杜 昌彦

GONZO

第35話: 初めからいない

書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2021.10.16

別れは警察やマスコミに相手を売ることを意味するとの暗黙の了解がありその上でいつでも好きにしろと告げられてはいたがそれでも姫川尊は憎悪するのと同じだけ報復を畏れたただの気まぐれだろうが所有欲だろうが知り得ぬほかの動機だろうが殺戮に手を貸した共犯者として梶元権蔵には後ろめたい弱みを握られている同じ強度で向こうにも憎んでいてほしかった同時に自分にそれだけの価値がないのもわきまえていた祖父に家庭教師として雇われたあの中年肥満男が正真正銘の社会病質であり邪魔な埃でも払うかのように気軽にひとを殺すのもいまや自分がその取るに足りない埃に相当するのもミコトは理解していた作戦失敗をごくあっさりとゴンゾにとってのミコトと同じ価値しかないかのように報せた箱沼には憤慨したが腹を立てたところで危険は減じないやはり他人は頼りにならぬ信用したのが愚かだった
 姫川尊は青葉市内のマンションに軟禁されていた実家の離れに較べたら犬小屋以下だが北の街のアパートに馴染んだミコトに新鮮味はなかった重要参考人を保護するために借りた部屋だと箱沼は説明し県警にもマスコミにも情報は決して漏らさぬと請け合った身の安全を保障するにしては土地柄に難があるようにミコトには感じられた東北一の繁華街である刻文町の裏手に位置し少し先には奇抜な外装のホテルが建ち並び酔漢や年齢の釣り合わぬ男女が敷地内に迷い込んでくる穢らわしく野蛮な印象を受け隠れ家はもっと静かで安全であるべきではと思えたが鐘や子どもたちの声が聞こえる距離に小学校もありそこに通う児童にはこの界隈が日常であり遊び場でありおそらくは両親の勤務先でもあるだろう事実を鑑みれば丘の上に隔絶された城砦のごとき屋敷での無菌室のごとき暮らししか知らぬミコトは世間知らずの幼い潔癖と見られるのを畏れて不平を洩らせなかった
 洩らそうにも口をきく機会がない箱沼はミコトの身柄を確保するなり別人のようによそよそしくなったたまに訪れても警護係と短い会話を交わすだけですぐにまた慌ただしく出て行く稀にソファで仮眠をとることはあってもミコトと視線は合わせない北の街での薄笑いはどこへやらあたかも証人が密封され分類された物品であるかのような態度だったミコトの側にしてみても箱沼はつまらぬ代用品にすぎず無視や放置を癪には感じても寂しく思うほどの関心はないまして数時間おきに交代する三十絡みの男女に対しては体型に合わぬ吊しのスーツが示す公務員の給与水準に彼らも結婚して家庭を持つことがあるのだろうかと天候に対するのと同程度の興味を抱いたのみだ現にあの女と犬に別れを告げなかったことに後悔も未練もないいまどうしているかと考えることもない自分はそういう人間なのだと彼は思った肖像画が完成しなかったのだけが心残りだ
 敵や報道から護るという口実に説得力はなく脱走を畏れて監視されているのは明らかで実家や学校にいるかのような息苦しさを覚え保護を求めたのは正しい選択だったのかミコトは確信が持てなくなった食事は与えられたし睡眠や排泄も禁じられずスケッチブックに絵を描いたり入浴したりする自由もあったが外出が許されぬばかりかインターネットに接続する手段もテレビもなく天候が他人事になるほど外界とは完全に隔絶されていた箱沼の組織に逮捕権があるのか知らないが梶元権蔵を逮捕なり殺害なりするまでのあいだその部屋に生きて存在するのが自分の仕事生きた証拠品が損壊されぬよう見張るのが警護係の仕事なのだろう
 屋内で靴を脱ぐ習慣がないミコトはゴンゾも装身具作家も同様の生活様式だったので無表情な長髪パンツスーツの女とやはり無表情な角刈り男が土足で出入りするのに違和感を覚えなかったかつての彼なら意図に気づかなかったろうがそれもまた肩に吊った銃を隠す長い上衣と同じく襲撃に備えてだと察するだけの経験がいまではあったゴンゾにとってそうだったように自分は獲物をおびき寄せる餌にすぎずいずれ屠殺される家畜であり単なるゲームの駒なのだ箱沼にとって姫川邸襲撃事件の生き証人よりもかつての教え子のほうがずっと価値があるらしいだれを頼ったところで所詮は大人たちのあいだで売り買いされるだけだと思い知った
 日中は絵筆を握り締め脳からほとばしり出る悪夢を紙面に定着させる作業にしがみついた夜は決まって悪夢にうなされた就寝時には監視役が寝台のそばの椅子にハイパーリアリズムの彫刻よろしく微動だにせず座っていた人質がどれだけうなされても気にかける様子は微塵もない呼吸や瞬きすらしていないかに見えた深夜や明朝に目覚めると男が女になっていたりその逆だったりしたそれ自体が悪夢のようでミコトは現実に戻るのに時間を要した部屋に閉じ込められて日付の感覚を失い昼なのか夜なのか目醒めているのか夢を見ているのかもわからなくなった監視役の顔が溶けたように入り混じって区別がつかなくなった
