杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第20回: Perfect Day

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.07

 母と愛人との年齢差が思ったより少なかった安堵、それでもまだ離れていることへの嫌悪、光丘秀蔵があの美貌で三十八歳のおっさんである衝撃などが頭の中で渦巻いた。しかるに明日香が実際に口にしたのは次のような感想だった。「あんなませた子が十一歳だなんておかしいと思った」
 そうじゃないとヤンパチはいった。「シュウの母親はふたまわりも下の男と再婚したんだ。シュウよりも若い男とな。あきらはその連れ子なんだ。光丘は母親のほうの苗字だ」
「つまり光丘たえさんの娘ってこと?」
「そうだ。あの勤労一徹の糞まじめな婆さんからどうしてそんな女が生まれたのかわからない。あきらの父親は専業主夫をしているらしい。シュウは恋愛や結婚をそういうものと思っている。あきらはそうじゃない。屈折したのはそのせいかもな。おれが教えたのは黙っといてくれ」
「光丘たえさんって何歳なのよ」十一歳の祖母の世代にしては名前が妙に古めかしいとは思っていた。
「若く見えたけど八十代なのはまちがいないな。下手すると九十近いかもしれん。この広い建物を掃除してまわるような歳じゃないんだよ」
「要するに赤の他人じゃない。なのにご両親はあきらちゃんを預けて離れて暮らしてるの」
「ひとんちの事情に首を突っ込むわけにもいかないだろう。たえさんは血のつながった祖母みたいにあきらを可愛がってたよ。おれは実の親に勘当されてるからこの喩えが適切かは知らんが。美樹だってシュウよりはずっと兄貴らしく接している。このアパートにふたりを住まわせたのはそれもあってのことだろう。あいつなりに考えがあるんだよ」
 明日香はあきらに玄関で食後のクッキーをせがまれたことを思い出した。初対面の求職者に祖母のことを熱心に語るあきらを、この建物のどんな場所にも想い出が染みこんでいると打ち明ける彼女を思い出した。歳の離れた兄に言及するときの表情を思い出した。両親は離れて暮らしていると話す彼女を。
 どんなことがあっても絶対に味方になってやろうと決めた。
 それから数日は拍子抜けするほど何事もなかった。向こうの出方を窺うほかに対策もない。アパートにせよウェブサイト『ぼっちの帝国』にせよ存続は田辺美樹ただひとりの意向にかかっている。辞めるつもりはないと彼が言明したところで連日のように圧力をかけられたら気が変わらぬともかぎらない。
 住民のだれもが美樹に遠慮して口にこそ出さなかったが怯えて暮らした。あきらは受験を目前にして転校を強いられるかもしれない。男たちは給与の未払いは避けられても転職は免れ得まい。二階のポルターガイスト現象は日に何度も長時間つづいた。美樹は痛ましいほど憔悴した。過集中のときとはまた様子が違い、明らかに食欲が落ちた。
 残しそうだからと彼は食事を断ろうとした。明日香は許さなかった。せっかく利用してもらえるようになったのだ。食事の重要性は家政短大でも教わった。栄養学の単位が卒業に必要だったのだ。丸写しした友人のノートを信じるなら、ひとの倍は喰わせねばあの図体は維持できないはずだった。
 ほっとけよ、そういうやつなんだよとヤンパチに忠告されながらも明日香は美樹を気にかけた。子供の頃から母親の面倒を見てきたおかげで身についた厄介な習性だ。他人が健康を害するとなぜか胸が痛む。歳下男子の世話を焼いたのもそのせいだ。しかし相手にしてみればかえって迷惑だったりする。わかっていてもやめられないのはある種の病気なのだろう。
 母にせよ美樹にせよ身体の不自由がないから関われるのかもしれない、と明日香は、卵焼きを箸先で分割する大男を眺めながら考えた。生命の責任が生じれば気遣いはあって当然とされ、不足や不手際を責め詰られるばかりとなる。十代から彼を知る友人たちは自殺を心配したという。どんな事情であれそこまで関わるつもりは明日香にはなかった。突き詰めれば業務の一環としてやっている。
