杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第33回: People Take Pictures of Each Other

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.26

 明日香はよれよれの抜け殻となって徒歩十五分圏内の実家に戻った。
 彼女はいまや喪失感の奴隷だった。空っぽの虚無が高校時代の服を着てかろうじて立って歩いているようなものだ。見るのも厭になって返しそびれていた本を図書館に返してしまうと、持ち出すべき荷物はほとんどなかった。増えた服は納戸に預けた。あとで取りに来るつもりだったが、建物を出た瞬間にその機会は訪れないと悟った。
 退職手続の仕方はマシューもヤンパチも知らなかった。彼らには何も出て行かなくてもと引き留められた。しかしもはやアパートにいる理由は何ひとつない。あきらもいないし仕事もない。田辺美樹には嫌われた。留まってもボッチーズの邪魔になるだけだ。実家に落ち着いたらあきらに連絡をとろうと考えた。提出すべき書類についてはそのとき訊けばいい。
 実家は出て行ったときのまま何ひとつ変わらなかった。母に挨拶すると上の空でああうん、おかえりと返された。案の定、娘が一度は家を離れたことにさえ気づいていない様子だった。
 出戻り娘を光丘秀蔵は優しく迎え入れてくれた。明日香は涙が滲みそうになった。戻った理由は訊かれなかった。あるいはボッチーズから聞いていて、あえて触れずにいてくれたのかもしれない。
 夕飯に熱々のシチューと香ばしいバゲットを出された。締め切りが近い母は仕事部屋で食べるという。はからずも光丘秀蔵とふたりきりの食卓となった。美青年と思い込んでいたときには緊張したが、ボッチーズと同い年と知ったいまでは気まずいほどのことはなかった。かといって話すこともない。明日香は黙々と匙を口へ運んだ。美味しい、というただそれだけのことでさえ涙が出そうになる。
 その様子を見つめていた光丘秀蔵が「好物じゃないんでしょ」と唐突にいった。
「は?」
「お母さんが勝手にそう決めつけただけで、否定するのも面倒だからそういうことにしてるんでしょ」
「じゃあなんで……」
「僕が食べたかったからです」光丘秀蔵は爽やかに笑った。「トゥモロウさんの顔を見たら、なんだか急に」
「本名で呼ばないで」
「美樹さんはいい名だといってましたけどね」
 明日香は動揺した。そしてそのことを見抜かれたのが秀蔵の表情からわかった。
 食後に紅茶を飲みながら高校時代の話を聞いた。
 田辺美樹と河元真琴と摩周和己、それに柳沢美彌子を加えた四人はいつも一緒にいた。美彌子はあまり男子たちに歓迎されていなかった。三人で談笑しているところへ強引に割り込んで恋人を引き離そうとした。男子ふたりは負けじと親友を独占しようとし、そのため美樹はつねにふたつの話題に同時に付き合うはめになった。彼はいわゆる聖徳太子のように平然と矛盾なく会話ができた。のちにプロ作家となってから、取材に応じつつ執筆する特技を発揮したのはこのときの訓練が活かされたのだろう。
 光丘秀蔵はそうした四人の様子をいつも離れた位置から眺めていた。羨ましかった。それはあたかも青春時代と題された一幅の絵画のようだったと彼は語った。
 明日香は十七、八歳の田辺美樹を想像した。彼を取り合うボッチーズと柳沢美彌子を思い描いた。全員がいまよりもずっと幸福そうに思えた。
「気の毒に」また唐突に光丘秀蔵がいった。
「何が」
「あの男は鈍感ですよ。あなたの気持には気づかない。関心もない」
「あたしの気持?」
「あぁ、自覚がなかったんですね」光丘秀蔵は肩をすくめて立ち上がり、食器を片づけた。「失礼しました。忘れてください」
 明日香は自堕落な日々に戻った。カーテンを締めきった居間のソファで毎日をやり過ごした。職探しどころか何をする気力も出ない。キヨタカ先輩にふられたときでさえこれほどのダメージは受けなかった。アパートの職を得る前にここで見たドキュメンタリーを思い出した。あの頃は他人事だった。いまではまるで自分もテロの被害に遭ったかのような気分だ。いまなら被害者遺族に共感できそうな気がした。
 ソーシャルメディアのタイムラインは『ぼっちの帝国』でもちきりだった。思い出すので携帯に触れたくなかった。求人情報すら見なくなり、携帯はコンセントに繋いだまま何日も放置された。既読すらつけぬ明日香を友人たちは次第に無視するようになった。
 明日香は携帯の存在を忘れた。だれとも繋がりたくなかったし、だれも彼女を求めなかった。
 その携帯が急に鳴った。ソファで天井を見つめていた明日香は心臓が縮み上がるほど驚いた。田辺美樹の顔を思い浮かべ、連絡先を教えていないことを思い出した。いつも顔を合わせていたから必要性を感じなかった。得体の知れぬ不安と恐怖にとらわれてソファから動けず、振動しつづける携帯を見つめた。
