GONZO
第11話: あしたのパーティ
幼い頃の娘たちは、 わたしの膝や眠りにつく前の寝床で、 ゴンゾとミコトの冒険譚に 「それからどうなったの?」 と素直に目を輝かせてくれたものだ。 いまではすっかり知恵がつき、 そんな荒唐無稽なブロマンスなどあり得ない、 有名人と同級生というのも耄碌した母の妄想だと決めつけるに至った。 いまではこのブログが娘たちの代わりに物語に耳を傾けてくれる。 その向こうにはいまだ出逢わぬ読者がいるはずだ。 興に乗りはじめると家事の手を抜きがちになり、 話しかけられても生返事になるのがわたしの悪い癖である。 無言で顔を見合わせる娘たちの様子には気づいていたが、 よもや認知症や精神疾患を疑われているとは思いもしなかった。
下読みをしてくれる友人らにその旨をこぼすと、 うちもそんなものよと慰められた。 しかし彼女たちの存在までもが疑われているとあっては何の気休めにもならない。 妄想が実在を主張するのはむしろ当然だからだ。 夫? 彼がいまさらわたしに何の関心を持つというのか。 わたしたちの結婚は社会通念に適合するための利害関係でしかなかった。 ひとは屋根の下で食べて税金を納めて生活していかねばならない。 他人と同じ枠に収まらなければいないことにされ、 社会からすり抜けこぼれ落ちてしまう。 自らを偽らぬゴンゾとミコトのような生き方は、 妄想に留めるからこそ美しいのだ。
ご記憶のようにその年は舞台やコンサートが中止され、 仲間内の飲み会すら憚られ、 企業の会議から催事に至るまで、 あらゆる会合が一度はオンラインに移行した。 感染拡大は秋になっても収まらず、 いつ終わるとも知れぬ漠然たる不安と、 ただ待たされるだけの日常に危機感は薄れて、 やがてイソプロパノールの消毒スプレーや、 赤外線の体温測定器が設置され、 体調不良者はご遠慮をとか、 対人距離を保てなどと促されてさえいれば、 万事いいわけが通るようになった。 広告代理店と結託した政府は、 床蝨のわいたガーゼマスクを押しつけがましく配布したり、 宣伝写真を撮るために予行演習もさせずにブルーインパルスに曲芸飛行をさせたりしたのち、 おかしな造語で観光旅行を奨励し、 感染者や死者が爆発的に増加してもなお、 休業補償も都市封鎖もやらなかった。 結果としてその夜も、 何らかの団体の集会がホテルで行われた。 会は盛況、 大勢が密集し歓談した。 立食であるからにはだれもマスクをしていない。 そして尾行者は、 ウイルスを持たぬ代わりに短銃を携行していたのである。
語ったことをわたしがたびたび覆すのはすでにご承知いただけたかと思う。 「尾行者はホテルの裏口へ逃げ込んだ」 と前回は書いた。 まるでそこにはだれもいなかったかのような言い草だ。 実際は皿洗いのアルバイト学生が携帯灰皿を手に喫煙していた。 施錠されていなかったのはそれが理由である。 さして歴史も格式もないホテルとはいえ、 白衣に臭いがつくのは厨房では嫌われる。 要領の悪さを罵倒され、 ふて腐れてマスクを顎に下ろし、 禁じられた煙草をこっそりふかしていたのである。 皿洗いの学生はゴミバケツや積まれた段ボール箱、 エアコンの室外機、 唸りをあげて油くさい熱気を吹くダクトの傍ら、 裏通りの狭い夜空のもとで携帯の画面を眺めながら弱気になっていた。 青葉市は何の特色もない地方都市である。 空だっていつも灰色に淀んでいて晴れ渡ることがない。 人身事故も日常茶飯事で、 つい先刻も新聞だか週刊誌だかの記者が、 ホームから転落して死んでいた。
