杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第17回: カレーとコーヒー

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.04.26

 予想に反して待たされなかった。扉が開いて大きな図体がぬっと現れた。
 田辺美樹は珍しく明日香と視線を合わせて無言で肯き、階下へ降りて断りもせずにマシューの部屋に入った。騒ぎが急にやんで静かになった。外でやれ、と美樹が低くいうのが聞こえた。怒り狂ったふたりの女と萎れた様子のマシューが出てきて明日香とヤンパチの前を過ぎた。三人は外へ出て行った。
 明日香は拍子抜けした。本当に助けてもらえるとは期待していなかった。ヤンパチも驚いていた。
 お礼のつもりでコーヒーの試飲に誘った。いずれ有料で提供する予定のコーヒーだ。案の定、断られた。無視ではなく「いまはいい」といわれたのでまだしも救われた。ふたり分を淹れて広間のテーブルに着いた。三百円でどうかなとヤンパチに問うたところせめて二百円にしてくれといわれた。頭の中で原価を計算し、どうにかなると判断した。
 ヤンパチが渋い顔でマシューの女たちを貶した。浴室の使い方が汚いのが我慢ならぬらしい。床がびしょ濡れになるし化粧台が髪の毛だらけになるというのだ。自分はパチンコ屋特有の臭いをまとっているのに他人には神経質なんだな、だから洗濯を拒んだのかと明日香は思った。
 連中の大半は割り切ってるが、とヤンパチは続けた。中には本気になるのもいてさっきみたいな騒ぎになる。中途半端に金を持った若いのが探偵を雇って素行調査をしたりする。風俗嬢とかキャバ嬢とかさ。あの手の女は思い詰めると何をするかわからない。
 それだと明日香は叫んだ。尾行されたことを話した。
 あり得るとヤンパチは思案顔でいった。マシューの女と勘違いされたのかもな。探偵なら手出しはされまいが女の彼氏ということもある。どんなとばっちりがあるかわからない。今後しばらく外に出歩くときは美樹に付き添ってもらえよ。
 あり得ないと明日香は抗弁した。あのひとそんな人間性は持ち合わせてないでしょ。
 地下室で無視された話をした。
「無視じゃないな。視界に入ってないだけだ」何かに熱中するとそうなるのだという。「特に筋トレをしているときは何かに悩んでることが多い。さっきも様子がおかしかった。ほっといてやってくれ」
 その割に助けを求めたらすぐに来てくれたな、と明日香は奇妙に思った。
「飯を喰わせたきゃいまがチャンスかもしれない」とヤンパチは入れ知恵した。自分ばかりが鴨にされるのがおもしろくないのだろう。「目の前に料理があれば何も考えずに手をつけるはずだ。カレーがいい。前の過集中のときにも食べたのを憶えてなかったことがある」
 夢遊病さながらに匙を口へ運ぶ美樹を明日香は想像した。予定の献立とは違うが試してみる価値はある。ルーは先週の特売で買ってあった。キャベツは付け合わせのコールスローにした。大蒜をオリーブ油で炒め、微塵切りの玉葱を飴色にし、根菜や湯むきしたトマトや香辛料を揉み込んだ鶏胸肉を加えてさらに炒めた。水とルーと少量のおろし生姜を加えて灰汁をすくいながら煮込むばかりになった時点で月桂樹がないのに気づいた。実家の庭に植えてあったし東京では自炊をしなかったので購入することを思いつかなかった。火を止めて玄関へ急いだ。
「何か買い忘れたのか」
 背後から声をかけられて呼吸が停まりそうなほど驚いた。明日香は胸を押さえて振り向いた。田辺美樹が無表情にのっそりと立っていた。
「月桂樹を……」声がかすれた。
「おれも用事がある。付き合おう」
 その言葉に死ぬほど動揺した。心臓が早鐘を打っている。ストーカーよりも強面の大男に後ろからついてこられるほうが怖かった。かといって並んで歩くのも緊張する。圧迫面接のときはただ腹が立っただけなのになぜ急にそうなったのかわからない。狼狽しながら表へ出るなりさっきの不審者と目が合った。
 不審者が構えた携帯から人工のシャッター音がした。視線が明日香の背後を捉えた。顔が青ざめた。
 彼は脱兎のごとく駆けだした。
 明日香のそばを突風が過ぎた。気がつくと美樹が不審者の頭を脇に抱えて締め上げていた。不審者は地面に足が着かずにもがいていた。
「おれはこいつに話がある。気にせず買い物に行ってくれ」
 は、はいと肯いて明日香は逃げるようにその場を離れた。膝がガクガクして腰が抜けそうだった。一度も振り返らなかった。不審者を美樹がどうするのか考えるのも怖ろしかった。
 普段なら夕食どきに一番に姿を見せるマシューはその夜、ついに現れなかった。どこかで女たちにこっぴどく絞られているのだろう。あきらは塾で帰りが遅かった。ヤンパチに香辛料について教えていると美樹が戻ってきた。やはり焦点の定まらぬ目つきでテーブルに着いた。考え事に熱中しているのだといわれれば確かにそう見える。ここぞとばかりカレーをよそってやると無言で食べはじめた。
 なるほど様子がおかしい。しかし電車内で出逢った時点からすでにおかしかった。普段とどう異なるのか明日香にはわからない。ヤンパチが尾行者について尋ねた。美樹の目の焦点が急に合ったように明日香には思えた。自分がカレーを食べているのに気づいて戸惑ったようにも見えた。
