1996 年の 『インフィニット・ジェスト』 によって作家デヴィッド・フォスター・ウォレスの名は一躍高まる。 そんな彼が 2005 年、 ある大学の卒業式に招待され、 卒業生へのはなむけのスピーチを行う。 おめでとうございます、 お招きいただきありがとうとか何とか、 そういう決まり文句をサラッと述べた後で、 DFW はあの寓話を語り直す。
二匹の若い魚たちが一緒に泳いでいると、 別の方に向かって泳ぐ年上の魚に会い、 この年上の魚が二匹に会釈して言う。 「おはよう、 坊やたち。 今日の水はどうだい?」
二匹の若い魚たちはそのまま泳いで行ったが、 ちょっとしてからようやく一匹がもう一匹の方を向いてこう言う。 「水って、 なんだよ?」
これは米国の卒業スピーチにおける必須事項としては標準的なもので、 つまり説教臭い、 ちょっとした寓話風のお話しを引き合いにだすことになっています。
(『これは水です』)
それが卒業スピーチのお約束であることを即座にバラしてしまうあたりに DFW の羞恥心のようなものが見える。 実際すぐさま彼は言う。 「でも、 私が年上の賢い魚として登場して、 君たち若い魚たちに向かって水とは何かを説明するつもりなのかとお思いなら、 どうかご心配なく。 私は年上の賢い魚じゃありません」。 エラソーな物言いには反感を抱くし、 自分がそんな物言いをしてしまうことにも気が引けてしまうのが DFW だ。
少々気になるのは、 若い魚たちの数だ。 『インフィニット・ジェスト』 にすでに盛りこんでいた寓話を 『これは水です』 で語り直すとき、 何故 DFW は若い魚を三匹から二匹に変更したのか。 しかしこれはどちらかと言えば意味のない問いかもしれない。 話の内容を考慮すれば、 若く未熟な魚は、 別に二匹でも三匹でも大差ない。 大事なのはむしろ、 この若い魚 (たち) があくまでも複数であり、 そのせいもあって、 「水って何なの?」 と年上の魚に聞き返さず、 自分たちだけで首をひねって終わりにしてしまうことだ。
もっとも、 聞き返したところで、 年上の魚は力なく笑うだけで答えなかったかもしれない。 教えられたところで若い魚も聞く耳を持たなかったかもしれない。 DFW がこの水と魚の寓話に年齢差のある二種類の魚を登場させたのは、 真実が常に後になってから、 分かっていたはずなのに分かっていなかったこととして理解されるという 「時間差」 の必然性を暗示して、 時が何故失われていくのかを語りたかったからかもしれない。 過去をやり直すことはできないよ、 と当たり前のことをニック・キャラウェイに告げられて、 ギャッツビーは言う。
「過去はやり直せない?」 とても信じられないと言いたげに彼は叫んだ。 「なあに、 もちろんやり直せますよ!」 彼は自分の周囲を闇雲に見回し、 それはまるでここ、 彼の屋敷の影の中、 彼の手の届くところのホンのすこし先にその過去が潜んでいるかのようだった。
レオナルド・ディカプリオがギャッツビーを演じた時、 彼はこの 「もちろんやり直せますよ」 (“Of course you can.”) をさらにもう一度繰り返す。 まるでそうしなければ、 自分でもそれが信じられなくなるかのように。
『インフィニット・ジェスト』 の時とは違い、 DFW はこの魚の寓話の意味をすぐさま分かりやすく解説してくれる。
この魚の話のすぐにわかる要点は、 私たちにとって最も明らかで、 いたるところにあって、 重要な現実というのは、 しばしば見ることもそれについて語るのも最も難しいということです。
普通の言葉にしてみれば、 もちろんこれは陳腐な決まり文句です。 でも実際には、 大人として生き抜く日々の塹壕のなかで (in the day-to-day trenches of adult existence)、 陳腐な決まり文句が生きるか死ぬかに関わる重要性を持つことがあるんです。
(『これは水です』)
エラソーな言い方になって申し訳ないが、 戦場の 「塹壕」 という言葉のちょっとした不自然さに気づいた人は良い読者だと思う。 これは明らかに DFW の言葉遊びというか戦略的な語彙で、 「生きるか死ぬかに関わる重要性 (a life-or-death importance)」 とも響き合う。
