杜 昌彦

GONZO

第11話: あしたのパーティ

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2020.10.08

 幼い頃の娘たちは、わたしの膝や眠りにつく前の寝床で、ゴンゾとミコトの冒険譚に「それからどうなったの?」と素直に目を輝かせてくれたものだ。いまではすっかり知恵がつき、そんな荒唐無稽なブロマンスなどあり得ない、有名人と同級生というのも耄碌した母の妄想だと決めつけるに至った。
 いまではキーボードと画面が娘たちの代わりに物語に耳を傾けてくれる。その向こうにはいまだ出逢わぬ読者がいるはずだ。興に乗りはじめると家事の手を抜きがちになり、話しかけられても生返事になるのがわたしの悪い癖である。無言で顔を見合わせる娘たちの様子には気づいていたが、よもや認知症や精神疾患を疑われているとは思いもしなかった。
 下読みをしてくれる知人らにその旨をこぼすと、うちもそんなものよと慰められた。しかし彼女たちの存在までもが疑われているとあっては何の気休めにもならない。妄想が実在を主張するのはむしろ当然だからだ。
 夫? 彼がいまさらわたしに何の関心を持つというのか。わたしたちの結婚は社会通念に適合するための利害関係でしかなかった。ひとは屋根の下で食べて税金を納めて生活していかねばならない。他人と同じ枠に収まらなければことにされ、社会からすり抜けこぼれ落ちてしまう。自らを偽らぬゴンゾとミコトのような生き方は、妄想に留めるからこそ美しいのだ。
 ご記憶のようにその年は舞台やコンサートが中止され、仲間内の飲み会すら憚られ、企業の会議から催事に至るまで、あらゆる会合がオンラインに移行した。感染拡大は秋になっても収まらず、いつ終わるとも知れぬ漠然たる不安と、ただ待たされるだけの日常に危機感は薄れて、イソプロパノールの消毒スプレーや、赤外線の体温測定器が設置され、体調不良者はご遠慮をとか、対人距離を保てなどと促されてさえいれば、万事いいわけが通るようになった。
 その夜も何らかの団体の集会がホテルで行われていた。会は盛況で、大勢が密集して歓談していた。立食であるからにはだれもマスクをしていなかった。そして尾行者は、ウイルスを持たぬ代わりに短銃を携行していたのである。
 語ったことをわたしがたびたび覆すのはすでにご承知いただけたかと思う。「尾行者はホテルの裏口へ逃げ込んだ」と前回は書いた。まるでそこにはだれもいなかったかのような言い草だ。実際は皿洗いのアルバイト学生が携帯灰皿を手に喫煙していた。施錠されていなかったのはそれが理由である。さして歴史も格式もないホテルとはいえ、白衣に臭いがつくのは厨房では嫌われる。要領の悪さを罵倒され、ふて腐れて、禁じられた煙草をこっそりふかしていたのである。
 皿洗いの学生はゴミバケツや積まれた段ボール箱、エアコンの室外機、唸りをあげて油くさい熱気を吹くダクトの傍らで、裏通りから狭い夜空を見上げ、星の見える故郷を思い返して弱気になっていた。青葉市は何の特色もない地方都市である。空だっていつも灰色に淀んでいて晴れ渡ることがない。人身事故も日常茶飯事で、つい先刻も新聞だか週刊誌だかの記者が、ホームから転落して死んでいた。
 学費や奨学金という名の借金、難航する就職活動、疎遠になった友人たちや別れた恋人を思って溜息をついた刹那、必死の形相の男に突き飛ばされた。男は厨房につながる裏口へ消えた。学生は悪態をついて立ち上がり、膝や尻の土埃を払った。肥った黒ずくめの男がつづいて突進してきた。学生は再び撥ね飛ばされ、壁に頭を打ちつけて気絶した。気を失ったのは幸運だった。その夜の惨劇を目にせずに済んだからである。
 夕食にはやや遅い時間ではあったが厨房は最高潮の忙しさだった。疫病のために閑古鳥が鳴いていたホテルにとってその夜の会合は久々の大仕事だった。白衣の従業員らが綿密に振り付けされたかのように立ち働き、包丁や油がリズムを刻み、香り豊かな湯気が漂い、ペンギンの商標がついたステンレスの大型器具が唸りをあげていた。
 パーカとジーンズの痩せたひげ面の男が、ついで肥った黒ずくめのサングラス男が、突風のように厨房へ転がり込んだ。追われる男が従業員を突き倒すように押しのけ、スープの煮え立つ寸胴鍋を倒した。追う肥満漢は蝶のように飛びのいてかわした。跳ね返った熱いスープを数人が浴びて絶叫した。
 何が起きたかわからぬまま、従業員らは悲鳴をあげて逃げ惑った。
 ひげの男は厨房を駆け抜けながら食器が積まれたワゴンを倒し、人参やじゃが芋や塊肉、壁に吊られた鍋や杓子などを掴んでは投げた。肥満男は見た目からは想像もつかぬほど機敏にそれらをかわし、手近な包丁を掴んで投げた。ひげ男はぎゃっと悲鳴をあげた。肥満男は惜しい、とでもいいたげに残念そうな顔をした。
 ひげ男は獣のように吼えて左の尻から包丁を引き抜き、泣きながら肥満男に投げつけた。肥満男は軽快な舞踏さながらにそれをかわし、意地悪い笑みを浮かべて、生クリームがこってり塗られたデザートを投げた。お菓子が横っ面に命中したひげ男はスープで足を滑らせ、滑稽なほどの弧を描いて上向きに卒倒した。