 明日香が管理を任されたのは幸いにも建物である。その業務もやはり不足や不手際ばかり目につくものではあったが、他人の生命と較べれば遥かに気楽だった。歴史的な建物を後世に遺す誇りも得られた。食事の提供はやればやっただけ金も達成感も得られた。得意の技をふるっても新たな分野に挑んでも喜ばれた。腹を満たしてやることで間接的に彼らの仕事や勉学に貢献できるのが嬉しかった。
 どうにかして美樹の食欲を取り戻すと明日香は心に誓った。
 あきらが登校し、ヤンパチとマシューがそれぞれの仕事に取りかかり、彼らの食器を明日香が洗い終えてからも美樹はまだ食べていた。食品を粗末にせぬよう躾けられて育ったせいで完食を義務に感じているのだ。わかっていながら明日香は多めによそった。向かい合って座り、コーヒーを飲みながら新聞を読んだ。食べ終えると田辺美樹もコーヒーを所望した。ご褒美に無料でサービスした。
 互いに口を利かずに過ごす朝が明日香は嫌いではなかった。
 これまでの人生では努力したところで時給も上がらず感謝もされず損をするばかりだった。ネット通販会社でさえ収穫と呼ぶに値したのは鈴木春子と知り合えた事実のみ。かけがえのない友を思えばそれで充分ともいえたが、しかしそれはそれ。やり甲斐は何物にも代えがたい。体調を崩して入院するまで光丘たえが引退を決意しかねたわけが理解できた。
 とはいえ金銭と健康はさらに重要だ。いまでこそ土日も休まず働いているが、いずれ資金が貯まれば東京に戻る考えは変わらなかった。こんな男臭い職場に長居などするはずがない。だからこそ気楽に働けたしボッチーズの変人ぶりも受け流せた。ヤンパチは誤解している。溶け込んでなどいない。自分は常人の側だと明日香は信じていた。これはただの仕事なのだ。
 その頃には二階の亡霊を含む全員が夕食を利用するようになっていた。神崎陸の分はあとで美樹かあきらが盆に載せて彼の部屋へ運んだ。朝には盆が廊下へ出されている。最初は箸をつけた形跡さえなかったがいつしか綺麗に平らげられるようになった。実在は証明された。広間に降りてくる日もそう遠くないとヤンパチが予測した。認められた気がした。どんな褒め言葉より嬉しかった。
 実在したポルターガイストを除く全員でその夜も食卓を囲んだ。あきらの学校の話題になった。教室での虐めについて彼女は話した。いつも同じ服を着て風呂にもあまり入っていないかに見える女子がいる。幼稚な男子には取り囲んでからかわれ、ときには机を蹴られ、女子には陰口を利かれたり密かに厭がらせをされたりしている。その厭がらせがまた悪質で、大人に訴えれば気のせいだと笑われ、相手に抗議すればあべこべに加害者扱いされるような巧妙な手口だという。
 受験を控えているのに教室の空気が悪くなる。迷惑しているとあきらは憤った。
「いかにも小学生らしい話ね」職場でつかみ合いの喧嘩を演じた自分を棚に上げて明日香は呆れた。
「ぼくもよくデブって虐められたなぁ」マシューはしかつめらしい顔でヤンパチを指さしてみせた。「このひとに」
「実際デブじゃないか」
「うるさいチビ」
「ただちょっと小柄なだけだ。おれらの頃にもあったよ。保毛尾田保毛男」
「何それ」とあきら。
「ミンストレル・ショウってわかるか。差別する側がされる側に扮して嗤いものにする見世物だよ。昭和の時代にはそういうのがテレビで人気だった」
「差別されたの?」と興味津々であきらが訊いた。子供は容赦ないなぁと明日香は思った。
「いや。クラスに気色悪いやつがいたんだ。その綽名をつけて虐めた」
 明日香と美樹を除く三人がどっと笑った。この感覚にはついていけないと明日香は思った。
 翌日、スーパーでの買い物帰りに明日香は公園の前を通りかかった。痩せた子どもがベンチに座っている。どことなく様子がおかしかった。何をするでもなく砂場を見つめている。もうすぐ思春期にさしかかろうとする年齢に見えたが、垢じみた服は幼く丈も短かった。髪は脂っぽく膚も薄汚れており、小さすぎる靴の踵を潰して履いていた。長い髪は伸ばしているのではなくただ切る機会を逃したように見えた。
