柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第6回: 無限の戦場、無数の神、唯一の読者(後編)

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2020.
11.13Fri

無限の戦場、無数の神、唯一の読者(後編)

承前

1996 年のインフィニット・ジェストによって作家デヴィッド・フォスター・ウォレスの名は一躍高まるそんな彼が 2005 年ある大学の卒業式に招待され卒業生へのはなむけのスピーチを行うおめでとうございますお招きいただきありがとうとか何とかそういう決まり文句をサラッと述べた後でDFW はあの寓話を語り直す

 二匹の若い魚たちが一緒に泳いでいると別の方に向かって泳ぐ年上の魚に会いこの年上の魚が二匹に会釈して言う。 「おはよう坊やたち今日の水はどうだい?

 二匹の若い魚たちはそのまま泳いで行ったがちょっとしてからようやく一匹がもう一匹の方を向いてこう言う。 「水ってなんだよ?

 これは米国の卒業スピーチにおける必須事項としては標準的なものでつまり説教臭いちょっとした寓話風のお話しを引き合いにだすことになっています

(『これは水です』)

 それが卒業スピーチのお約束であることを即座にバラしてしまうあたりに DFW の羞恥心のようなものが見える実際すぐさま彼は言う。 「でも私が年上の賢い魚として登場して君たち若い魚たちに向かって水とは何かを説明するつもりなのかとお思いならどうかご心配なく私は年上の賢い魚じゃありません」。 エラソーな物言いには反感を抱くし自分がそんな物言いをしてしまうことにも気が引けてしまうのが DFW だ

 少々気になるのは若い魚たちの数だ。 『インフィニット・ジェストにすでに盛りこんでいた寓話をこれは水ですで語り直すとき何故 DFW は若い魚を三匹から二匹に変更したのかしかしこれはどちらかと言えば意味のない問いかもしれない話の内容を考慮すれば若く未熟な魚は別に二匹でも三匹でも大差ない大事なのはむしろこの若い魚たちがあくまでも複数でありそのせいもあって、 「水って何なの?と年上の魚に聞き返さず自分たちだけで首をひねって終わりにしてしまうことだ

 もっとも聞き返したところで年上の魚は力なく笑うだけで答えなかったかもしれない教えられたところで若い魚も聞く耳を持たなかったかもしれないDFW がこの水と魚の寓話に年齢差のある二種類の魚を登場させたのは真実が常に後になってから分かっていたはずなのに分かっていなかったこととして理解されるという時間差の必然性を暗示して時が何故失われていくのかを語りたかったからかもしれない過去をやり直すことはできないよと当たり前のことをニック・キャラウェイに告げられてギャッツビーは言う

過去はやり直せない?とても信じられないと言いたげに彼は叫んだ。 「なあにもちろんやり直せますよ!彼は自分の周囲を闇雲に見回しそれはまるでここ彼の屋敷の影の中彼の手の届くところのホンのすこし先にその過去が潜んでいるかのようだった

 レオナルド・ディカプリオがギャッツビーを演じた時彼はこのもちろんやり直せますよ」 (“Of course you can.”) をさらにもう一度繰り返すまるでそうしなければ自分でもそれが信じられなくなるかのように

インフィニット・ジェストの時とは違いDFW はこの魚の寓話の意味をすぐさま分かりやすく解説してくれる

 この魚の話のすぐにわかる要点は私たちにとって最も明らかでいたるところにあって重要な現実というのはしばしば見ることもそれについて語るのも最も難しいということです

 普通の言葉にしてみればもちろんこれは陳腐な決まり文句ですでも実際には大人として生き抜く日々の塹壕のなかでin the day-to-day trenches of adult existence)、 陳腐な決まり文句が生きるか死ぬかに関わる重要性を持つことがあるんです

(『これは水です』)

