崖っぷちマロの冒険

第7話: ミスリードの蘭

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.12

翌日、仁美は欠席した。体調を崩したので休ませる、と家族から連絡があった。ブラジルはそう説明した。
 彼女の家族について知る者は少なかった。教団との関わりを知るのは僕だけのはずだ。父親の帰還の報せは、学校には伝わったろう。欠席を伝えた家族とは繁雄氏だ。
 仁美の体調不良はマロのせいだ、と誰もが考えた。あながち的外れではなかった。絵に描いたような幸せな家庭を、僕の父親に蹂躙されたのだ。無残な傷のおかげで、表立って非難はされなかった。誰もが後ろめたそうな顔をした。
 昼休みにまた呼び出された。保健教諭の声は、放送では無愛想に聞こえる。知らない人には怒ってると思われかねない声だ。
 保健室で待ち受けていたのは、彼女ひとりではなかった。飯沢警部の椅子は玩具に見えた。スネ夫頭は同情らしき色を見せた。警部はあまり関心がなさそうだった。
「どうしたその顔は」
「不安の捌け口にされたんですよ」
 僕はパイプ椅子に座った。保健教諭は診療台の方を睨んでいた。事務机に片肘をつき、頬杖をしていた。僕の顔については、すでに担任から聞いたようだ。
「傷害で訴えたらどうだ」
「子供にそんな権利ありませんよ。捜査の進展は?」
「遺体発見時の状況をもういちど聞きたい。正確な時刻は?」
「帰りの会は早かったな。掃除は五分くらい。あそこにどれだけ長くいたか。気がつくと後ろに鈴木晴彦がいた。それから教室へ、先生を呼びに」
「他に誰かいたか」
「遅かったんで。野次馬の多さに驚いたくらいです。一緒に現場に戻ってから、先生に頼まれて職員室に。全員の顔ぶれは想い出せないな。知らない先生もいるし。あ、そういや隣のクラスの生徒が」
「掃除のあいだ、上井戸を見かけたか」
 僕は警部の顔を見つめた。小さな鋭い眼は何も語らなかった。保健教諭の機嫌が腑に落ちた。スネ夫頭は憂鬱そうにペン先を確かめた。何か不具合でもあったかのように。
「好きな子に呼ばれて頭一杯で。しかもその子が殺されたんです。仮に何か見たとしても忘れますよ。職員室にいたんじゃ?」
「本人の主張ではな。他の先生方の証言では終業後、十五分で現れた。授業は定時に終わったんだな?」
「糞でもしてたんでしょ」
「だとすれば教職員トイレじゃない。全個室が空いてた。小便した先生が見てる」
「記憶違いかも。部外者が侵入した可能性は?」
「不審人物の目撃情報はない。塀、金網、裏門を乗り越えた形跡もない。正門から入れば誰かに見つかったろう」
「教え子を殺し、何喰わぬ顔で職員室へ。それから教室で採点? 先生が長縄を持ち出せば、きっと誰かが憶えてる。まして生徒の小刀を盗れば……」
「子供にとって教師は絶対だ。何か理由があると見なされる。かばおうとする心理も働く」
「彼が刺してあの角度ね。指紋は?」
「被害者のだけだ。私は誰を疑ってるともいってない」
 小岩井先生は苛立ちを露わにした。「その辺にしてあげてください。相手は子供ですよ。ショックを受けてるんです。同級生を亡くして、しかも現場を目撃——
「私にはそう見えんがね。捜査の打切りが決まった」
 聞き違いではなかった。警部は両膝に手をつき、椅子を軋ませて立ち上がった。台詞を消化するかのように、投げやりに続けた。
「父親は続行を望まなかった。母親も了承した。元亭主の意向なら、とな。マスコミには自殺と発表する。被害者は悩んでた。縄の縛り方は緩かった。自分でやったんだ。子供にはわからんだろうが、使い古された冗談さ」
 誰に向けてそういったのだろうか。彼は機敏に戸口をくぐった。滑稽には見えなかった。広い背中に疲労が滲んでいた。部下は去り際、申し訳なさそうな一瞥を先生へ向けた。足音が廊下を遠ざかった。僕は先生に向き直った。
「思ったよりいい人たちだ」彼女は驚いたように僕を見た。「彼らは上井戸先生を知らない。疑うのは捜査上の手続です」