そしてスピーチの後半、 富も、 容姿の美しさも、 権力も、 知能も、 崇拝して追い求めたところですべて虚しいと語る DFW はこんな風に言う。
というのは、 また別のことがあって、 こっちも真実です。
大人としての生活という塹壕に、 無神論なんてものはない。
何も崇拝しないなんてことはない。
誰だって崇拝する。
私たちの選択肢は、 何を崇拝するかということだけです。
(『これは水です』)
こうして、 魚の寓話が宗教についてのものであることがわかる。 文字通りの戦場で、 生きるか死ぬかという日々を過ごす者たちは、 必ず神を信じる。 「塹壕に無神論者などいない」 “There is no atheist in the trenches” という決まり文句にひねりを加えた DFW らしい一節だ。 既訳の 『これは水です』 では 「塹壕」 ではなく 「タコツボ」 という訳語が選ばれている。 確かに兵士が身を隠す小さな塹壕のことをタコツボとも言うし、 魚の比喩によって海の含意が行き渡ってるのでこれは良い訳だが、 そうするといかんせん戦場の含意が薄れてしまう。
いわゆる 「ポストモダン」 文学についての通説を耳にしたことがある人なら、 宗教的な崇拝が絶対避けられない、 だから宗教は不可避だと言っている (ようにも見える) DFW に違和感を覚えるかもしれない。
けれど、 こまかい区別をしておくと、 教会などの組織や独自の規則を持つ宗教制度と、 宗教的な心情とは区別しなければならない。 私は今でも、 作家ヘンリー・ジェイムズの兄である心理学者ウィリアム・ジェイムズは、 最も良い意味でアメリカ的な最高の知性の持ち主だと思っているが、 彼の 『宗教的経験の諸相』 もこういう 「宗教 (制度)」 と 「宗教的な経験」 の違いにこだわっている。 そして、 ある新興宗教団体による毒ガステロという事件を知っている世代に属する人間として、 私は宗教に対してどちらかと言えば懐疑的だが、 それでも、 ウィリアム・ジェイムズの言うような宗教的体験を私もしたことがある。 つまり、 自分は何度も何度もその言葉を目にしてきたのに、 なぜか突然その言葉の真の意味が理解できた、 という体験だ。 こういう体験を持たずして人は小説と深くかかわったりはしない。
では、 小説を読んだり書いたりすることも、 宗教的なことなのだろうか? そして、 「塹壕に無神論者などいない」 という格言が真実ならば、 読書とは、 戦争に似た体験だということだろうか? この翻訳日誌は学術論文ではないので、 「デヴィッド・フォスター・ウォレスにおけるポストモダン以降の宗教」 なんて大仰なテーマで長々と文章を書く気はない。 しかし次回以降のために、 『インフィニット・ジェスト』 における宗教、 そして精神分析の問題が、 私の偏愛するドン・ゲイトリーと、 彼が参加する匿名アルコール中毒者会のテーマと深くかかわっていくことだけは予告しておく。
その上で思い切って言えば、 エラソーに訳の分からない言葉で人々をだまして、 場合によっては人が人を殺す理由にもなってしまういわゆる 「宗教」 とは違う別の宗教 (的なもの) への誘いこそが、 小説 (と文学) だと言ってしまおう。 宗教など愚か者の信ずるものだ、 などという考えは、 致命的に甘い。 第一、 私たちの内面に宿るモラルみたいなものは、 すでにどこかしら宗教的だ。 宗教を単純に捨てることはモラルを捨てることでしかない。 「来世の不存在を承認しつつ、 なおいかにして宗教的な心構えを復興するか、 が真の問題だ」 (ジョージ・オーウェル、 大西巨人訳)。 人間は死んだらお終い、 神も仏もありゃしない、 なんて軽口をたたくことは誰にだってできる。 問題は、 そういう態度が行き渡れば、 倫理とか、 正義について語れなくなってしまう。 その意味で、 宗教と呼べるかどうかはともかく、 「宗教的な心構え」 はやはり軽視してはいけない。 しかし他方で、 宗教が危険なことも誰にだってわかる。 宗教の最も良い部分だけを保存し、 別の形に生まれ変わらせることは、 モダンだのポストモダンだのに関わらず、 私たちにとっていまだに課題であり続けている。
