日本でいえばさいたま市浦和区在住の市営バス運転手 「浦和さん」 といったところか。 千葉市の千葉さんでもいいのだけれどニュージャージーはなんとなく埼玉のイメージだ。 トム・ウェイツにジャージー・ガールという曲があってそれがなんとなく埼玉っぽいんだよ。 どの街も行ったことないから根拠のない勝手な空想だけど。 『ナイト・オン・ザ・プラネット』 がタクシーの話だったようにこちらはバスの話。 タクシーのほうは基本的に何も起きない話であることに当時感心したのだけれども (たとえばふつうの映画なら映画プロデューサーがスターを見出す話になるのに、 ウィノナ・ライダーの夢は自動車整備工のままで、 プロデューサーは口説き落とせなかったことをむしろ愉快に感じる、 といった風)、 バスのほうは日常の範囲内でありながら意外に劇的、 というか喜劇的に感じられた。 くりかえしのようでいて地味にかつ過激にエスカレートしていく。
パターソン宅では変な美人妻の個性が炸裂する。 通販のギターを注文してカントリー歌手になると宣言したり。 あんたの夢は白黒カップケーキで大儲けすることじゃなかったのかよ、 そのギター気に入ったの絶対白黒だからだろというね。 晴れ舞台の週末には創作意欲が完全に行きすぎてモノトーン版の草間彌生みたいになる。 白黒であんなに派手にできるのは才能だ。 週末に近づくにつれ奥さんのテンションがあがり、 反対にパターソン氏は疲弊し衰弱していき、 奥さんのひと言がきっかけでやたら双子が気になりだし、 起きる時間が遅れてバスまで故障して、 近所の行きつけの酒場では失恋男の頭のねじが飛び、 話し相手の店主は女の子を口説き⋯⋯となんだか調子が狂ってしまい、 しまいには奥さんとデートに出かけて帰宅すると、 置いてきぼりにされた犬が腹いせにノートを粉々に引き裂いている。
このノートというのが、 パターソン氏が大切にしているもので、 バスを車庫から出す前や休憩中、 夕食前といったちょっとした時間に、 彼が創造的な気分になると、 ルー・リードが趣味でやっていたみたいな音楽、 あとで調べたらジム・ジャームッシュ自身がやってるバンドの曲らしいんだけど、 が鳴りはじめて、 彼はそこに詩を書きつけるという、 そんな不思議なノートなのだった。 この詩がけっこうよくて、 これも調べたら脚本家ではなく本職の詩人が書いたものらしい。 朗読もまたいい感じで、 いままさに書いている場面の読み方と、 つづきを書く場面ではおなじ箇所でも読み方がちがう。 パターソン氏の創作意欲が伝わってくる。
最大の山場であるノート喪失事件に、 パターソン氏がどう対処するかが個人的にとても関心があった。 何しろ奥さんにしつこく勧められてもいっさいコピーをとらずにいたし、 そもそもパソコンも携帯も持たず、 したがって清書することもインターネットに公開することもない。 書いた詩は彼自身と奥さんしか読むことはない。 彼は別にそれで喰いたいわけでも有名になりたいわけでも、 世に問おうとかいうわけでもないのだ。 であればせっかく書いた詩がこの世から消えてなくなったところで気にしないのではと思ったが、 パターソン氏はそれなりに打撃を受けてしょげかえる。 しかし愚痴が趣味の仕事仲間に、 なんかあったの、 と訊かれても一瞬迷ってから、 いや別に、 と答えるし、 大事なノートだとわかっていながら引き裂いた犬に対しても、 おまえなんかきらいだよ、 というきりだ。 温度感が低い。
他人に読ませるためには書いていない。 けれどもどうでもいいと思っているわけでもない。 要するにあのノートを気に入って大切にしていたのだ。 自分とおなじ名前の街でバスの運転手をしながらあのノートに詩を書く時間、 あのノートに詩を書く生活を愛していたのだ。 奥さんを愛しているからといって、 愛の行為を公開したりはしないように。 大切にするとはそういうことだ。 書いた言葉が失われたことよりも、 あのノート自体が失われたことを惜しんでいる。 これまでうまく言葉が見つからなかったけれども、 おれもあんな感じで小説を書きたいのだとわかった。 暮らしの一部として、 ほかのだれでもない自分のために。
ジャームッシュの映画にはよく 「変な外人」 が登場するのだけれども、 そこへわれらの兄貴、 永瀬氏が、 変な結び方のネクタイと大きすぎるスーツで現れて、 おかしな英語であーはー? とかいいながら (変人には慣れているはずのパターソン氏でさえ思わずなんだよそれ? と噴き出しちゃうくらい) 新たな魔法のノートをくれる。 友情出演のちょい役くらいに聞いていたけれどもめちゃくちゃ重要な役じゃないですか。 物語において神とか天使とか、 何かそういう特別な位置を担う役。 主人公が迷ったとき道を示して立ち去る、 そういう人物だ。 パターソン氏はまた彼の街で詩を書きはじめるのだろうな、 という予感を残して物語は終わる。 高野文子 『奥村さんのお茄子』 を思い出した。 主題も見せ方も似ている。 雑誌掲載時と単行本版ではまったく別物になっていて、 雑誌のほうを一時期は大切に持っていたのだけれどもいろいろあって棄ててしまった。 別に犬に引き裂かれたわけではない。