妄想中年日記

連載第162回: あしたの色

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2019.
02.01Fri

あしたの色

次の一歩に備えてサイトを弄っていたら日が暮れた。『J R』は昨年末から積んだままだし『ドーキー古文書』は冒頭を読んだきりでiPhoneのディケンズもほったらかしだ。何より優先すべきは小説のプロット作業で、全体の概観はできているが掘り下げが圧倒的に足りない。このままではまた三百枚以下の中編になる。若いときは六、七八百枚を平然と書けた。文章が稚拙すぎて日本語として意味がとれなかったので数年前に書きなおしたら三百枚以下に縮んだ。文章が改善された代わりに小説の書き方を忘れ、やむを得ず『Pの刺激』に収録した「ガラスの泡」と、『悪魔とドライヴ』の二作は冒頭と着地点だけ決めて成り行き任せで書いた。おかげでどちらも売れなかった。今度こそまともな小説を書きたいのでシド・フィールドの教科書を読み返している。二冊出ていて最初のは何年も前に読んだがまるで役に立たなかったので棄ててしまった。二冊目はやや実践的で参考になるが論旨に明らかなごまかしがある。第一幕だけが自信たっぷりに詳しく解説され、第二幕についてはやや食い足りない印象が残り、第三幕に至っては非常におざなりでモヤモヤする。おそらく理論化が不充分なので意図的にはぐらかしてあるのだろう。現代的なプロットでは第三幕は短くなる傾向があるとほのめかしておきながらその詳細を明かさない。そこにはあまり触れられたくないかのようだ。重度の学習障害であるおれの理解が正しければ14はそもそも三で割り切れない。「ではピンチⅠは何枚目になるだろうか? そう、七枚目だ」といわれてもその計算合ってるか? と思ってしまう。そんな本を参考にするのでどうしても後半の構成がぐだぐだになる。それを防ぐために今回はアーヴィングの真似をして結末から書くことも検討している。明言はされていないが第一幕、第二幕前半、後半、第三幕はそれぞれ14の場面で構成され、それぞれのパートがさらに三分割できるようだ。そして最後の三分の一はどうも理論上は全体の四等分なのだが実際はそれより短くなるらしい。体感的にもそれは正しいような気がする。鈴木清順の名言に「筋なんかどうでもいい。どうせ男と女が出会ってくっつくか別れるかしかないんだから」というのがあるが要は1)男女が出会う。2)色々あって別れる。3)成長して再会する。というのがよくあるプロットの基礎であって「別れる」がミッドポイントにあたるわけだ。『KISSの法則』『Pの刺激』ではこれを忠実にやって、とりわけ後者では別れているあいだにすべてが変容し戻った場所は別世界、という趣向をモーフィングのような文章で試した。売れなかったので今度は逆に直球勝負の恋愛小説でやってみるつもりだ。男女が出会って色々あって別れて成長して再会するだけの話だ。Pantoneが今年の流行色をリビングコーラルと定めたおかげでコンビニの冷蔵棚にはピンクフラミンゴみたいな色の飲み物がずらりと並んでいる。いっそマゼンタ以外のインクを重ね忘れたのようなあの色の表紙で売ったらどうだろう、ソーシャルなジェンダー観に適合して「わかりやすい」と喜ばれるのではないか。世間が自然と信じるものは往々にして作為なのであって、フラミンゴが赤い餌をやらないとあの色にならぬのと同様に、広告代理店が投じた餌に容易に染まってあんな男を大統領にまでしてしまうのがソーシャルだ。Pantoneや広告代理店に世の中を操れるのなら小説にだって売りようはあるだろうとも夢想するが、しかしそんなことはどうでもいい。枕から脱線して本筋を見失い、次の一手について何も語らぬうちに今夜も時間切れとなった。何しろこの日記、時間と労力を浪費する割には、私生活を覗き見てとんちんかんな悪口を賢しげにいいふらす偏執者を招いてしまったり、本の感想が読まれなくなったりするばかりで何の利点もない。話をつづけるかどうかは明晩にならねばわからない。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。硬質な文体と独創的な物語で知られる。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。2010年から別名義で活動。2013年日本電子出版協会(JEPA )主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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