このところ過去に感銘を受けた本を読みかえしている。 現代の小説がつまらないからだ。 現代人はソーシャルメディアのアルゴリズムに評価されるために読書する。 その用途に適した消費財でなければ、 低評価レビューをつけられ表示機会を抑制される。 だから出版されない。 国家や企業にとって人間は養分だ。 自分たちに使役するものでなければならない。 ひとりひとりが尊重されたら利益にならない。
支配されたがるひとの多さには驚かされる。 いまのロシアやかつての日本。 ひとびとの生活のすべてを支配したがる起業家 (アパルトヘイトで成り上がった家の出で、 自動運転車からコストのかかる安全装置を取り外させた男) の気まぐれに従うひとびと。 自分自身であることの責任からみんな逃れたいのだ。 だれもそこに向き合いたくない。 向き合う手段が小説だといわれたら、 きっとあなたは苦い顔をする。
たしかに小説はなんでもありだ。 中二階にあがるだけの小説だって、 言葉遊びに終始するだけの小説だって、 高尚な学問のためだけの小説だってあっていい。 権力におもねる小説だってきっとすばらしいのだろう。 でも本来はむしろ力に抗い、 人間性の側に立つものだったはずだ。 かたちのないものや隠されたものを可視化し、 ひとりひとりの尊厳を、 人間がどう生きて死ぬかを描く。 知り得ぬはずのそれらに触れることで他者への想像力が育まれる。 その想像力こそが人間にとって重要だったはずだ。
だからこそ権力はそれを憎み排除する。
十代、 二十代で読んだものは薄らぼんやりした印象だけが残り、 筋も細部もきれいさっぱり忘れている。 再読してやっぱりいいと思える本もそうでない本もある。 『オリガ・モリソヴナの反語法』 は記憶していた以上によかった。 小説ってこういうんだよ、 こうでなくちゃと思った。 そう思わせてくれる本はなかなかない。
ソ連の崩壊と、 女性の人生における踊り場にさしかかったタイミングが一致した主人公は、 少女時代の記憶で個性的な光を放っていた先達が何者であったのか、 その足跡を辿りはじめる。 その過程で旧友 (探偵ものの文脈でいえば有能な相棒) と再会し、 人間味溢れる女たちと知り合い、 一致団結して謎を解き明かしていく。
まず第一にこれは人生の物語だ。 そして男たちが決めた社会、 人間性を排除する社会にしたたかに抗う女たちの話だ。 登場人物はみな活き活きとして、 目の前でいままさに汗を掻き呼吸するかのようだ。 そしてその人間たちが無残に死んでいく。 筋の通らない国家のアルゴリズムのために。 だれがその仕組みを築いたのか? 男たちだ。 でもこの物語はかれらを責めない。 変えられない前提として捉え、 その上で屈せずに切り抜けようとする。 人生は往々にしてそのようなものだ。 だれも死や暴力は免れ得ない、 だからといって生きることから目は背けられない。
この小説はそれを書いている。
再読して驚いたのは何よりもまず、 よくできた推理小説だということだ。 あまりに自然なので二十年前は気づかなかった。 複層的な語りを取り入れた巧みな構成は、 卑近な苦さすら取りこぼさず、 探偵をただの傍観者にはさせない。 「いま」 を語る背景として芸術の凋落を序盤に置き、 その対比として、 謎の解明部にさらりと挿入する。 そうすることで過酷な歴史と現代の日常とを、 ひとつながりに結びつけ、 「いま」 の女たちの物語として浮かび上がらせる。 歴史の流れに呑まれて消えたかと思われた光は、 紛れもなく自分たちの世代へ受け継がれていた。 そのことを確かめて物語は終わる。
人間を信じている。 人間を諦めていない。 そこがこの小説の力であり、 現代の芸術に喪われたものだ。 そして信頼から疎外された部外者として、 いまの苦さを知る身には、 何よりも羨望するものなのだ。