 エラソーな言い方になって申し訳ないが戦場の塹壕という言葉のちょっとした不自然さに気づいた人は良い読者だと思うこれは明らかに DFW の言葉遊びというか戦略的な語彙で、 「生きるか死ぬかに関わる重要性a life-or-death importance)」 とも響き合う

 そしてスピーチの後半富も容姿の美しさも権力も知能も崇拝して追い求めたところですべて虚しいと語る DFW はこんな風に言う

 というのはまた別のことがあってこっちも真実です

 大人としての生活という塹壕に無神論なんてものはない

 何も崇拝しないなんてことはない

 誰だって崇拝する

 私たちの選択肢は何を崇拝するかということだけです

(『これは水です』)

 こうして魚の寓話が宗教についてのものであることがわかる文字通りの戦場で生きるか死ぬかという日々を過ごす者たちは必ず神を信じる。 「塹壕に無神論者などいない」 “There is no atheist in the trenches  という決まり文句にひねりを加えた DFW らしい一節だ既訳のこれは水ですでは塹壕ではなくタコツボという訳語が選ばれている確かに兵士が身を隠す小さな塹壕のことをタコツボとも言うし魚の比喩によって海の含意が行き渡ってるのでこれは良い訳だがそうするといかんせん戦場の含意が薄れてしまう

 いわゆるポストモダン文学についての通説を耳にしたことがある人なら宗教的な崇拝が絶対避けられないだから宗教は不可避だと言っているようにも見えるDFW に違和感を覚えるかもしれない

 けれどこまかい区別をしておくと教会などの組織や独自の規則を持つ宗教制度と宗教的な心情とは区別しなければならない私は今でも作家ヘンリー・ジェイムズの兄である心理学者ウィリアム・ジェイムズは最も良い意味でアメリカ的な最高の知性の持ち主だと思っているが彼の宗教的経験の諸相もこういう宗教制度)」 宗教的な経験の違いにこだわっているそしてある新興宗教団体による毒ガステロという事件を知っている世代に属する人間として私は宗教に対してどちらかと言えば懐疑的だがそれでもウィリアム・ジェイムズの言うような宗教的体験を私もしたことがあるつまり自分は何度も何度もその言葉を目にしてきたのになぜか突然その言葉の真の意味が理解できたという体験だこういう体験を持たずして人は小説と深くかかわったりはしない

 では小説を読んだり書いたりすることも宗教的なことなのだろうか?   そして、 「塹壕に無神論者などいないという格言が真実ならば読書とは戦争に似た体験だということだろうか?   この翻訳日誌は学術論文ではないので、 「デヴィッド・フォスター・ウォレスにおけるポストモダン以降の宗教なんて大仰なテーマで長々と文章を書く気はないしかし次回以降のために、 『インフィニット・ジェストにおける宗教そして精神分析の問題が私の偏愛するドン・ゲイトリーと彼が参加する匿名アルコール中毒者会のテーマと深くかかわっていくことだけは予告しておく

 その上で思い切って言えばエラソーに訳の分からない言葉で人々をだまして場合によっては人が人を殺す理由にもなってしまういわゆる宗教とは違う別の宗教的なものへの誘いこそが小説と文学だと言ってしまおう宗教など愚か者の信ずるものだなどという考えは致命的に甘い第一私たちの内面に宿るモラルみたいなものはすでにどこかしら宗教的だ宗教を単純に捨てることはモラルを捨てることでしかない。 「来世の不存在を承認しつつなおいかにして宗教的な心構えを復興するかが真の問題だ」 (ジョージ・オーウェル大西巨人訳)。 人間は死んだらお終い神も仏もありゃしないなんて軽口をたたくことは誰にだってできる問題はそういう態度が行き渡れば倫理とか正義について語れなくなってしまうその意味で宗教と呼べるかどうかはともかく、 「宗教的な心構えはやはり軽視してはいけないしかし他方で宗教が危険なことも誰にだってわかる宗教の最も良い部分だけを保存し別の形に生まれ変わらせることはモダンだのポストモダンだのに関わらず私たちにとっていまだに課題であり続けている

