杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第10回: 明日香とあきら

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.03.21

 商店でも会社でもないが民家にも見えない。表札もない。いわくがありそうな古い建物で、だれも出入りする気配がないのに荒れ果てるでもなく、長いあいだ不思議に思いながら前を通っていて、ある日気がつくといつのまにかなくなっている。いつからあったのか、何に使われていたのか、だれに尋ねても答えは得られない。喩えていうならそんな建物が取り壊されることもなく、子供時代から変わらずにあり続けていて、そこにいま明日香は実際に立ち入ろうとしていた。
 上げ下げ窓のあるコンクリートの帯と煉瓦タイルを張った帯とが交互に並ぶ、縞模様のような鉄筋コンクリート造りの建物だ。丸みを帯びた正面は三本の道が交わる角にあり、玄関は古典様式の柱に挟まれている。陸屋根の張出し部分や玄関庇の持送りといった装飾はアールデコ風で、建てられた当初は地方の住宅街には場違いなほどモダンに見えたことだろう。
 明日香は玄関の段を上がり、重そうな扉の前に立った。分厚い一枚板のように見え、下半分には彫刻が施されていて上半分は型板ガラスになっている。深呼吸して呼び鈴を押した。遠くでじりりりり、といじけてやる気をなくした警報のようなひずんだ音がした。ぱたぱたと足音が近づき型板ガラスに影が落ちた。が、頭の位置が低すぎる。扉の向こう側は低く沈んでいるのだろうか。内見の予約をした者ですと扉越しに声をかけた。錠が外される音がして扉が開いた。
 両耳の上で髪を束ねたオーバーオールの女の子が立っていた。世の男性管理職が部下をお茶汲み扱いする意味においてではなく実際に女児だった。小学五年生くらいに見えた。運動靴を履いている。不審そうに眉根を寄せて無遠慮にじろじろと明日香を見上げた。明日香はもう一度同じことをいった。
「ああ!」と少女は笑った。「内見なんて変なこというから。そういうときは光丘さんの紹介で、とかいっときゃいいのよ」
 変なこと?
「うち入居者は募集してないのよ。特に女は。兄から聞いてるわ。ぼさっと突っ立っていても時間の無駄。靴は脱がなくていいから」上下を逆にした招き猫のような手つきで上がるよう指示するや、少女は振り向きもせずに歩き出した。
 特に女は? 入居者を募集していないのならなぜ自分は吹き抜けの玄関ホールに立っているのか。正面の窓のおかげでホールは明るいが階段の奥へ伸びる廊下は薄暗かった。廊下は天井がアーチになっていて床は板張りだった。外壁は鉄筋でも内側は木造のように見えた。右手の棚には男物の靴ばかりが並んでいる。
 明日香は話が違う、いますぐ帰ろうと思いつつも少女に声をかけることができなかった。いまや光丘秀蔵に騙されたのも主導権をその妹に握られたのも明白だった。兄に何をどう騙されたのか、妹に何をどう誤解されたのか知りようもないが従うしかなかった。当然のような顔で先を行く少女を明日香は追った。
 少女は光丘あきらと名乗った。十一歳だという。大人びた、というより明日香よりも歳上なのではないかと錯覚するような世慣れた大人そのものの口調で彼女は話した。どんな育ち方をしたのかと明日香は訝しんだ。あるいは彼女にはこれが自然なのかもしれない。であればこの子にはさぞかし大人が愚かに見えるだろう。初対面でも旧知の間柄と変わらずに接することのできる女が世の中には存在する。あきらはまさにそのタイプらしかった。
 広い部屋に通された。明日香によれば住民が集まって話したり宴会をひらいたりするのに使われているという。もとは応接室とダイニングだったが数年前に壁をぶち抜いてひと部屋にしたそうだ。おそらくその名残なのだろう、中央に柱がある。縦長の窓が等間隔で並んでいるために明るい。
 人生を踏み誤らなければデザインの道へ進みたかった明日香は家具に興味を惹かれた。六人が一度に食事を摂れるテーブルと椅子。座り心地のよさそうなソファもある。ミッドセンチュリーよりも古い様式なのにモダンで洗練されたデザインに思えた。あきらの解説によればそれらの家具は建築家が建物とあわせて設計したのだという。壁をぶち抜いたのと同じときに布だけ張り替えたのだ。
 ダイニングチェアを薦められた。見た目以上に座り心地がいい。いくらくらいするんだろう、と明日香は思わず考えた。あきらはキッチンユニットの前にあるバーチェアに座って話しはじめた。この椅子だけは今世紀の工業製品で、あきらのお気に入りの場所だと明日香はのちに知る。
