『悪魔とドライヴ』 のペイパーバックを準備している。 改稿版ではヒロインが教師に執着するまでの挿話を追加した。 古い版では世間の価値観に寄せたのでそのくだりは書けなかった。 ベッドにあわせて脚を切断したようなものだ。 規格化された小説なら出版する意味はない。 おなじ理由で文章も改めた。 結果としてページ数が大幅に減り、 価格を抑えられた。 あとの二冊もいずれは現在の筆名で出しなおすつもりだ。
今回の作業のためざっと目を通した。 若い頃より文章はましになったけれども小説は書けなくなった。 20 代は五百枚から七百枚くらいを年に二、 三作は書いていた。 30 代になって急に書けなくなり、 40 代では二年前に今回の本を書いたきりだ。 机を買えば書けるのでは、 という希望はやはり宝くじに夢を託すようなものだった。 読書は快適だし肩こりもなくなった。 装幀や InDesign の作業も楽になった。 しかし小説が書けたのは初日だけだ。
高さがあわない。 以前の昇降式ノートPCテーブルも低すぎるか高すぎるかにしか調整できなかった。 新しい机は靴を履くとちょうどいい高さだ。 室内で靴を履いて生活したいと以前からずっと考えている。 脱いだり履いたりも億劫だし、 履いていないと夏以外は足が冷えるし、 素足でトイレに行きたくない。 なぜ室内では靴を脱ぐことになっているのか。 畳を好むひとが多いからだろう。 あれはもともとはマットレスやクッションのようなものだった。 敷き詰めるのが贅沢ということになり貧乏人にまで広まった。 寝床に土足で立ちたいやつはいない。
地べたに近いのは不衛生な感じがする。 立ったり座ったりも億劫だ。 獅子文六は広く読まれる決心をしたとき、 愛用の机の脚を切断して畳の生活にしたそうだ。 その心境にはなれない。 クッションフロアのアパートに住んでいる。 音の響き方から考えてベニヤ板一枚の下は空洞のようだ。 革靴で歩けば傷むし騒音にもなるだろう。 妥協してサンダルで生活している。 発泡ウレタンのような素材の無印で買った安いやつだ。 冬は小さなカーボンヒーターで足許を暖めてしのいでいる。 世間の流儀にあわせて暮らすのは窮屈だ。 素足より靴がいい。
しかし足にあう靴がない。 気に入っていた靴が壊れた。 安物をいくつか試した。 先の尖った靴ばかりだ。 踵が大きすぎる上に爪先だけ狭い。 家電でも何でもそうだが同時期に買えば寿命を迎えるのも同時になる。 スーツも買った。 量販店でパンツだけ試着させられ、 裾上げの仮どめまでされて、 最後にジャケットを着せられた。 肩が異常にきつかった。 「お似合いですよ」 と適当なことをいわれて後に退けなくなった。 相当に見苦しいようで職場で笑われた。 試しに古いほうのスーツを着てみた。 気づかなかっただけでやはり肩の位置があわなかった。
とりわけ肩幅が広いとは思わないしウエストが細いわけでもない。 日本人の平均的な体型はどういうことになっているのか。 日本人の踵はイタリア人よりも狭く、 腕は角度にして 15 度も前から生えていると聞く。 人間の体はひとそれぞれ違うのだ。 むりやり規格化しておなじものを押しつけるからおかしなことになる。 世間にいわせれば規格にあわない体型がいけないのだろう。 他人と異なれば職人に仕立てさせるしかない。 それもいやなら表へ出るなということだ。 自室で机に向かうことさえ許されない。
あわないのは体型ばかりではない。 音楽は youtube と Spotify のおかげで便利になったが本にはまだ不自由する。 書店に行っても好みの小説はまず売られていない。 仕方がないから Amazon で買うが、 大量に仕入れて大量に売るのがやはり利益になるらしい。 関心のないベストセラーばかり執拗に勧められて閉口する。 youtube のように調教しようとしても無視される。 何が 「お似合いですよ」 だ。 窮屈なんだよ。 なるべくなら別の店で買いたいと思うようになった。
エルモア・レナードを読み終えたので次の本を物色した。 獅子文六の短編集が出ていると知った。 Kindle 版がまだと知って落胆した。 同時に出さないことにどんなメリットがあるのだろう。 知って即購入できる Kindle 版はウェブと相性がいい。 せっかく購入意欲を煽られても、 いつ買えるかわからないのでは諦めて忘れる。 むかしはハードカバーの数年後に文庫を出せば二度稼げた。 それでも刊行のたびに広告を打ったはずだ。 Kindle 版の発売日にも宣伝するならまだしもそれすらしない。 まるで気づいてほしくないかのようだ。
読みたい本が売られていてほしい。 好みや感情は体型以上にだれもが異なる。 売られていなければ何を読めばいい。 服や靴はなければ外に出られないから我慢して身につける。 小説はそうではない。 窮屈な規格を押しつけられるくらいなら諦めるしかない。 なくても外に出られるものだからこそ、 それぞれの人生に寄り添いたい。 そのために書いて出版したい。 獅子文六が机の脚を切ったのは、 時代が彼の言葉に飢えていたからだ。 あわない脚を切るにせよ、 切らないにせよ、 ほしいとき役に立たない小説なら意味がない。