 やがて携帯は静かになった。怒り狂う生物が息絶えたかのように明日香には思えた。数分間じっと息を潜めて携帯を見つめつづけた。それから溜めていた息を吐き出し、意を決して手を伸ばした。
 着信、一件。キヨタカ先輩からだった。混乱した。いまさら何の用だ。
 携帯が再び息を吹き返したかのように振動した。驚いて放り出しそうになった。ソーシャルメディアのメッセージ着信。やはり先輩からだ。なぜ電話に出ないのかと問い詰めるような文面だった。
 明日香にはわけがわからなかった。これ以上だれかに嫌われたくないし怒られるのも怖い。ごめんなさい気づかなくてと弁解にならぬ返事をした。金曜の夜は空いているかと問われた。何の用かと問うと答えはなく、店名と時間を示されてそこで待っているとのみ一方的に告げられた。
 断る気力もない。断ったところで聞き入れてもらえそうな文面ではなかった。悶々と悩むうちにあっという間に金曜が訪れた。朝から幾度となく携帯を手にして断りの文句を入力し、送信する寸前で思いとどまった。着飾る気力はない。さすがにジャージからは着替えたが化粧もせず近所のコンビニにでも行くようなジーンズとTシャツと運動靴で出向いた。どうせろくな用件ではあるまい。
 呼び出された場所は欧州料理店だった。外国語の店名から先日のタピオカ屋のような店を想像していた。入店を断られそうになった。別の店員が慌てて近づいてきて最初の店員に耳打ちした。最初の店員は渋い顔で肯いて席へ案内してくれた。キヨタカ先輩が失望したような顔で待っていた。
 ほのかに黴と埃の匂いのする高そうなワインが開けられ、高そうなコース料理が運ばれた。通夜のような食事だった。値段が気になって味がしない。話題も特にない。明日香は緊張のあまり食器で音を立てた。服装のせいもあって店内の注目を集めているのには気づいていた。ナイフを落とした。拾おうとしてキヨタカ先輩に制された。店員が渋い顔で新しいのを持ってきてくれた。
 デザートを食べ終えた頃に本題が切り出された。「を受けとってほしい」という。
 小箱がひらかれ目の前に差し出された。明日香は思わず目を剝き出した。
 あぁ、よく輝いているね。見たところ噛みつかれたり電撃が走ったりする玩具には思えない。大粒のダイヤが飾られた立て爪リングは模造品には見えずむしろ四十万はしそうに思える。
 何が目的だ。冗談か。ふられた相手から贈り物をされる謂われはない。これを売って生活費にでも充てろという厭味か。職と住居を再び喪ったとはいえ、そのような侮辱に耐えるつもりはない。
「急で驚いているんだね」
「ええ、まぁ」
「やっぱり忘れられない。好きなんだ。結婚してほしい」
「はあ?」
「別れてるあいだずっときみのことを考えていた。美術部時代もそうだった。本当は声をかけたくてたまらなかった。毎晩のようにきみの夢を見た。再会できたのは運命だ。諦めようとしたのはまちがいだった。ほかに好きな男がいても構わない。もう二度と離したくない」
 ほかに好きな男? 明日香はさらに混乱した。突っ込みどころが多すぎて処理しきれない。「……ええと、結婚っておっしゃいました?」
 キヨタカ先輩は必死の形相で肯いた。彼もまた食事中ずっと緊張していたのだと明日香は気づいた。相変わらずわけがわからなかったが、彼女は急に体温が下がるように奇妙に冷静になった。「ちょっと待ってください」と要求した。「どういうことかもう少し詳しく、わかるように説明してください」
 それから小一時間に渡って先輩の口から、明日香には憶えのない高校時代の逸話が思い入れたっぷりに語られた。あのとき、きみはこういった。あのときにはこうだった……。
 少し気持悪かったがそんなふうに情熱的に男性から求められたのは初めてだった。断るのも面倒だったし、差し出された高額商品を薬指に通してみたいという本能的な欲求にも駆られた。不自然な体勢のまま口説きつづける先輩が不憫にも感じられた。見ているだけでこっちの腕まで攣りそうだ。彼はきっと翌日には筋肉痛になる。
 そうか苗字が変わるのか……と明日香はふと考えた。それも悪くない。免許証を書き換えなくちゃ。派遣会社の登録もだ。面倒だな。帰ったらタマミに報告するか。そして重大な事実に思い至った。
 あたしはキヨタカ先輩の苗字を知らない。
 目の前にいる男のフルネームは何だ。自分は何トゥモロウに変わるのだ。千載一遇の好機を逃したくはないが、かといって相手の苗字も知らずに受け入れるわけにもいかない。
 その場の空気に流されずに踏みとどまるには全身全霊の力を要した。礼を失せぬよう笑顔をつくり、嬉しいと謝辞を述べ、綺麗ねと四十万を褒め、しかるのちに返事は少し待ってくれと頼んだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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