ソーシャルメディア偏重の時代はいつまでつづくのか。 実際の内容ではなく 「つながり」 における立ちまわりで本の売れ行きが決まるのはおかしい。 出版社もマスの広告をあきらめて著者の自助努力に頼るようになった。 いいものを書く力ではなく、 世渡りに秀でていることが評価の条件になり、 ソーシャルで成功した実績がなければ取り上げられなくなった。
個人が情報を発信するなどといわれながらこの二十年はソーシャルの時代だった。 今後おそらく三十年以内にほんとうに個人の時代が訪れるだろう。 個人の趣味嗜好に最適化された情報が、 気分の変化に応じて提供されるようになる。 その好みはユーザ間で最適に関連づけられ、 ゆるい連帯が網の目のように張り巡らされる。 あらゆるサービスは好みの相互接続を予測して提供されるだろう。 好みによって——つまり何を選択するか、 そのときどきで生じた可能性の総体と、 実際の選択とによって個人や関係性が規定される。 そんな時代が訪れるはずだ。
ハローマックを廃業に追い込んだトイザらスは Amazon に駆逐された。 一世を風靡したタワレコや HMV はまず iTunes に、 それから Spotify のような定額制ストリーミングサービスに負けた。 同様に Amazon があと二十年で何か別のものに取って代わられ、 没落するだろうことにはほとんど確信を持っている。 Amazon は当初、 個人の好みを予測するサジェストによって人気を集めた。 しかし彼らのサジェストは実際には個人の好みにそれほど寄り添っていない。 情報の総量が不足している場合にはまるで機能せず、 Amazon 側の都合を 「あなたの好み」 として一方的に押しつけてくる。
日本の読書家の多くはまだ電子書籍に親しんでいない。 コンテンツ数も印刷版に較べて充分とはいえない。 結果、 Kindle のおすすめは Amazon 側の都合で一方的に決められる。 本ではなくガジェットに親和性のある消費者が、 たまたま目についた粗悪な商品を買い、 そのようにして売れたものが優先的に表示され、 利用者の好みを無視した売れ行きはやがて雪だるま式に膨れ上がる。 好みに応じて個別の提案をするよりも、 売れたものを売るほうが効率がいいからだ。 しかしたとえば youtube などは個人の好みに最適化された提案を実現している。 いますでに存在する機能が Amazon では充分に提供されていない。 いずれは飽きられる。
Spotify のような定額ストリーミングサービスや、 Google 検索は電気水道ガスのような公共のインフラとして今後も残るだろう (Google についていえば彼らのサービスのすべてではなく、 検索のような単純なものだけだ。 Google+ など開始当初から失敗を運命づけられていた)。 それによって彼らは見せたいものだけを見せることができ、 世界における認知の枠組みを管理できる。 Amazon はドローンを研究したり拠点を増やしたり、 実店舗をつくってみたりしているようだが物流は手強い。 ウェブ上のパケットのやりとりのようにはいくまい。 おそらく有望そうな実験にあいついで失敗し、 革新的かつ本質的な変化は起こせないまま終わるだろう。
トイザらスやタワレコも次の一手を考えなかったわけではあるまい。 パソコンの原型を考案したのはゼロックスだし、 デジカメを発明したのはコダックだ。 両社は現在でも存続しているが、 だからといって Amazon も安泰とはいえない。 そして E ストア以上に変わりようがないのがソーシャルメディアだ。 あたかも個々人の趣味嗜好を受け入れ、 同好の士を結びつけるかに見えるが、 実際にはそのようには機能せず、 つきあいを強要するものでしかない。 強要を感じないのはたまたま規定通りの人生に恵まれ、 ソーシャルに最適化された好みを持ち得ているからだ。
ソーシャルが規定するテンプレートは多様性を排除する。 同化できなければ疎外され排除される。 あるジャーナリストの言葉を借りれば 「淘汰」 される。 そのような仕組みが繁栄を誇るのは未熟なアルゴリズムがまかり通る時代だけだ。 それぞれの人生が異なるという当たり前の事実が広く受け入れられ、 それぞれの違いに寄り添わねばならない。 そのことに社会的合意がなされ、 当然と見なされるようになれば、 その真逆を指向するサービスは時代遅れになる。 そうなれば Amazon もソーシャルメディアもいずれ滅びる。 変化は遅々としているが着実に近づいている。