作家と読者は権威と取り巻きの間柄ではない。 完全に対等でなければならない。 あえて上下を問うならばむしろ読者のほうが立場は上だ (編集者や出版社は発注者であっても対等でなければならない)。 書くのも読むのもひとりでやる内省的な作業だ。 小説は不特定多数へ向けていながらただひとりの相手へ向けた手紙のようでもあり、 対等かつ一対一の関係性であるといえる。 そうでありながら頑然と一方通行でなければならない。 ソーシャルメディアに見られるような評価経済を前提とした Patreon や、 それを模倣したウェブサービスは双方向でありながら対等でも平等でもなく、 一対多の非対称な関係性を要求し、 取り巻きの多さで価値を計る。 出版や読書の望ましいありようとはいえない。
経済的な支援なら Kindle 版の購入・閲覧で行ってもらえばいい。 お布施、 カンパ、 コーヒーなりビールなりを奢る、 という方式を目にする機会は多いが、 実際に金を投じた話は聞いたことがない。 音楽であれば音源を無料にして公演や物販で稼ぐところだが (加えて近年では YouTube の無断アップロード者に話をつけて広告料をまわしてもらうことも一般的になっている。 ストリーミングサービスも普及したがほとんど収入にはつながらないだろう)、 小説ではその逆になるかもしれない。 単行本の購入なり閲覧なりがお布施であって著者の人となりや思考のストリーミングが無料の見世物となる。 そのため著者のペルソナをあたかも小説の登場人物のように構築し、 ブランディングする試みを二年前まで行っていた。 個人が主体的に行動するのはこの国では好まれないとわかった。
登録制にして会員限定コンテンツを載せるのが五年ほど前から流行っている。 「クリエイター支援」 などと称しているが要は評価経済の換金装置だ。 お山の大将をのさばらせ一般読者を取り巻きに貶める仕掛けにすぎない。 有料であるべき新聞社の記事でさえ、 有料会員でなければ先が読めないと不満を憶える。 まして無名の書き手にだれが金を払うものか。 何様だという話だ。 無料で読めるとしても登録の手間でさえかけたくない。 登録すれば特典コンテンツが読めるのはいい。 しかし通常の記事はだれにでも読めなければならない。 無名の書き手であれば読んでもらえるだけで感謝すべきで、 むしろ読者に金を払ってもいいくらいだ。 そういう商売はいずれ発生する。 いまは評価経済の非対等性をごまかし、 「15 分間の有名人」 に憧れる愚か者を集めて搾取するサービスが横行するばかりだ。 WordPress が掲げる 「出版の民主化」 とは正反対であり、 コンテンツを付録の握手券に貶めている。
会員登録のすべてを否定するつもりはない。 利点がほかにあるはずだ。 限定コンテンツ提供は手段であって目的ではない (手段自体が目的になり得るのであれば別だ)。 記事は記事だけで読ませたい。 コメント欄は情報量が多すぎて混乱する。 第三者の意見は別の場所で区別して読みたい。 アクティヴィティを開放してそこに感想を書いてもらう手はある。 しかし他人を視界に入れたくないし話しかけられるのも困る。 いっそサイトの機能すべてを開放して読書感想の SNS にすることも考えたが、 そんなものは世の中にすでに腐るほどある。 BuddyPress を利用して何かできるはずなのだが今のところ思いつかない。 アクティヴィティ (マイクロブログ機能) を備忘録代わりにしているだけだ。 ところがトップページ以外でもっとも閲覧が多いのはそのアクティヴィティなのだ。 仮想人格の構築を軸とした販促は二年前にやめて筆名も変えた。 杜昌彦であることは見世物として成立していないはずだ。 解せない。
そもそもだれがなんのためにサイトを訪れるのか。 一時期は悪意をもつ輩が多数を占めていた。 さまざまな対策を打ったのでさすがに減ったはずだ。 どんな間柄でも二年も離れたら他人になる。 かつての知り合いが様子を見に訪れるとしても、 多くてせいぜい二、 三名だろう。 広告の影響はない。 少なくとも Facebook ページからの流入はない。 いいねは気に入ってくれた証では決してない。 流れてきた投稿すべてにいいねする習慣をもつひとが一定数いるだけだ。 ランディングページ広告からの流入はすぐに離脱される。 本は読まれないしサイトの再訪もない。 ごくまれに書名の検索から訪れる閲覧者がいても目当てのものではないと気づくと去っていく。 回遊は生じないし再訪もおそらくない。 それでもいいと思ってやっている。 二年前までと異なり自著が読まれることは重視しない。 こういう酔狂な趣味をもつ人間が増えれば、 読書の価値は Amazon のランキングばかりではないということが少しずつ広まるはずだと信じている。