろうが、少なくともおれにとってはの話だ)。どうでもいい他人とソーシャルな価値を競うためではなく、あくまで身の丈に合うミニマルな営みとして家内制手工業的な出版を考えている。その意義を対比によって示そう。すなわち従来出版は中央集権であり権威でありマジョリティであり、速さであり数であり勝ち負けであり、刹那的な消費でありわかりやすい価値であり、社交であり組織であり集団決定でありソーシャルであり、そして何よりも、ひとりの人生や思いに根ざしたそのひとらしさを放棄させ、得体の知れない「みんな」への従属を求めるものである。出版とはそのようなものであると長いあいだ錯覚されてきたところに、およそ十年ほど前からepubやプリントオンデマンドが立ち現れ、さながら活版印刷が神の言葉を権威者の独占から広く民衆へと解き放ったように、従来とは別のありようを可能にした(あるいは出版に本来の意義を取り戻した)。それは地方分権であり反抗であり、可視化されないただひとりの事情に寄り添うものであり、じっくり何度も味わうものであり、さまざまでありながらも限られたものであり、勝ち負けとは尺度の異なるものであり、個であり孤であり内省であり、わかちあえないがゆえに尊重されるべきそれぞれの思いであり、その思いに根ざした自由意志である。そして何よりも、だれかがほかのだれでもないそのひと自身であること、孤であることを強く肯定する力である。小説や出版が本来どちらを希求するかは自ずと知れよう。しかし実際にはepubやオンデマンドといった手段は、上に述べたような従来出版の性質を、強化あるいは効率化するものとしてのみ喧伝されている。あたかもそれがいいことであるかのように。もちろん他者の権利を脅かさぬ限りはだれがどうふるまおうが自由だし、たとえば極端な話、短期間で出版するチーム制の競技なんてものが東京で開催されてもいい。しかしそれはあくまで多様性を認めた上での話であって、本筋であるかのように語られたり見なされたりすべきではない。というかだれが何をどう見なそうが勝手だが押しつけられては困る。いや、押しつけたければ好きにしろ。どうでもいい。世間とは無関係にやりたいことをやるカウンターカルチャーが登場していい頃合いだし、その手段も充分に出揃った。あとはいかにしたたかにやるかだ。人格OverDriveはやりたいようにやる。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。硬質な文体と独創的な物語で知られる。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。2010年から別名義で活動。2013年日本電子出版協会(JEPA )主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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