 悪夢においてミコトは幼い子どもに戻り寝台でシーツにしがみついて慄えた巨大な体躯の大人が夜ごと忍び込んできてのしかかり正気なら思いつかぬようなおかしなことを命じられ従わされた家庭教師としてミコトの前に現れたその男はまだ学生で当時は歳の離れた大人に思えたが実際にはいまのミコトとそう変わらなかった父に信頼され祖父に気に入られ使用人たちとも打ち解けていて姫川家のだれもがその男のいうことを信じたこれはいいことなんだよ大人になったらだれでもするそのための練習だふたりだけの秘密だよ大人をたぶらかす悪い子だってバレたらきっと家から追い出されて警察に追われ食べるものもなく凍え死んでしまうよ正しいことなのに洩らしたら罰される意味がわからず混乱した男が出て行くたびに混乱して眠りに落ち決まっておかしな悪夢にうなされた目醒めても自分がどこにいるのか夢かうつつかわからなくなったそんなミコトに大人たちは眉をひそめ叱責したり陰口をきいたりした教わったことを口走ったり試そうとしたりして幼稚園や小学校の同級生は離れていった
 混乱した悪夢でミコトはフリルや襞飾りをあしらった黒ドレスの美少女だった色目を使う男女をひとりまたひとりと次々に銃殺して歩いた黒ずくめの肥った男が忠実な飼い犬のように背後についてきた別世界のミコトは冷酷で手際のよい殺人者だった雑居ビルの便所で犯そうとしてきた歯科医を窓から突き落とした執拗につきまとう刑事を影のような従者に命じて殺害させた私的な秘密を暴き立てようとする高校生を寝室で射殺した電車内で下着に手を入れてきた中年男は顔面をすり下ろされ家宅侵入した大学生は自ら手にした刃物で刺され建物もろとも焼かれたミコトを押さえつけて輪姦しようとした武装集団はひとり残らず従者に殺された携帯で盗撮した少年少女は線路へ突き落とされたり頸を絞められたりしたどれもミコトが女装するようになりだれも寝室を訪れなくなってからは見なくなった悪夢ばかりだった
 幼いミコトが悪夢を見ると屋敷では電球が割れた携帯やインターネットが繋がりにくくなりテレビの画像が乱れた壁や床や天井がミシミシと軋んだ戸棚に飾られた高価な骨董の皿が落ちて割れた施錠されたはずの窓が勝手に開いて強風が吹き込んだやがて使用人らまでもが悪夢にうなされるようになったあたかもミコトの悪夢に感染するかのようだった夢のなかで彼らは黒ドレスの美少女に銃を突きつけられ肥った中年男に首を掻き切られた美少女にはどこかミコトの母親の面影があったあたかもミコトの性別が変わり成長したらそうなるかのようだった長く勤めた使用人が次々に辞めた祖父母や親の代から勤めた者もいたというのに丘の麓の住人もミコトを目にするなり怯えて逃げ散った彼らもまた悪夢に悩まされていた小学校に進んだ彼の耳には同級生の陰口が聞こえてくるようになった陰口は中学校でも絶えずソーシャルメディアでも目にするようになった自分はおかしい穢れているだれもがそういうからには事実なのだろう存在してはいけない人間なのだ
 ミコトは恐怖と不安を振り払うように絵を描いたどす黒い膿汁のような悪夢を紙面に叩きつけた描いているときだけが自由だった強迫観念のように脳裏にこびりついた文字列があった目をつぶると禍々しい呪文のような白い文字列が高速で闇に流れるそれをあたかも署名のように瞼に浮かぶ端から生乾きの絵具にパレットナイフで刻んだ記憶の奥底からあぶくのように浮上したその文字列は男に見せられたものだった黒い錠剤を飲まされゴーグルをつけさせられ流れる文字列を凝視するよう強いられた混乱したまま眠りに落ちるとミコトは黒ドレスの美少女となって大勢を虐殺し邸内ではものが壊れたりだれもいない廊下に足音が聞こえたりした男に命じられたとおり記憶は抑圧され何かも忘れただからこれまで思い出すことはなかったのしかかって彼を引き裂き執拗に生臭い息を吹きかけてきた男の顔を
 それは秘書の細谷だった
 目醒めて隣を見やると椅子は空で寝室には自分しかいなかった居間で箱沼の声がしたミコトは素速く黒ドレスと靴を身につけハンドバッグをつかんだ箱沼は部下らに指示を出して慌ただしく表へ出て行った監視の男女はパソコンを打鍵しながら携帯でそれぞれの相手と怒鳴るように話しはじめたミコトは足許を忍ばせて部屋を脱出した男女のどちらかが飛び出してきて罵倒されるのを当然のように覚悟してエレベーターを待った箱が到着し一階へ降りマンションを離れた箱沼が車を停めている駐車場へ近づいてもまだ追っ手は現れなかった連行されたときに乗せられた車が大通りへ向かうのが見えた
 ゴンゾを棄てたときに銃は手放していたが血塗られた札束はまだひとつかみ没収もされずにバッグに残っていただれも自分を求めない好きなところへ向かう自由があると彼は思った
 自分は何を求めるのだろう?


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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