杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第2回: ジェリビーンズの雨

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.19

 好きな男性タレントはいますかと派遣会社の担当者はだしぬけに尋ねた。
 頭頂部をやや長めに残して両脇を刈り上げた髪型は腕のいい美容師によるものらしく、おかげで撤退戦に転じつつある額の生え際が目立たない。欠点といえばそれくらいで、見るからに吊るしではない身ぎれいなスーツ姿は美男子に属しているといってよかった。発音や話し方は明瞭で営業スマイルにもそつがなく、好印象を与える立ち居振舞いを日頃から研究しているのだろうと察せられ、明日香をして生理的警戒心を抱かしむるに充分だった。
 人生負け通しの彼女には身ぎれいでそつのない笑みを浮かべた男はみな搾取する側に見えた。現にいまこの男は彼女の生殺与奪権を握っている。有利な側に立つからこその笑みである。しかもその笑みには微量とはいえ迷惑そうな色が混入している。その程度の隙を見せても構わない程度の扱いなのだ。そしてその事実をそれとなく伝えている。
 面談ブースのテーブルや椅子は現代的なデザインだが安っぽい素材だった。若い男女が笑顔で働く嘘くさい写真と社会貢献を謳う宣伝文句をあしらったパンフレットが数部、無造作に置いてある。担当者と向かい合った明日香はいつになく攻めの姿勢を見せ、やる気のあるところを気魄で訴えた。
 担当者はその手の失業者には慣れているらしく、使い勝手のいい「申し訳なさそうな同情の顔つき」を貼りつけて、もう紹介できる仕事はないとあっさり告げた。何も。何ひとつ。皆無だという。それだけ告げて立ち去りたそうだった。本来あなたに割く時間はないんです、仕事が山積しているんだ、ほら浮き上がる尻を押さえるのに苦労しているよ、大人ならぜひとも空気を読んでいただきたいという態度を隠そうともしなかった。
 あとで冷静に考えれば格闘の直後でアドレナリンが血中を巡っていたのだろう。そんなことはあるまい何かあるはずだと明日香は喰い下がり、現につい先日もコールセンターの若い子がダブルワーク先をあなたに紹介されたばかりだと主張した。たまたまタイミングがよかったんですとでも弁解されるかと思いきや、担当者はそれすらせずに戦術を変え、国家経済と派遣業務の趨勢をめぐる迂遠なレトリックを展開しはじめた。
 家政短大デザイン科卒で主にブルーカラーを転々としている明日香の職歴は担当者なら知らぬはずはなく、侮られ煙に巻かれたのは明白だったがやはり頭脳が及ばず悔しかった。かろうじて理解したところによれば要するにさしたる技能も職歴もない二十八歳の女に企業は用がないということらしかった。
 若くて美しければいいんですか、それとも男ならということですか。明日香は相手のネクタイをつかんで締めあげたい衝動をこらえ、代わりに両手をついたら嘘くさい小冊子がテーブルから飛び出しそうになった。同い年の担当者は当てつけがましく困ったように笑ってみせた。あたかも育ちの悪い子供のわがままに手を焼いたかのような態度だ。
 植民地における支配階級と現地人さながらに、この国では男は大人、女は子供の扱いでだれもそのことを疑わない。血液型占いほどにも根拠があるのかは知らないが、かの有名大学だって女は男よりコミュニケーション能力が高いと医学的見解を発表したというのに。家政科から派生した中途半端なデザイン学科を出ただけであっても、男女雇用機会均等法の存在くらいは明日香も知っている。しかしそれが一九八五年当時のポリゴンCGよりもリアルな餅であったなら、これまで転々としてきた職場がいずれもあのようであったはずはない。
 そのようなことを雄弁にまくし立てればあるいは職は紹介されずとも担当者の印象は多少なりとも変わっていたかもしれない。いいほうへ変わったかは疑問だが、少なくともああまで侮られはしなかったろう。実際には明日香は隠しきれない悔しさを滲ませてただ犬のように相手を睨み上げ、ううと低く唸っただけだった。勇敢な犬ではなく尻尾を巻いた負け犬そのものだったしそのことを自覚してもいた。ぐうの音も出ぬとはこのことだ。