学費や奨学金という名の借金、 難航する就職活動、 疎遠になった友人たちや別れた恋人を思って溜息をついた刹那、 必死の形相の男に突き飛ばされた。 落下した携帯は画面が砕けて路地を滑った。 男は厨房につながる裏口へ消えた。 学生は悪態をついて立ち上がり、 尻の土埃を払いながら目で携帯を探した。 肥った黒ずくめの男がつづいて突進してきた。 学生は再び撥ね飛ばされ、 壁に頭を打ちつけて気絶した。 気を失ったのは幸運だった。 その夜の惨劇を目にせずに済んだからである。
夕食にはやや遅い時間ではあったが厨房は最高潮の忙しさだった。 疫病のために閑古鳥が鳴いていたホテルにとってその夜の会合は久々の大仕事だった。 白衣の従業員らが綿密に振り付けされたかのように立ち働き、 包丁や油がリズムを刻み、 香り豊かな湯気が漂い、 ペンギンの商標がついたステンレスの大型器具が唸りをあげていた。 パーカとジーンズの痩せたひげ面の男が、 ついで肥った黒ずくめのサングラス男が、 突風のように厨房へ転がり込んだ。 追われる男が従業員を突き倒すように押しのけ、 スープの煮え立つ寸胴鍋を倒した。 追う肥満漢は蝶のように飛びのいてかわした。 跳ね返った熱いスープを数人が浴びて絶叫した。
何が起きたかわからぬまま、 従業員らは悲鳴をあげて逃げ惑った。
ひげの男は厨房を駆け抜けながら食器が積まれたワゴンを倒し、 人参やじゃが芋や塊肉、 壁に吊られた鍋や杓子などを掴んでは投げた。 肥満男は見た目からは想像もつかぬほど機敏にそれらをかわし、 手近な包丁を掴んで投げた。 ひげ男はぎゃっと悲鳴をあげた。 肥満男は惜しい、 とでもいいたげに残念そうな顔をした。 ひげ男は獣のように吼えて左の尻から包丁を引き抜き、 泣きながら肥満男に投げつけた。 肥満男は軽快な舞踏さながらにそれをかわし、 意地悪い笑みを浮かべて、 生クリームがこってり塗られたデザートを投げた。 お菓子が横っ面に命中したひげ男はスープで足を滑らせ、 滑稽なほどの弧を描いて上向きに卒倒した。
従業員らの証言に残るのはそこまでだ。 彼らとて望んで目撃したわけではない。 出口に殺到して押し合いへし合い、 すぐには逃げられなかったのだ。
馬乗りになろうとするゴンゾの首を、 ひげ男は床に落ちていた包丁で刺そうとした。 ゴンゾの体重は岩のようだったが、 包丁をかわされた隙にどうにか振り落とし、 ひげ男は厨房をまろび出た。 従業員らはすでに散って通路にはだれもいない。 ひげ男の荒い息が恐怖にかすれる。 床に血を引きずった跡がつづく。 鬼ごっこを楽しむ子どものように、 肥満体を揺すってゴンゾが追う。
パーティ会場では主賓だか主催者だかが演説をしていた。 ポール・モーリア楽団の気の抜けた音楽が背後に流れていた。 酒の入った参加者らが赤い笑顔で拍手喝采した。 そこへサイコパス二名が乱入した。 押しのけられた参加者らはどよめいたり悲鳴をあげたりした。 催しの一部と取り違えて拍手する者もいた。 びっこを引いて追われるほうは、 何やらわけのわからぬ雄叫びをわあわあとあげていた。 つまらぬ人生が間もなく終わるのを悟り、 いまや死にたくないという切実な願いよりも、 いかに殺されるかを畏れての狂態だった。 不幸にして彼はゴンゾをよく知っていた、 社会病質ぶりや殺しの技量を。 子どもの頃からすでに尋常ではなかった。 手にかかった者の遺体をいくつも見たから知っている。 こうなるとわかっていたら引き受けなかった。 殺される殺される。 想像もしたくないような殺され方を、 いま、 される。 このおれが……。