 建物の所有者は田辺家という戦前からの富豪だそうで、光丘家はその家に代々仕えていた家系なのだそうだ。あきらは幼い頃から、というのは彼女自身の言葉であって明日香にしてみれば現在のあきらも充分に幼いのだが、祖母とともに住み込みの管理人をしていた。細やかな気遣いで住人の世話を焼いていた祖母は二週間前に体調を崩して入院した。経過は良好だが仕事に戻るのは歳も考えると現実的ではない。引退を決めた。
 あきら自身も今後は中学受験で忙しくなる。小学生ひとりで建物の手入れをし家賃を回収し四人の大人を世話するのは不可能だ。海外にいる両親はあてにならない。代わりの管理人を探していたと説明された。
「住み込みの?」
「そうよ。兄から聞いたでしょ。だから来たんじゃないの」なんだこの大人は頭がおかしいのかという目で見られた。
 明日香は改めて部屋を見まわした。高価そうなオーディオやら大画面モニターやら撞球台やらピンボールマシンやらが目についた。壁につくりつけの書棚には推理小説や現代文学が詰まっていてアイランドキッチンの背後には蒸留酒やリキュールの類いが並んでいる。照明は天井のレールに取りつけたスポットライトでまるで酒場だ。思い返せば確かに光丘秀蔵は「異性出入り厳禁の単身者向けアパート」としかいわなかった。女子大の学生寮でもないのにとはいったが女子寮とはひと言もいっていない。列挙された住人もどちらの性別ともとれる名前ばかりだった。
 ここは独身女性向けの男子禁制アパートではない。その逆だ。
 男子寮の住み込み管理人だって? 団塊じじいに電話で数時間も人格否定され、派遣会社の担当者には仕事が欲しければおれと寝ろといわんばかりのパワハラを受け、ペットのように可愛がっていた男子大学生には裏切られ、電車に乗れば痴漢に遭うこのあたしが? しかも光丘秀蔵は寮母のような仕事、といってはいなかったか。光丘あきらの口からも祖母が住人の世話を焼いていたと聞いたばかりだ。いまどきどうしてそんな旧弊なジェンダーロールを押しつけられねばならぬのか。冗談じゃない。
 仕事がほしいのは山々だし住居も得られるなら一挙両得、昭和モダン建築とデザイナー家具にも興味をそそられるがやはり無理だ。あり得ない。求職の面接に訪れたつもりはないと説明しようとした。お兄さんとの会話で行き違いがあったのだと。
 あきらは話しながらまるで顕微鏡で微生物を観察するかのように明日香の顔をじっと見つめていたが、明日香が意を決して口を開こうとするや、遮るかのようにバーチェアから飛び降りた。冷蔵庫からドクターペッパーを二本取り出して片方を手渡し、で? と明日香に尋ねた。
 やはり子供は苦手だと明日香は改めて思った。調子が狂う。何を問われたのかわからなかった。
「なんでそんな変な名前なのよ。てっきり男かと思ったじゃない」
 バーチェアに戻った光丘あきらは、好奇心を隠そうともせずに缶のプルリングを起こした。相手が初めて年齢相応に見えた。飲み物を手にアニメ映画か何かがはじまるのを待つ子供だ。その兄が本名で伝えたのだと気づいて明日香は顔が熱くなった。母とその愛人の笑い声が脳裏をよぎり、知らぬうちに陥れられ笑いものにされたかのように感じた。
 あたしだって知りたい。どうしてそんな名前をつけられたのか。名は体を表すというが生まれ落ちたその日からそんなに間抜けで脳天気で頭が空っぽだったのか。それとも前世で何かやらかしたのか。当て字の本名を隠して読んだままの「あすか」を名乗ることを憶えるまで、おかげで散々な目に遭ってきた。自己紹介のたびに噴き出されたりふざけるなと怒られたりした。いじめにも遭ったし教師からもからかわれた。十代の頃は恋の告白さえできなかった。結婚を意識した相手に本名を打ち明けてふられた経験もある。悪いけど無理、そんな名前の女と家庭を持つなんてあり得ないというのがその男の別れの言葉だった。
 小学校の同級生男子に囲まれて初めて囃し立てられたその日から、幾度となく母を問い詰めた。事実、昨夜も訊いたばかりだ。またその質問? あんたの父親の苗字が大嫌いだったのよ。娘の名前くらい素敵にしたいじゃないと母は悪びれもせずに答えた。あんたの父親ってママの旦那じゃない、だったら離婚すればいいのにと言い返したが母はえー、めんどくさいといって取り合わなかった。
 わざわざ法的な手続をとらなければ一生ついてまわるものを「素敵」などというふざけた発想で決めるのは社会常識に縛られない自由業ゆえだろうか。だとすれば自由業など滅んでしまえと明日香は思った。
 そう呪ったのをいずれ後悔しようとはそのときの彼女には思いもよらなかった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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