今年はよさそうだと思って手にした本がはずればかりだった。 そんな年は人生ではじめてかもしれない。 去年のような思い出深い出逢いが今年はほとんどなかった。 数年前に上巻を読んだきりになっていた 『メイスン&ディクスン』 をようやく全部読み終えたとか、 ニック・ホーンビィの古いやつを急に思い出して図書館で借りて読んだとか、 『ガープの世界』 を読み返したりとか、 よかったのはそのくらいだ。 つまり古い本ばかり。 嗅ぎ分ける才覚が衰えたのかもしれないとも思うし、 おもしろい小説は実際に出版されにくくなったのだとも思う。 当たり障りがないことに実績のある企画しか見かけなくなった。
先日どういう流れでかは忘れたが筒井康隆 『モナドの領域』 を読んだ。 『朝のガスパール』 『パプリカ』 あたりが頂点であって断筆宣言以降は才能をなくしたように思えていっさい読んでいなかった。 わかっていたのになぜ読んだのか。 四半世紀前に天才だった作家がここまで落ちぶれるのを見たくはなかった。 あらすじはこうだ。 女子大生が惨殺される。 女性は深層心理では性暴力を望むものだと老教授が主張する。 女性が群がってきて素敵! と騒ぐ。 女子学生が愛情表現として炊事洗濯掃除のような身のまわりの世話を焼くようになる。 男性も群がってきて兄貴! と慕う。 信者が膨れ上がり騒ぎとなる。 老教授が裁判やテレビに出てご高説を開陳する。 小説のなかでは知的な論理という設定になっていて世界中が感銘を受け拍手喝采する⋯⋯。
くだらない老人向けポルノだ。 世界をミソジニストとそうでない人間に大別するならおれも大概だと思うけれども、 さすがにここまで浅薄ではない。 若い頃の彼は権力をおちょくる独創的ないちびりだった。 いまの彼は使い古された権力側のやり口で弱者を笑いものにするいちびりだ。 それもいまだ反権力の独創であるかのような勘違いをしてそんなことをやっている。 やはりまともな人権教育を受けなかった世代はだめなのかもしれない、 おれも含めて。 『逆さの月』 はそうしたことへの批判として書いた。 小説を読み慣れていない読者には不快かもしれない。 感情を揺すぶられるような本を好まない市場にあっては反感を買うだろうなという気はする。
現代のこの国ではすでにだれもが親しんでいるものを劣化させて 「わかりやす」 くしたものが売れる。 だれもが親しんでいるものは何か、 を探る市場調査と劣化させる感性の鈍さ、 すなわち 「普通の人間であること」 こそがヒットメーカーの才能なのだと思う。 でもそれはあくまで 「普通の人間」 のための才能であって、 社会からはじきだされた人間のための才能ではない。 そしてどちらかといえば芸術は、 ここでいう芸術はエンターテインメントと同義語なのだけれど、 はじきだされた人間のためにある。
たまたま恵まれて 「普通」 になれたことをいばって、 そうなれなかった人間を貶めるような、 そんなものだけは書きたくない。 もちろん金のために働くのは尊いことだ。 大勢によって望まれ必要とされる仕事は当然なされなければならない。 ただそれだけが小説の本道でありすべてであるかのような風潮には与しない。 うまく生きられないごく少数のひとびとの励ましになるようなものこそが書かれなければならないと思うし、 それを出版するのが人格 OverDrive の仕事だと考えている。 いまのこの国では 「普通」 にとって 「ニーズがな」 ければ 「淘汰」 される。 しかし一方で原稿を燃やせるものならやってみろという気持もある。
次の小説は大人になることが主題だ。 欠陥を抱えた自分の適切な取扱法を見出して生活していくこと。 『ぼっちの帝国』 と仮題をつけた。