ならどうすればいい? その答えを一言で言えるような人間は小説など書かない。 その答えを他人にかみ砕いて教えて欲しいと思うような人間は、 小説なんて読まなくていい。 ただ、 たとえばそれは、 『重力の虹』 のトマス・ピンチョンの言葉で言えば、 「気の利いた奇遇な出会い (Kute Korrespondaces)」 をひとつひとつ大切に集めていくことだろう。 本当に注意深くありさえすれば、 そんな奇遇な言葉との出会いは必ずある。 たとえば、 今回の翻訳日誌を執筆するかたわら、 友人と共に参加しているプルースト 『失われた時を求めて』 の読書会で、 こんな一節を読んだ。 私は 10 年以上前に確かにこの大長編を読んだはずなのに、 まったく記憶になかったが、 恋人のオデットに振り回される男スワンが言う。
きみは形の定まらない水なのだ、 坂があれば傾斜に沿って流れてしまう。 さもなければ、 記憶もなく、 ものを考える力もない魚みたいなものだ。 水族館で生きている限り、 ガラスと水を取り違えて、 一日に百ぺんも頭をぶつけるんだ。
(『失われた時を求めて2 スワン家の方へ II』 鈴木道彦訳、 集英社文庫、 230 頁)
私は、 よりにもよって 『これは水です』 について書いている時にこの一節に出会ったことに、 情けないくらい、 一人で驚いていた。 小説という無限の戦場には当然無数の神がいるが、 その神の存在を感じる時、 人は必ず一人きりだ。
最後に付けくわえておきたい。 こういう 「気の利いた奇遇な出会い」 は、 本当にそれ自体はなんということもない些細な日常にすぎない。 たとえばこんなことがあった。 私がこの翻訳日誌の連載を引き受けたのは、 私が勝手に翻訳して Twitter でばら撒いているトマス・ピンチョン 『ブリーディング・エッジ』 を読破した数少ない読者のうちの一人である杜昌彦氏に連載を打診されたからという理由が大きい。 ピンチョン 『ブリーディング・エッジ』 のサミズダート版を読んだ、 という杜氏のツイートを読んだ時、 私は喜ぶ前に首をひねった。 「サミズダートって、 いったい何のことだ?」
てっきり、 私以外にも私的な翻訳を完成させていたサミズダート氏なる人物がいたのかと思ったが、 調べてみると、 私的ルートでやり取りされる (非合法) 出版物のことをロシア語でサミズダートというのだそうだ。 それから数カ月後、 『インフィニット・ジェスト』 を翻訳しながら、 私はこの 「サミズダート (samizdat)」 という語に再び出会う。 よりにもよって、 その単語の意味が理解できない兄オリンに、 主人公のハルが辞書を音読するかのような場面がある。
「サミズダート (Samizdat)。 ロシア語、 複合名詞。 二〇世紀ソヴィエト時代の慣用語。 “sam” は母体、 「自己」。 “izdat” は動詞の語幹で、 「出版する」。 厳密に言うと、 文字通り直示的に意味していたところのものは時代遅れだと思う。 エスカトンの時代のクレムリンがいろんなものを禁止しまくってた頃に、 政治的に危なくて発禁になった資料を秘密裏に撒種配布することだ。 共示的に、 現在の一般化した意味では、 何であれ政治的な地下出版や常識はずれなことをする出版社や、 そこで出版されたものを指す。 憲法修正第一条からすると、 米国には本当にサミズダートそのものと言えるものはないと思う。 ケベックやアルバータの超過激なものだったら、 ONAN 的にサミズダートと見なしてもいいかもしれないんじゃないかな」
(『インフィニット・ジェスト』)
この引用部について細かい説明はしない。 だが、 この 「サミズダート」 こそ、 ハルやゲイトリーたちの人生を大いに狂わせていく最重要の、 大麻やコカインなんて子供の遊びにしか見えないくらいのとんでもなくヤバいブツだ。 まだ 『インフィニット・ジェスト』 の翻訳に手をつけようなんてまるで考えていなかった頃に出会ったこの一語と再会したことに、 ちょっとした 「宗教的なもの」 を私は感じる。 そしてこういう時、 私はいつも思う。 私には一生いわゆる 「小説」 は書けないだろうが、 それでも小説を離れて生きることもできないだろう。
第四回 了