 夕食の席でその話をするとマシューが岬ちゃんじゃないのといいだした。虐められているあきらの同級生だ。そうかもとあきらは肯いた。
「家に帰りたくないから公園で時間を潰してるんだって」母親は夜の店と昼のパートを掛け持ちしており、いつも疲れていて機嫌が悪い。夕飯代として渡される三百円で普段はコンビニでおにぎりを買って食べる。母が男を連れ込むときは外で待たねばならない……といった話をあきらは語った。
「どうしてそんなこと知ってるの」
「本人に訊いた。塾帰りに公園で見かけたから」
 さぞかし執拗に問い詰めたのだろうと明日香は思った。子供にとって家庭の恥は知られたくないものだ。自分ひとりならまだしも親の責任まで負わされる。
 危ないなと美樹がいった。「おまえらが虐めてたようなやつが出没している」
 もの問いたげに眉をひそめる明日香にマシューが告げた。「あとで説明するよ」
「いや、いまのほうがいい」とヤンパチ。「あきらの前だからいわなかったがそいつはペドフィリアだった」十数年後に幼児への性暴力で逮捕され、何度も再犯をくり返しているという。「この近所でも小学生が変な男に尾けまわされたという噂がある。夜の公園にひとりでいるのは確かに危ない」
「どうにかしてあげたいけど、ひとんちの子だからなぁ」とマシュー。
「そうだが、あきらの友人だ」と美樹がいった。「どんな子か逢ってみたい」
「あした連れてきて。三百円で夕飯をご馳走するから」明日香は考えもなしに口走った。
「相手の親に訴えられても知らないぞ」とヤンパチは迷惑そうに呻いた。
 翌日あきらが連れてきたのはやはり公園で見た子だった。ヤンパチとマシューは部屋からゲーム機を持ち出してきて広間に設置した。ふたりでやるのには飽きたし、オンラインで見知らぬ他人とやるのとはまた違った愉しさがあると彼らは主張した。ふたりの中年男はふたりの子供と一緒になってゲームに打ち興じた。遊んでやっているというよりも逆に遊んでもらっているように明日香には見えた。
 約束どおり三百円をきっちり徴収して夕飯を提供した。施しではなくそういう商売なのであってコンビニのおにぎりと変わりないと明日香は説明した。伝わったかどうかはわからない。特別価格である旨は伏せた。岬は最初は狼狽し、萎縮していたがやがて笑みを見せて美味しいといってくれた。抱き締めてやりたい衝動を明日香はこらえた。風呂にも入れてやりたいし、なんなら服や靴も買い与えたかったが当然こらえた。すでに余計なお節介が過ぎている。
 それから毎日あきらはその子を連れてきた。ふたりでお喋りをしながら広間にランドセルを降ろし、明日香の焼いたクッキーを食べながら宿題をしたりゲームをしたりする。ときにはヤンパチとマシューがゲームに加わる。お菓子を食べ過ぎると夕食が入らなくなるよと明日香が叱る。夕食の支度ができると大人たちも仕事を早く切り上げて集まってくる。食卓を囲む。夕飯を終えるとヤンパチとマシューが街はずれのアパートまで送り届ける。
 子供がふたりもいると疑似家族めいた雰囲気が生じた。二階の騒音もそんなときは聞こえなかった。降りてくることはできずとも、気持だけでも同席してほしいと願って明日香は食事の盆を神崎陸の部屋の前に置いた。あきらや岬にとってそんな日々がいかなる経験であったか想像もつかない。だが少なくとも明日香にとっては人生で知るもっとも家族団欒に近い時間となった。
 平穏な日々が過ぎた。そうするうちにも田辺美樹は柳沢美彌子とやりとりを重ねていたのだが、住民のだれも知るよしもなかった。美樹が小学校に呼び出されたのはそんなある日だった。あきらが教室で暴力沙汰を起こし、同級生を負傷させたという。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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