妄想中年日記

連載第133回: インディ書店と作家

書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2018.
05.09Wed

インディ書店と作家

日本の電子書籍はまず版権切れ作品と素人のゴミからはじまり、ついで漫画で規模を拡大した。電子書籍で読める小説はいまだ分野が限られていて、たとえば海外文学はごくわずかに留まっている。客層がはじめから偏っていたし、いまだに偏っていて、出版社もおそらく意図的にそのような戦略をとっている。Amazonは雪だるま式に売れたものが売れ、やがてそればかりがほかを押しのけて売れるような仕組みになっているので、はじめがどうであったかが重要になる。ましていまだに偏りが強固に保持されているのであれば、なおさら歪みは再生産されつづける。なんらかの要因でゴミが売れることは多々あり、ひとたび売れてしまえばそれが絶対の正義として優先的に表示され、その表示機会は鼠算式に拡大されつづける。ある傾向のものが独占的に表示されれば、そうでないものは表示領域外に押しやられ、売れる機会を失いつづける。結果として日本の電子書籍は偏ったものばかりが売れ、そうでないものは「淘汰」される。そこに品質は関係ない。

環境に最適化されたものが売れ、そうでないものは「淘汰」される、とはいえる。けれども偏った環境に最適化することと、作品として優れていることは関係がない。せいぜいが「ごくまれにひとつの因子として作用することもある」という程度でしかない。それをすり替えて喧伝するのは卑劣な詐欺だ。表示のからくりも表示されない本の存在も知らない読者は、論理のすり替えに気づかず、見せられた狭い世界を正しいと信じ込むしかない。いま現在、この国の電子書籍のユーザはいまだ明らかにガジェット好きで、アニメ・ゲーム好きで、性差別的な傾向のある男性に偏っている。それらの属性はそれぞれ別個のものだけれども、結びつくと現在のストアの状況になる。嘘だと思ったらランキングの表示を眺めてみればいい。女性を人間ではなくモノとして扱う(少なくともそのような内容を示唆する表紙や謳い文句の)作品は、そうでない作品よりもはるかに目につく。つまり売れているし、目につくことでこれからもますます売れる。それは環境における優位性ではあっても品質の優位性ではない。

そのような状況をいかに改善するか。小説は本来、時間をかけて読まれるものだ。性急に変化を求めることはできない。大規模モールのアルゴリズムはあくまで効率的な利潤の追求に最適化された設計になっていて、文化や人間性といった因子は顧慮されない。もちろん利潤は求められるべきで、商売の姿として正しくはあるのだけれど、読書のありようとは切り分けて考えられるべきで、「本」という商品の持つさまざまな意味を俯瞰的に捉えれば、決してそればかりが正義ではない。まして小説は本来、周縁の視点に立つものであり、ひとりに寄り添うものであって、「みんな同じ」「それだけが正しい」システムに何かを期待するほうが筋違いだ。そういう店もあればそうでない店もある、さまざまな客のさまざまな好みがそれぞれあっていいように。自分に合った客筋を見出さねばならないし、それができる店もあるはずだ。確かに既存のシステムに乗っかるほうが簡単だ(最適化されるほうが簡単だという意味ではない)し、そうすれば正義を主張することもできる。けれどもそれが小説のやることなのか。いや、当然そういう小説もあっていいのだけれども、そうでない小説が「淘汰」されるのを正しいと見なしたり、そのように言いふらしたりするのはまちがっている。偏った声だけを正義とし、そうでないものが「淘汰」されるのを当然と喧伝するのは、たとえば性暴力に抗う声が黙らされるくらいおかしなことだ。

八年前からずっと書いてきていることだけれども、やれることがあるとすればやはり独自性のある書店兼レーベルが存在感を発揮することだ。そのレーベルの作品をその書店で買うことが、アップルやナイキの製品を愛好するように、何か気の利いた生活様式であるかのように思わせねばならない。台湾の独立音楽レーベル兼CDショップ、小白兔唱片のような存在が理想だ。数カ国語で書かれたポップに相当する何かをウェブサイトでどう実現するかを考えている。90年代のHMVやタワレコにもあのような何かがあったのだけれど、ひとや文化よりも効率を優先するようになり、独自性も存在感も喪った(余談だけれど、某書店で起きたこともそういうことではないのか……と検索したら、どうもそう簡単ではないらしい)。作品を買って読むばかりではない。読書体験そのものを買って味わうのだ。そういうものを提供する場がほしい。作家ひとりでやれることではない。作風に似た傾向をもつ作家が集まらねばならない。ただ寄り集まって餌を待つだけではだめだ。そこには「選ぶ」という要素すなわち編集がなければならない。そして何より作家はひとりひとりが主体的に活動せねばならない。しかし仲間を集めようにも「淘汰」によって彼らは目につかない。そしてもっとも重要であるレーベルカラーを実現するのは選別する、編集することであり、だれかが「優しい終身の独裁者」としてふるまうことが求められる一方で、それと個人の主体性をどう両立するかという問題もある。他者という要素が介在する試みは自分の手には余る。現実的ではない。けれどもこのままの状況を是とするわけにはいかない。


杜 昌彦

(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。硬質な文体と独創的な物語で知られる。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。2010年から別名義で活動。2013年日本電子出版協会(JEPA )主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。