 そんな求職者を得意げに見下ろして担当者が発したのが冒頭の質問である。スキナダンセイタレントハイマスカ。明日香は意図をはかりかねた。どんな回答を求められているのか。どう答えれば正解なのだ。当たれば職をくれるのか。ここはいつからそんな愉快な会社になったのだ。
「『レイヤー・ケーキ』のダニエル・クレイグ」
 担当者は一瞬、面喰らった様子を見せたが営業スマイルを持ち直し、いいですよねダニエル……と言葉に詰まった。クレイグ、と助け船を出してやりながら明日香は内心そこかよと失望し、失望したということは何かこの会話に期待でもしていたのだろうかと自分がわからなくなった。伝統的なスパイ映画を演じる直前のぱっとしないB級作品どころか俳優の名さえ知らなかった男は、そんなことは気にも留めぬ様子で「男の魅力を感じますよね」としれっと続けた。「ダニエルと結婚したいですよね」
 もうクレイグを忘れたかと思いながら明日香は、はぁ、まぁそうですねと適当な相槌を打った。この話の目的地はどこだ、どこへ連れていかれるのだ。青と黄色に塗られたバスに乗せられて退屈な茶番劇を演じさせられるかのような気分になった。そして次の台詞でこの前衛的な会話には脚本が、というよりネタ元が存在し、おそらくそれは自己啓発書の類であったろうことが判明した。
「でもダニエルとは結婚できない。求職のマッチングとはそういうことです。明日香さんはもっと自己分析を深めたほうがいいと思います」
 明日香は思わず口をあんぐり開けて担当者を見つめた。空調が低い音を立てていた。コールセンターとは異なる音で電話が鳴り、プリンタが唸って大量の紙を吐き出し、ハイヒールが通り過ぎ、隣のブースから打ち解けた男女の笑い声が聞こえた。
 不意に部屋が暑いことに気づいた。胸元が見えないようコートのボタンを襟まで留めていたからだ。そういえば脱ぐことを勧められなかったとそのときになって気づいた。深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているというが担当者もまた明日香を見つめていた。あるいは彼女のあんぐり開いた深淵に興味を惹かれたのかもしれない。お酒は好きですかと訊かれた。
 今度は酒か。セイウチの着ぐるみはどこだ。想定されるあらゆる説教に身構えながら明日香は、はぁ、そこそこと答えて乾いた唇を舐めてから尋ねた。「飲食業を紹介してくれる気になったんですか」この期に及んでそんなわけがないのは理解していた。
「いやそういうことではなくてですね」
 いくら鈍くても三十路間近にもなればさすがに察する。いい淀む相手の表情に明日香は血の気がひいた。ああ、くるぞくるぞくるぞ。
「明日香さんとは少し時間をとってじっくり話す必要があります。仕事を早めに片づけますから、あとで飲みに行きませんか」
 きた。
「先約があるので」明日香は喰い気味に叫ぶとテーブルに手をついて立ち上がった。パンフレットが床に落ちた。拾わずに鞄をひっつかんでブースを出た。
「これからはいくらでも暇なんじゃないですか」嘲りの笑いを含んだ担当者の声が背後に聞こえた。
 肩を怒らせて大股に歩きながら、同時に心中では大いに肩を落としていた。どうしていつもいつもこうなのだ。好意を寄せられたのならまだ救いがある。そうではない。容易にやり棄てられると踏まれたのだ。それも労働力の代わりに性的価値を認められたのであれば百歩譲って片頬くらい笑ってやってもいい。そうではなく無料同然の札をつけられた惣菜を処分品のワゴンで見て、まずそうだけど食べてやってもいいかなとなんとなく手にしてみただけのような扱いだった。
 ……いや、そんなことですらなかったのかもしれない。ただ単に体よく追い出されたのだ。使えない求職者相手にいつも使っている手なのだろう。
 派遣会社の高層ビルに嘲笑され追い立てられるかのような気分だった。おまえなんかにやる仕事はないよ。顔を洗って出直しな。失望に打ちのめされて担当者への怒りさえ勢いを失っていた。とぼとぼと歩くというのがどういうことか知りたければいまの自分を見るがよかろうと明日香は考えた。
 しかし落ち込んでばかりもいられない。元気をチャージするのだ。どんなに追い詰められてもあたしには前向きになれる手段がある。鞄から携帯を出した。むろん今度かけるのは派遣会社ではない。セクハラ担当者のような男とは似ても似つかぬ素敵な彼氏に慰めてもらうのだ。
