杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第158回: 第二夜

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2019.
01.28Mon

第二夜

いついかなる状況でもかぎられた時間で必ず書く、という訓練をきのうからはじめた。どうも自分にはそのような職業的態度が欠けている。筋トレのようなもので鍛えれば人並みの力も身につくのではと考えた。どうせすぐ飽きると思ったジム通いも二ヶ月つづいて体脂肪を三キロ落とせた。筋肉は一キロ増だ。二ヶ月前はどうして痩せないんだろうと悩みながら深夜に過食していたが、単純な話で要は食事を減らして運動量を増やせばいいのだ。何事もやればどうにかなるものなのかもしれない。考えるより行動だ。継続は力なりというし難しいのは継続だとも聞くが実際の困難はやめさせようとする世間に抗うことで、ジム通いはともかく書いて出版するほうも気取られないようしたたかにやりたい。声を潜めはしても黙らされるつもりは毛頭なく、耳を傾けてくれる読者を見出す方法をまず何よりも考えている。どうも著者を貶めようとする声高な数名と、サイレントマジョリティと呼ぶにはあまりにも少ない、声なき読者がいるようで後者を代弁するために書いている。といえば大げさかもしれないが志としては嘘ではなく、問題はその声をいかにして広く届けるかだ。必要なのは社交であると昨日書いたがそれはフィジカルな名刺交換や挨拶まわりにかぎらない。ソーシャルメディアの運用もしかりである。くどいようだが何しろキング御大でさえ愛犬の写真でいいねをせびる時代である。専門家を雇っているのか自力でまかなっているのかはわからないが(Kindle登場のはるか以前にいちはやく電子出版を行った彼のこと、後者のような気もする)、そうでもしなければ彼でさえ本を売れないのだ。最近では猫も杓子もソーシャルメディアで、かのAからはじまる巨大モールも一見して気づきにくいが実はソーシャルメディアとしての側面を有しておりそれがまた馬鹿にならない。たとえばマイブラの『ラブレス』を音が歪んでいるから星ひとつと毀損するような阿呆ばかりのレビュー欄がそうだしランキングも関連商品欄もしかりである。ソーシャルメディアとはすなわちだれもが自分を賢く見せたり善人であるかのように取り繕ったりする競技の場であって、往々にして他人を貶めることでみずからを高めたり、あるいはフォロワー数万の虎にとりいって威を借りたり、はたまたその威によって他人を恫喝し貶めたりといった心温まる営みであり、それをして世間では絆やらつながりやらと呼ぶようだが、兎にも角にもそこでは小説にしろ猫動画にしろ、社交を競い合うための汎用ツールとして用いられるにすぎない。ネタ。仲間内の符牒。それ以上でも以下でもあってはならない。当たり障りのないどうとでも扱えるものこそが好まれ、中身のあるもの、そこにしかないもの、個別の事情によって語られるものは厭われる。それ以上でもそれ以下でもないものを書かねばソーシャルな汎用性は獲得できず、そこでの営みには受け入れられない。海外の出版指南記事には決まってソーシャルメディアでの営業は成功に不可欠と書かれている。そうかもしれない。だからこそ大手企業も下請けである作家に営業をやらせ、営業の巧い作家に資本を投下し、フォロワーが少なければはなから仕事をやらぬのだ。しかしそうであるならばわれわれはなんのために小説を書いて出版するのか。猫動画のように当たり障りなく消費されるネタのためか。だれかの価値を高めたり貶めたりするためか。そんなものの奴隷に成り下がりたければそれもよい、勝手にするがいい。人格OverDriveならびに杜昌彦はそこから距離をおく。少しでも臭いを嗅ぎつけたら全力で遠ざかる。しかしそれでいて書いた本は売らねばならない、そうでなければ出版したことにならないからだ。publishとは公にすることでありだれの目にも触れなければ存在せぬも同然、いいかえれば黙らされるも同然だ。だれが認めようが認めまいがこの世界に確かに生きたわれわれの言葉をなかったものにされてはたまらない。それではソーシャルから遠ざかりつついかにして公にするかという話を、明日以降できればやってみようと思う。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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