 従業員らの証言に残るのはそこまでだ。彼らとて望んで目撃したわけではない。出口に殺到して押し合いへし合い、すぐには逃げられなかったのだ。
 馬乗りになろうとするゴンゾの首を、ひげ男は床に落ちていた包丁で刺そうとした。ゴンゾの体重は岩のようだったが、包丁をかわされた隙にどうにか振り落とし、ひげ男は厨房をまろび出た。従業員らはすでに散って通路にはだれもいない。ひげ男の荒い息が恐怖にかすれる。床に血を引きずった跡がつづく。
 鬼ごっこを楽しむ子どものように、肥満体を揺すってゴンゾが追う。
 パーティ会場では主賓だか主催者だかが演説をしていた。ポール・モーリア楽団の気の抜けた音楽が背後に流れていた。酒の入った参加者らが赤い笑顔で拍手喝采した。そこへサイコパス二名が乱入した。押しのけられた参加者らはどよめいたり悲鳴をあげたりした。催しの一部と取り違えて拍手する者もいた。
 びっこを引いて追われるほうは、何やらわけのわからぬ雄叫びをわあわあとあげていた。つまらぬ人生が間もなく終わるのを悟り、死にたくないという切実な願いよりも、いまやどのように殺されるのかを気にする狂態だった。不幸にして彼はゴンゾへの予備知識が豊かだった。綿密に下調べをして尾行に及んだのだ。こんなことになるとわかっていたら引き受けなかった。殺し屋は予想以上に狂っていた。
 殺される殺される殺される。想像もしたくないような殺され方を、いま、される。このおれが……。哀れなひげ男はそこへ至ってようやく、短銃を貸与されていた事実を思い出した。射撃訓練まで施されていたのだ。殺される前に殺せばいいんじゃん? そんな名案をなぜ思いつかなかったろう。彼は懐から銃を抜いて安全装置を外し、ゴンゾのいるとおぼしき背後へ発砲した。
 ぱん。
 乾いた銃声と風切り音。ゴンゾは興味深げな薄笑いで隣を見やった。ハプニングに戸惑って半笑いを浮かべていた男の禿頭に黒い穴が空いた。その男が半笑いのまま、ぱったりと卒倒するや悲鳴が波紋のように広がった。
 密な広間は恐慌状態となった。地位も名誉もある、いい歳をした男たちが狂ったように叫び、互いを押しのけ合って出口を目指した。腰を抜かした演台の男が這いずって逃げようとする。へったくそだなぁ、もっと狙って撃てよ。まぁおれもひとのこと、いえないけどな。ゴンゾは失笑しながら他人を掻き分けたり突き飛ばしたり、踏みつけて乗り越えたりして敵へ迫った。
 ひげ男はうわずった悲鳴をあげながら銃を乱射した。ぱん、ぱんぱん、ぱん。
 優雅で間の抜けた「恋は水色」が流れるさなか、スローモーションさながらに展開される光景。右往左往するひとびと。血を噴いて倒れる男。割れる食器。砕け散り暗くなる照明。舞台に飾りつけられた横断幕が落ちる。壁や天井は漆喰を散らして穿たれる……。見当違いの方角へ飛ぶ弾丸をゴンゾは一顧だにしなかった。血溜まりやまだ生きている人間やガラス片を踏みつけて迫った。
 ひげ男はついに真っ正面からゴンゾに狙いをつけて引金をひいた。
 がち。がち。撃鉄が空虚な音を響かせた。ゴンゾとひげ男の視線がかち合った。
 わああああ。ひげ男は狂った子どものように叫んでテーブルをひっくり返した。皿や料理が飛び散った。テーブルの下敷きになった老人が潰れた蛙のような息を洩らし、逃げようともがいた。その手首をゴンゾは平然と踏みつけた。
 ひげ男は椅子を振りまわそうとした。ゴンゾはその前に立ち、椅子を優しく受け止めて床に降ろした。サングラス越しに微笑みかけた。そして笑顔でひげ男の横面をぶん殴った。倒れた相手に馬乗りになってさらに殴った。拍子でも取るように左右の拳で交互に殴りつづけた。ふんふん、と鼻唄を歌った。ひげ男の歯が飛び散った。顔は空気の抜けたゴムボールのように変形し血まみれになった。
「ひゃめへふれ、ほんほ」
 やめてくれゴンゾ、といったのである。そこで殺し屋は素直に手を止めた。「だれだてめえ。おれの名を知ってるのか」
「ほらひひはよ」
「……虎吉か?」
 顔の腫れ上がった血まみれひげ男は床で力なく肯いた。
「三十年ぶりだな。あの集団自殺の生き残りがほかにもいたとは。便りのひとつでもくれたらよかったのに。だれの差し金だ」
 訊くだけ訊いてから殺しても損はないとゴンゾは思ったのだが、質問のタイミングが遅すぎたようだ。虎吉と呼ばれた男は白目を剥いて答えなかった。虫の息だった。
「教えろ。目的はなんだ。まさかあの薬と姫川家に何か関係でもあるのか?」
 パトカーのサイレンが聞こえてきた。ゴンゾの注意がそれた隙にひげ男は絶命した。逃げ得という顔をしていた。頬をピシャピシャ叩いても反応はなかった。
 案の定、答えは得られなかった。なんだよ情けねぇなとゴンゾは呻き、ちょっと羨ましく思いながら、腰をさすって立ち上がった。銃を奪うのを忘れなかった。安全装置をかけて突き出た腹のベルトに突っ込み、屍体を踏みつけたり跨いだりしながら、血の海となった広間を歩み出た。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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