哀れなひげ男はそこへ至ってようやく、 短銃を貸与されていた事実を思い出した。 射撃訓練まで施されていたのだ。 殺される前に殺せばいいんじゃん? そんな名案をなぜ思いつかなかったろう。 子ども時代のおれとは違うのだ。 いまのおれにはこれがある。 懐から銃を抜いて安全装置を外し、 ゴンゾのいるとおぼしき方角へ発砲した。
ぱん。
乾いた銃声と風切り音。 ゴンゾは興味深げに壇上を振り向いた。 騒ぎを好感触と錯覚し、 演説にますます熱が入った男の禿頭に、 黒い風穴が空いた。 男は半笑いでよろめき、 血と脳漿の飛び散った垂れ幕に手をついた。 留め金からはずれた垂れ幕をケープのように巻きつけて男は演台から転げ落ちた。 悲鳴が波紋のように広がり、 密な広間は出口を目指して恐慌状態となった。 地位も名誉もある大人たちが狂ったように押し合いへし合いする。 へったくそだなぁ、 もっと狙って撃てよ。 まぁおれもひとのこといえないけどな。 ゴンゾは失笑しながら他人を突き飛ばしたり踏みつけたりして敵へ迫った。 ひげ男はうわずった悲鳴をあげながら銃を乱射した。 ぱん、 ぱんぱん、 ぱん。 優雅で間の抜けた 「恋は水色」 が流れるさなか、 スローモーションさながらに展開される光景。 右往左往するひとびと。 血を噴いて倒れる男。 割れる食器。 砕け散り暗くなる照明。 壁や天井が穿たれ漆喰を散らす……。
ゴンゾは見当違いの方角へ飛ぶ弾丸を一顧だにしなかった。 血溜まりやまだ生きている人間やガラス片を踏みつけて迫った。 ひげ男はついに真っ正面から狙いをつけて引金をひいた。 がち。 がち。 撃鉄が空虚な音を響かせた。 ゴンゾとひげ男の視線がかち合った。
わああああ。 ひげ男は狂った子どものように叫んでテーブルをひっくり返した。 皿や料理が飛び散った。 テーブルの下敷きになった老人が潰れた蛙のような息を洩らし、 逃げようともがいた。 その手首をゴンゾは平然と踏みつけた。 ひげ男は椅子を振りまわそうとした。 ゴンゾはその前に立ち、 椅子を優しく受け止めて床に降ろした。 サングラス越しに微笑みかけた。 そして笑顔でひげ男の横面をぶん殴った。 倒れた相手に馬乗りになってさらに殴った。 拍子でも取るように左右の拳で交互に殴りつづけた。 ふんふん、 と鼻唄を歌った。 ひげ男の歯が飛び散った。 顔は空気の抜けたゴムボールのように変形し血まみれになった。
「ひゃめへふれ、 ほんほ」
やめてくれゴンゾ、 といったのである。 そこで殺し屋は素直に手を止めた。 「だれだあんた。 おれの名を知ってるのか」
「ほらひひはよ」
「……虎吉か?」
顔の腫れ上がった血まみれひげ男は床で力なく肯いた。
「三十年ぶりだな。 あの集団自殺の生き残りがほかにもいたとは。 便りのひとつでもくれたらよかったのに。 だれの差し金だ」
訊くだけ訊いてから殺しても損はないとゴンゾは思ったのだが、 質問のタイミングが遅すぎたようだ。 虎吉と呼ばれた男は白目を剥いて答えなかった。 虫の息だった。
「教えろ。 目的はなんだ。 まさかあの薬と姫川家に何か関係でもあるのか?」
パトカーのサイレンが聞こえてきた。 ゴンゾの注意がそれた隙にひげ男は絶命した。 逃げ得という顔をしていた。 頬をピシャピシャ叩いても反応はなかった。 案の定、 答えは得られなかった。 なんだよ情けねぇなとゴンゾは呻き、 ちょっと羨ましく思いながら、 腰をさすって立ち上がった。 銃を奪うのを忘れなかった。 安全装置をかけて突き出た腹のベルトに突っ込み、 屍体を踏みつけたり跨いだりしながら、 血の海となった広間を歩み出た。