「だからって——」子供を相手にしてることを想い出し、彼女は口をつぐんだ。
「十五分間、彼はどこで何を」
「なんで私に訊くの」
「お友達でしょ。原稿を読んであげるほどの」
「相談事があったの。あなたには関係ない。顔、手当て必要?」
「酷いのは見た目だけなんで……」
 小岩井先生はどこかよそよそしかった。僕を通して背後の何かを見ているかのようだった。
 放課後、集団リンチにも拉致にも遭わなかった。いつもより早く図書館に着いた。黒沼さんは年配の利用者に、複写機の使い方を教えていた。晴彦は現れなかった。地震を予知する鼠のようなところが彼にはあった。
 奥の心理学コーナーが空いていた。『人喰い鬼のお愉しみ』を読みはじめた。現実の悪夢は遠ざかった。あと少しで読み終わりそうだった。例の綽名を呼ばれ、振り返ると仁美がいた。ダッフルコートを着ていた。没頭しすぎて足音も聞こえなかった。
 出歩いて大丈夫かと尋ねた。
「学校サボっちゃった。隣いい?」
 母親にも何ひとつ断れた試しがない。僕は鞄を足許へ移し、空いた席を勧めた。
 仁美は前屈みに座り、椅子の縁を掴んだ。狭めた肩が華奢な体を強調した。ブラインドの下りた窓を見つめ、歌うように話した。「昨日はパパのベッドで寝たの。遅くまで話した。お昼にパパが起きるまで、ずっと寝顔を見てたわ。ホットケーキ焼いたげた。それからパパは会社」
 僕はペーパーバックに視線を落とした。声が高すぎるように感じた。仁美は僕の手を引っぱり、無理に立たせた。
「ね、お勧めの本教えて。マロ君の好きなもの、何でも知りたいの」
 僕は本を尻ポケットにねじ込み、仁美を児童書コーナーへ案内した。
「きっと図書館にいると思った。マロ君、本好きだから」
「初めて来たんでしょ。これなんかどう?」
 低い書架から『なくなったかいものメモ』を選び、示した。仁美は困惑したように微笑んだ。見ようともしない。好みを尋ねても無駄だと悟った。本はまた今度にして公園へ行こうと誘った。
 カウンターを通過するのは気まずかった。黒沼さんは気づかないフリをしてくれた。公園まで当たり障りのない会話をした。ブラジルの由来は仁美も知らなかった。
 前と同じブランコに並んで座った。鞄の底からカタログをひっぱり出した。「どれがジェレミー?」
 仁美は小首を傾げた。「よくわかんない。写真のせいかな……」
「せめて画像がもっと鮮明だったらな。実物が見られりゃ一番だけど」
「貸して。しまったげる」
 一度決めたら実行する子だった。強引に鞄を奪われた。仁美は中身を膝に乗せ、底板を外した。本を取り出してしげしげと見た。
「それ借り物なんだ。しまっといて」
 仁美は本を抱き締めて笑った。「これ貸して」
「又貸しは……」僕は手を伸ばした。仁美は急に身を翻し、駆けだした。「あっ待て。返せって」
 仁美は高い声で笑った。遊具や落葉樹のあいだを、巧みに逃げまわった。僕は無様に息を切らした。人を困らせて愉しむ神経が理解できなかった。
 仁美は挑発するように、本を高く掲げて振り向いた。枯葉で足を滑らせ、悲鳴をあげて倒れた。僕はひざまずいて助け起こした。「大丈夫?」
「本、汚しちゃったかも……」
 視線が思わず本へ行った。
「ばか!」仁美は僕を突き飛ばし、立ち上がって駆けだした。
 フェンスに追いつめた。僕は両手で金網を掴み、仁美を押さえ込んだ。彼女の息は熱かった。犬を連れた老人が、じろじろ見ながら通り過ぎた。仁美は尻に本を隠した。僕はその手を掴もうとした。仁美は僕の両腕からすり抜けようとした。交通は激しく、嬌声は騒音にかき消された。
 急に自分のしていることが莫迦らしくなった。彼女は何かを感じ取ったようだ。抵抗をやめた。僕は本を奪い返した。
「いいわ」
「え?」
「実物見せたげる。置いてる店知ってるの」
 幹線道路沿いに、学区外れまで歩かされた。昭和期の民家。空室の目立つ雑居ビル。無人契約所。パチンコ屋。大きな駐車場のある廃墟。
