読むのが苦痛だった。 内側と表面がつながっていないと糾弾される主人公は、 そのままこの小説の歪さでもある。 たとえば主人公の異常性を描写する手管が聖書とか折り鶴とかいった優等生くさく、 かつ調子外れのもので、 それは確かに意図した通りの機能は果たしているようなのだけれども、 書いているものの異常性を作家がどこまで客観的に自覚しているのか怪しい。 文章にしてもいかにも文学でございといった引用やレトリックで無理に飾り立てている。 実際には登場人物の行動を示すだけで完全に機能する。 それだけの力をこの物語は持っている。 もっと信用して無造作に放り出せば、 主人公の異常行動だけを淡々と記せばこの小説は傑作になり得た。 あたかも頭のよさだけが価値である優等生が必死に大人の関心をつなぎとめようとするかのように、 他人に評価されそうな言葉をよそからでたらめにかき集めてきたかのようだ。 そうかと思えば、 ごてごてと盛りつけた陳腐な文章にときおり唐突に天才の鋭さが覗きもする。 まるでホイップクリームに混入したガラス片だ。 十代のこころの軟らかな粘膜を傷つけるのが小説だとすればその瞬間この小説はまさしく小説となる。 結末だって悪くない。 関係性の危険な越境をあのように象徴的に描くのだって天才の仕事だと思う。 思うのだけれど⋯⋯。 なぜ 「私」 の自意識を、 そんなものが存在しない人間を書くのにおいてさえ書こうとするのか。 それが日本文学の伝統だから従わねばならないとでも思い込んでいるのか。 そもそも自分というものが存在しない BPD (境界性人格障害) の主人公に対して 「ひらいて」 というのも違う気がする。 ひらくも何もあなたは何者でもないでしょう。 ひらいてみせたところで何もないから持っている男女に嫉妬して破壊する、 それがこの物語の主題であるはずなのに捉え方がずれている。 主人公が世界を捉え損ねた話のはずが作家が物語を捉え損ねている。 十代で恋愛をホラーとして描くのに成功した作家が大人になってその先をやろうとして、 それでどうしてこうなるのか。 才能からも実力からも書けたはずの傑作がこのように台なしにされるのを目の当たりにして落胆と怒りを禁じ得ない。 しかしあるいはそのような凡庸さを獲得したからこそこの作家は 「淘汰」 もされずヴェルヴェッツのパロディバンドなんかやらずに済んでいるのかもしれない。 「ニーズ」 とか 「わかりやすさ」 といったものはそのようなものなのだろう。
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読んだ人:杜 昌彦
(2018年10月26日)
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
『ひらいて』の次にはこれを読め!