「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」 の表示が悪化した。 これまでは Facebook 広告からの流入のおかげで多少はまともな本が表示されていた。 それが急にひどいゴミばかりになった。 Facebook 広告はクリックはされてもコンバージョンに至らなくなった。 そのせいかもしれない。 広告を実施している時期は紹介ページの閲覧が増える。 いちど紹介ページを見たひとがまた戻ってくる傾向があるようだ。 「広告を見たひと」 なのか 「本を読んだひと」 なのかはわからない。 広告のリンク先を Amazon に変えると閲覧はなくなる。 つまり広告によって本への関心を高めることはできている。 一時期は客層の改善にも効果があった。 効果が落ちたのは 『Pの刺激』 『KISS の法則』 の二作を無料化してからだ。 その二作には広告を実施していない。 無料化するなら広告とセットでなければならないようだ。 モール内での露出だけに頼る本来の客層はきわめて悪い。 人格 OverDrive のコンテンツはそういう場との相性が悪い。 困ったことにソーシャルメディアとの相性も悪い。 伝統的な出版方法やマスメディアでの宣伝を使ったとしてもうまくいかないだろう。 かといって価値も潜在的なニーズもないわけではない。 可視化されにくいだけだ。 方法は必ずある。 このサイト自体の集客力を高めたほうがいいんだろうなという気はしている。 記事の書き方や更新頻度の問題なのはわかっているがさしあたり Google のディスプレイ広告を使いはじめた。 露出を高める意味では Facebook 広告よりいいかもしれない。 要するに読書家の目に触れればいいのであって必ずしもクリックされる必要はない。 そして Google 広告には関心の分野で表示場所を指定できる利点がある。
Kindle のおすすめや関連づけがひどいのは品揃え自体が偏っているからだ。 その点にかぎっては Amazon の欠陥というよりも出版社の施策に要因がある。 新潮クレスト・ブックスの一部が kindle 化されるようになって喜んでいるくらいの次元ではどうにもならない。 現代のモールは初動の倍々ゲームですべてが決まる。 黒船上陸時にすぐさま動かず、 いまごろになってようやく様子見しながら手をつけはじめたありさまでは、 機動力のある粗悪品に勝てるわけがない。 大正時代には無名の音楽家に演奏をさせた粗悪なレコードが露店で、 まともなレコードの三分の一の価格で売られていたそうだ。 ルー・リードとジョン・ケイルも五十年代末に似たようなアルバイトをやっていたという。 スーパーマーケットのワゴンで投げ売りされるレコード、 流行歌の紛い物を粗製濫造する仕事だ。 そういうところからヴェルヴェッツのような優れたものが出てくるのはまれで、 多くはただのゴミ以下だったはずだ。 むかしなら粗悪なまがいもので済んでいたところが、 現代のモールでは内容や品質にはかかわらず表示機会の優位性だけで優れたものとして扱われ、 それによってさらに表示機会の優位性を雪だるま式に獲得し、 表示機会において後れをとったものを淘汰する。 表示機会において劣ったその商品が、 いくら実際の内容や品質において優れていてもだ。
若書きの習作を下敷きにして新作を書いている。 『砒素と携帯、 ロックンロール』 という書名はそれなりに気に入っていた。 二十年前は 「どんなに自由を奪われてもロックンロールがあればいつだって踊れる」 というヴェルヴェッツの 「ロックンロール」 を主題にしていたのでその書名でよかった。 ロックンロールに相当するものが 「信じられるひとたち」 だった。 ただし当時でさえその考えには疑問があった。 「信じられるひと」 なんてものは幻想だとそのときすでにわかっていた。 なので 「信じられるひとがいなければ人生はどうにもならない」 という反語的な考えが実はひそかな主題だった。 ましてやロックンロールがあってもその後の人生はどうにもならなかった、 なければもっとひどいものになっていたに違いないけれど。 『砒素と古レース (毒薬と老嬢)』 を元ネタのひとつにしている点は変わらないので砒素と携帯の部分はいいけれども 「ロックロール」 の要素はなくなった。 そもそも触発された音楽がロックンロールではない。 Oddisee の 「You Grew Up」 だ。 プロットはおなじでも狙いが異なる。 となると書名を変えねばならない。 決めかねている。