 ならどうすればいい?   その答えを一言で言えるような人間は小説など書かないその答えを他人にかみ砕いて教えて欲しいと思うような人間は小説なんて読まなくていいただたとえばそれは、 『重力の虹のトマス・ピンチョンの言葉で言えば、 「気の利いた奇遇な出会いKute Korrespondaces)」 をひとつひとつ大切に集めていくことだろう本当に注意深くありさえすればそんな奇遇な言葉との出会いは必ずあるたとえば今回の翻訳日誌を執筆するかたわら友人と共に参加しているプルースト失われた時を求めての読書会でこんな一節を読んだ私は 10 年以上前に確かにこの大長編を読んだはずなのにまったく記憶になかったが恋人のオデットに振り回される男スワンが言う

きみは形の定まらない水なのだ坂があれば傾斜に沿って流れてしまうさもなければ記憶もなくものを考える力もない魚みたいなものだ水族館で生きている限りガラスと水を取り違えて一日に百ぺんも頭をぶつけるんだ

(『失われた時を求めて2 スワン家の方へ II鈴木道彦訳集英社文庫230 頁

 私はよりにもよってこれは水ですについて書いている時にこの一節に出会ったことに情けないくらい一人で驚いていた小説という無限の戦場には当然無数の神がいるがその神の存在を感じる時人は必ず一人きりだ

 最後に付けくわえておきたいこういう気の利いた奇遇な出会い本当にそれ自体はなんということもない些細な日常にすぎないたとえばこんなことがあった私がこの翻訳日誌の連載を引き受けたのは私が勝手に翻訳して Twitter でばら撒いているトマス・ピンチョンブリーディング・エッジを読破した数少ない読者のうちの一人である杜昌彦氏に連載を打診されたからという理由が大きいピンチョンブリーディング・エッジのサミズダート版を読んだという杜氏のツイートを読んだ時私は喜ぶ前に首をひねった。 「サミズダートっていったい何のことだ?

 てっきり私以外にも私的な翻訳を完成させていたサミズダート氏なる人物がいたのかと思ったが調べてみると私的ルートでやり取りされる非合法出版物のことをロシア語でサミズダートというのだそうだそれから数カ月後、 『インフィニット・ジェストを翻訳しながら私はこのサミズダートsamizdat)」 という語に再び出会うよりにもよってその単語の意味が理解できない兄オリンに主人公のハルが辞書を音読するかのような場面がある

サミズダートSamizdat)。 ロシア語複合名詞二〇世紀ソヴィエト時代の慣用語。 “samは母体、 「自己」。 “izdatは動詞の語幹で、 「出版する」。 厳密に言うと文字通り直示的に意味していたところのものは時代遅れだと思うエスカトンの時代のクレムリンがいろんなものを禁止しまくってた頃に政治的に危なくて発禁になった資料を秘密裏に撒種配布することだ共示的に現在の一般化した意味では何であれ政治的な地下出版や常識はずれなことをする出版社やそこで出版されたものを指す憲法修正第一条からすると米国には本当にサミズダートそのものと言えるものはないと思うケベックやアルバータの超過激なものだったらONAN 的にサミズダートと見なしてもいいかもしれないんじゃないかな

(『インフィニット・ジェスト』)

 この引用部について細かい説明はしないだがこのサミズダートこそハルやゲイトリーたちの人生を大いに狂わせていく最重要の大麻やコカインなんて子供の遊びにしか見えないくらいのとんでもなくヤバいブツだまだインフィニット・ジェストの翻訳に手をつけようなんてまるで考えていなかった頃に出会ったこの一語と再会したことにちょっとした宗教的なものを私は感じるそしてこういう時私はいつも思う私には一生いわゆる小説は書けないだろうがそれでも小説を離れて生きることもできないだろう

第四回 了


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。