「美彌子にここを知られた」と美樹はいった。
 美彌子ってだれだよと例によって明日香は思った。だれもかれもが自分の知らない人物の話をする。名前が似ているから美樹の姉か妹なのだろうという気はした。ヤンパチには衝撃だったようだ。まじかよと彼は動揺した声を洩らした。探偵がこのあたりを嗅ぎまわっていたと美樹は説明した。
「捕まえて締め上げた。雇われてると白状した」
「『ぼっちの帝国』はどうなるんだ。リリース直前でそんな……」
「続ける。あの女はどうにかする」
「どうにかするって……どうするつもりだよ」
「どうにかする」話を終わらせるように美樹はいった。そしてカレーとコールスローを平らげ、グラスの水を飲んだ。うまいな、と呟いた。水の話ではあるまい。食べ終えてからいうところがやはりおかしいと明日香は思った。
「食後にコーヒーはいかが」
「くれ」
 ヤンパチは匙を手にしたまま何ともいえない表情で美樹を見ていた。
「だれの話をしてるのか訊いてもきっと教えてくれないんでしょうね」
「そのうち話す」ヤンパチは残念そうにカレーに視線を落とした。「食欲が落ちちまったよ。あとで喰うからラップして取っといてくれないか」それからはっと息を呑んだ。「いい。自分でやる」
「そのくらいでお金とらないよ」
 ヤンパチが自室に引き上げたあとも美樹はテーブルで組んだ両手に顎を乗せ、何か考えていた。二階から例の騒音が聞こえた。今夜は長い。やんだかと思うと再開され、断続的に何度も続いた。明日香は洗い物を済ませてテーブルに着き、自分のコーヒーを淹れた。我ながらうまい。香りに反応して美樹が視線を上げた。
「お代わりをもらえるか」
「さっきのは試飲。二杯目からは有料です」
「いくらだ」
「二百五十円」
「安いな」
 コーヒーを淹れて金を受けとり、釣り銭を返したところで割烹着のポケットが振動した。母からだ。実に極めてつまらぬ要件だった。わざわざ電話してくるほどの用事ではない。噛み合わぬ会話に苛ついた。他人の前だというのについ声を荒げた。そのことでさらに意味の通らぬ文句をいわれた。反論した。
 いい争うあいだ美樹は明日香をじっと見ていた。十数分後に明日香はもう切るよと強引にいって通話を終えた。振り向くと美樹と視線が合った。説明を求められた気分になり母との関係について打ち明けた。
 明日香と書いてトゥモロウと読ませるキラキラネームは、夫の苗字を嫌った母に「名前くらい可愛くしたいから」との身勝手かつ理不尽な理由でつけられた。可愛いのは名前だけらしかった。世間の普通の子供のように愛された記憶はない。強引な命名のせいで父にも愛されなかった。世の中のどんな男がそんなおかしな名前の女の子を愛せるだろう。両親の仲もうまくいかず数年後に父は女をつくって出て行った。
 名づけの由来について話すとき母はいつもミュージカル『アニー』の主題歌をクックロビン音頭のような奇妙な振付で唄った。幼い明日香はそれを愉快だと思った。保育園の友人らの前で真似をして踊った。笑わせるのと笑われるのの違いがわからなかった。理解する頃には虐められていた。
 これまでの人生で名前の由来を尋ねられるたびに披露した爆笑必至の演目だったが、悔しいことに田辺美樹はクスリとも笑わなかった。いくら自虐的に誇張して滑稽めかしてもだめだった。やればやるほど惨めになり哀しくなった。いつしか明日香は笑わそうとする努力を放棄していた。ただ起きたことをありのままに語っていた。テーブルが濡れているのに気づくと同時に喉が詰まって声が出なくなった。咳払いをしようとしたがうまくいかなかった。それまで嗚咽しながら話していたことに初めて気づいた。
 それまで黙って耳を傾けていた美樹がいった。「いい名前じゃないか」
 そんなことをいわれたのははじめてだった。明日香はあんぐりと口を開け、腫れぼったい目でまじまじと相手を見つめた。頭がおかしいんじゃないか。それとも母と同じ感性なのか。
「だれがどんなつもりで名づけたかなんてどうだっていい。過去より明日を見たい。いい名前だ」
 明日香は奇妙な安堵を感じていた。洩らしてしまったからにはもう尿意に耐えなくてもいいのだというような。アパートの部屋を喪って鈴木春子に慰められたときと同じだった。あたかも堤防が決壊するかのように明日香は声を上げて泣きじゃくった。二階の騒音はいつのまにかやんでいた。
 ひとしきり泣くのを見守ったのち、美樹は突拍子もないことをいいだした。
「その唄は『アルジャーノンに花束を』のために書かれた」
「はぁ?」涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で明日香は美樹を見つめた。
「『アニー』に転用されたんだ。大人の事情で」
 何いってるのこいつ。一瞬で涙が乾いた。やっぱり母と同じ人種だ、泣いて損をしたと明日香は思った。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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