柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第5回: 無限の戦場、無数の神、唯一の読者(前編)

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2020.
11.10Tue

無限の戦場、無数の神、唯一の読者(前編)

僕がもっと若くもっと傷つきやすかった頃に父が忠告してくれたことがあり以来ずっと僕は心の中でその忠告に何度も立ち返ってきた

お前が誰かを批判したくなった時にはだなと父は僕に言った。 「この世界の人々が皆お前と同じ高さの下駄を履かされてるわけじゃないってことを忘れるなよ

F ・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャッツビー

かと小説の話をするとき何度も自分に言い聞かせてきたことがある小説の好みは本当に人それぞれだから不用意にある作品を小馬鹿にした態度をとるとその小説を愛読している目の前の相手を傷つけてしまうことを忘れてはいけない。 『グレート・ギャッツビーのニック・キャラウェイの父による教えに比べると見劣りするが私の父はそこまでブンガク臭を漂わせる人ではないので私は何度もこれを自分で自分に言い聞かせそして何度も忘れる

 もちろんこの世界の人々が皆私と同じように小説ついての意見の相違で大騒ぎするわけではないことは私だって胸にとめている意見の対立が生じやすい話題などについて英語にはcontroversial” (論争的な論争の的となるという形容詞がある某国の大統領などはその存在からしてcontroversialこういった厄介な話題特に政治と宗教の話は社交の場では避けるべきとされているジェイムズ・ジョイスの短編死者たちでは教会の聖歌隊から女性が排除されたことに激昂する登場人物が、 「信心の違う方がいるのだからその話は止めましょうとなだめられる

 ただし私たちがいわゆる文化戦争の時代を生きているなら政治や宗教のような大問題であるかのように芸術作品について語るのが私たちの宿命かもしれないページを開くとそこに戦場があるマルセル・プルースト失われた時を求めてのヴェルデュラン夫人は絵画ならレンブラント夜警』、 音楽ならベートーベン第九』、 彫刻ならあのサモトラケのニケ以上のものはないと考えていてそれ以上の芸術があるなんて彼女の家の会食で誰かが口にしようものならドえらい騒ぎというか滑稽なことになる

 今回のインフィニット・ジェスト翻訳日誌では文学と宗教の話をしよう

グレート・ギャッツビーがフィッツジェラルドにとってそうであるように私が現在翻訳しているデヴィッド・フォスター・ウォレスDFWインフィニット・ジェスト作者 DFW の代名詞的な作品だ。 『ユリシーズ失われた時を求めてほどではないが、 『インフィニット・ジェストはあまりにも長くて読みにくいだから知ったかぶりをしたい人たちはその作家のもっと読みやすくてはっきり言えばもっと短い作品に手を出す傾向がある小馬鹿にしたような言い方になったので付け加えると本人たちがそれを選ぶというより大学の授業ではそういった短い作品や作品の代表的な一部が教材として選ばれやすいジョイスなら死者たち」、 プルーストならスワンの恋がそうだDFW の場合は彼が 2005 年にある大学で行った卒業生のためのスピーチを書籍化したこれは水です』 (This is Waterがそれにあたる翻訳もありその気になれば読むのに一時間もかからずDFW 自身の元々のスピーチの音声を YouTube などでも聴くことができる

これは水ですには、 『インフィニット・ジェストにも登場したとても短い寓話が取りあげられている。 『インフィニット・ジェストの主人公であるハル・インカンデンザについてはすでに何度か触れたがこの作品にはハルと対になる裏の主人公と言うべき人物が登場するその名はドン・ゲイトリー元は薬物中毒とアルコール中毒の空き巣で手違いで人を死なせてしまったこともあるが現在は薬も酒もやめて中毒者たちのための一種の社会復帰施設で働いている29 歳男性20 代前半に比べると体力の衰えが見えてきそうな年齢のこのゲイトリーが問題の魚の寓話を耳にする

 状況をすこし丁寧に説明しようこれから引用するのはゲイトリーがある匿名アルコール中毒者会Alcoholics Anonymousの会合に参加した後の場面だデヴィッド・フィンチャー監督の映画ファイト・クラブが好きな人なら主人公が様々な互助会というか互いに悩みを打ち明けて語りあうグループに顔を出していたのを覚えていると思うこういったグループは元々は匿名アルコール中毒者会というものに起源がある

 意外かもしれないが人が酒やクスリや過激な政治団体等にのめりこむ背景にはその人が社会的に孤立して精神的にも傷つきやすくなっている時のことが多い逆に言えば同じ悩みを抱える仲間との支え合いは中毒を脱して人生を立て直そうとしている人にとって馬鹿にできない力を持つもちろんアルコールや薬物の問題を抱えていた作者 DFW もこうしたグループに所属していたことがある社会的弱者を叩くこと自体がこの社会全体にとって麻薬のように危険なことなのでこのことは記憶の片隅にとどめておいてほしい

 それはそれとしてゲイトリーは今なお匿名アルコール中毒者会に参加し続けて再び危険な快楽に手を染めないよう日々祈りをささげているこの祈りというのが問題だ。 『インフィニット・ジェストでも語られているが匿名アルコール中毒者会は原則としてあらゆる宗教の信者に対して開かれているそして会員たちは一人一人がそれぞれ思うような神様みたいなもの)」 に毎朝毎晩祈りをささげて一日一日酒やクスリに手を出さずに今日を乗りきっていくだから極端な場合では悪魔に祈りを捧げたってかまわないさすがに若干まわりからは煙たがられるらしいが)。

 しかし神だの悪魔だのそういうことがゲイトリーにはまるでピンとこないそれでも形ばかり祈りを捧げていたら酒やクスリを止められたのがゲイトリーには不思議でしかたがなくてその悩みを彼はいまだに保留にしているそして、 「神様にとんと疎い自分の悩みを話した会合の後やはりその会合に参加していたバイク乗りが胸部の大変ふくよかな若い女性を連れてゲイトリーのところに歩み寄りこんな話を聞いたことあるかという

エンジンをかけたままのハーレーの騒音にかき消されないように彼はどこか騒々しいバーで話す時のような声を出さねばならないゲイトリーに向かって前かがみになり自分が話そうと思ったのはなと大声で言う髭を生やした年寄りの賢い魚が三匹の若い魚たちのところまで泳いできて言う。 「坊やたちおはよう今日の水はどうだい?そして泳ぎ去る彼が泳ぎ去るのを見ていた若い三匹の魚たちは顔を見合わせて言う。 「水っていったい何のことだ?そして泳ぎ去る若いバイク乗りは姿勢を戻してゲイトリーに微笑み優し気に肩をすくめるとホルターネックの巨乳を押し当てる女を背にして走り去る

(『インフィニット・ジェスト』)

 なぜ自分が薬物中毒の地獄から脱け出せたのかそれが分からぬまま朴訥に生きていくゲイトリーの運命についてはどうか乞うご期待今のところ私はインフィニット・ジェストの中でこのドン・ゲイトリーという人物が一番好きだ


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。