 犬を飼うひとり暮らしの女の気持が明日香には理解できた。こんな日のために普段から金のかかる餌や玩具を与え、手間暇かけてブラッシングしたりトリミングしたりして面倒を見てやっているのだ。愛の力は偉大だ。クレーム対応と違って投じただけ報われる。早くも気分がよくなるのを感じた。コーヒー一杯二百円のチェーン店で待つことにした。レジで財布を覗いて溜息をついた。残金五千円。
 貯金がないわけではないが『百万円と苦虫女』の蒼井優のように心機一転できるほどの額ではない。三十路間近でこの経済力だ。浮上しかけた気分がまた低下した。こんな出費さえ節約すべきときだったが時間を潰せる場所はほかにない。女子高時代は寒風に吹かれながら公園のベンチで進路や憧れの先輩について親友と語り合ったものだ。この歳で同じことをやれば通報されかねない。どうしてあたしは大人になってしまったんだろう。あの頃に空想した大人はこんなじゃなかった。
 映画の連想がいかに縁起が悪かったかこの時点ではまだ知らない。
 コーヒーは薄くてまずかった。全面禁煙になってから塗り替えられていないらしく店の壁は黄ばんで薄汚れていた。それでも恋人に会えると思えば素敵な場所に思えた。彼にしても逢引の場所に文句をいうような身分ではない。彼はまだ学生なのだ。団塊じじいに泣かされていたあの子と同じ年齢だ。彼女は無事に次のバイト先へ向かえただろうか。
 とりとめのないことを考えながらも明日香はほぼ無意識に、彼氏の目に映る自分を少しでもよく見せようと髪をいじり、顔の角度を工夫し、そういう次元ではなかったのを思い出してコートの襟元をかき寄せたりした。なくしたピアスに気づいてくれるだろうか。何があったか身ぶり手ぶりをまじえて語って聞かせよう。きっと笑い飛ばして気分を軽くしてくれるだろう。そうして優しく慰めてくれるだろう……ああ、かわいい歳下と付き合ってよかった。
 店のドアが開いた。振り向いて手を挙げきらぬうちに笑顔が凍りつき、手は招き猫のような中途半端な位置に留まった。店内が静まった。男たちの視線が入口に集中するのを明日香は全身で感じた。彼女自身の視線も釘づけだったし同じく声も出なかった。こういうのをライヴ会場の一体感というのだろう。しかし明日香の理由は異なった。
 入ってきたカップルの男のほうは紛れもなく彼氏だった。その瞬間までは自分の、だと思っていたがいまや甚だ怪しい。女のほうは知らなかった。知っていたらもっと早く世界に対する認識を改めていた。
 くだんのSVがキャバ嬢ならその娘は娼婦だった。男の腕に自分の腕を絡め、関心のない用事に付き合わされた女ならではの目つきで、退屈そうに店内を見まわした。濃すぎるマスカラと烏の羽根のようなつけ睫毛、ジェリビーンズのようにこってり塗った口紅。ありえないほど横に伸びたTシャツの胸元は大きく開いていた。もしも寸足らずの裾から覗く腹までもが横に伸びていたら痛快だったが生憎そうではなかった。むしろ内蔵の存在が危ぶまれた。いうまでもなくその高低差が店内の視線を惹きつけたのだ。
 わずか数秒前まで彼氏だと思っていた男子学生はその彼女を伴って明日香の席へ近づいた。普段と何ひとつ変わらぬあどけない表情だった。またシャツの裾に糸屑がついてる、と明日香は思った。しかし払ってはやらなかった。そのくらいの理性と自尊心は残っていた。だれこいつと女がいうのが聞こえた。金くれるオバサンと男のほうが答えた。うわ趣味わる、と女が本人の目の前で吐き棄てるようにいった。彼氏の性癖を、つまり近年の誤用でいうところの性癖だが、茶化す風でもあった。
 コールセンターのバイト学生がいかにいい子だったか明日香はしみじみと実感した。卒業してちゃんとしたとこに就職してまともな男をみつけて幸せになんなよ、あたしみたいになるんじゃないよ。
「というわけだから」と男は手を差し出した。明日香は麻痺したように何の感情もなかった。何、と平静を装って尋ねた。自分でも意外なことに声は慄えなかった。クレーム対応で鍛えた成果だ。育ちの悪い女子大生の前でせめて余裕のある大人の女を演じてみせようとした。こんなことでは動じないの。あなたたち子供とは違うのよ。
「金だよ」と元彼氏は呆れたようにいった。まるで物分かりの悪い子供に説いて聞かせるように。「自覚あんだろ、あんたの価値はそれだけだって」


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
ぼっちの帝国