 その寂れたチェーン店は、裏が住宅になっていた。壁や看板は褪色し、排ガスに汚れていた。軒下には二百円のカプセル自販機が並んでいて、そこだけ新しく見えた。隣には幟の立ち並ぶ「書店」があった。自販機は「地元で出逢える」と謳っていた。
 店内は薄暗かった。蛍光灯は端が黒ずみ、一部がチラついていた。処分品のワゴンに埃が積もっていた。ベーゴマを物欲しげに見つめる幼児。模型コーナーでアニメの設定を語り合う若者二名。テレビゲームに群がる、小三くらいの四人組。客はそれで全部だった。有線がアイドルグループの曲を流していた。あるいは成人アニメの声優かもしれない。
 縫いぐるみの棚に、目当ての品はなかった。振り返ると仁美はレジにいた。若い店員に声をかけていた。店員は背後の暖簾に首を突っ込み、店長を呼んだ。奥で声がした。店員は仁美に頷きかけた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るわ」仁美はそういい残し、カウンターの奥へ消えた。
 値札に並ぶ九を数えて暇を潰した。自分の人生にこれほど無縁の場所もないと思った。将来子供を持つつもりもなかった。
 暖簾は観光地の土産物で、日に灼けていた。その上には店名入りの丸時計。あれも本部から買わされるのだろう。針は緩慢に動いた。店員の眼は死んだ魚みたいだった。
 大学生は何も買わずに出ていった。小三グループはゲームをやり続けた。他機種には見向きもしなかった。幼児は鼻糞をほじった。曲は松浦亜弥に変わった。幼児は掘削作業を中断した。人差指を熱心に見つめた。手近なパッケージになすりつけた。
 店員がすっ飛んできた。僕は入れ替わりにカウンターへ入った。
 暖簾の向こうは廊下だった。右手のドアは便所か。左手は事務室だった。スチール机にパイプ椅子。バインダーの並ぶ戸棚。折り畳みテーブルには魔法瓶と紙コップ。弁当箱型のノート機は、帳簿らしきものを表示していた。さっきまでここに店長がいたのだ。
 建物の継ぎ目があった。打ち放しの壁と瓦風タイルの床。それがくすんだ壁と板張りの床に変わった。段差の手前に靴が並んでいた。茶色の健康サンダル、仁美のスニーカー。そこで靴を脱いだのを、すぐに後悔した。
 床には埃の塊が転がっていた。台所の流しで汚れ物が異臭を放っていた。虫が湧いていてもおかしくなかった。茶の間の炬燵には干物と酒瓶。ささくれた畳にゴミが散乱していた。週刊誌に弁当の容器。耳掻きや爪切り。丸めたティッシュ。脱ぎ棄てられた靴下や股引。家具には埃が積もっていた。テレビ。戸棚。茶箪笥。小さな金庫。神棚には蜘蛛が巣をかけていた。
 仏壇が眼をひいた。幼稚園の制服を着た少女が、黒い額縁に納まっていた。夏の木漏れ日に眼を細め、歯を見せていた。
 隣の座敷には万年床があった。廊下の反対側は、傾斜の急な階段だった。二階は在庫が占領していた。階段の半ばまで段ボール箱が浸食していた。地下が気になった。身軽に動けるよう、鞄を床へ置いた。階段の軋みに注意した。
 ドア越しに一連の物音が聞こえた。フラッシュの焚かれる音。重いシャッター音。自動的にフィルムを巻き上げる音。ドアをそっと開けた。閃光で眼がくらんだ。スタジオ照明が吊られた広い部屋。竿先に傘を取りつけた照明機材。壁から床に続く白い背景幕。小男がファインダーを覗いていた。
 クッションを並べた籐の長椅子。そこで仁美が自慰の真似事をさせられていた。クッションの暗紅色と白い肌の対比が眩しかった。彼女の眼が僕を捉えた。羞恥と怯えがよぎった。
 小男は背中を向けていた。侵入者に気づかず、シャッターを切り続けた。僕はリノリウムの床を横切り、照明を掴んだ。両手で大きく振り回した。ケーブルが切れ、青い火花を散らした。電球が音高く砕けた。
 傘と男の眼鏡が吹っ飛んだ。
 血まみれの男は、カメラを護るように抱え込んだ。その腹に爪先を蹴り入れた。緩んだ腕から宝物を奪い、床に叩きつけた。大口径のレンズが割れた。
 男は腹を抱えたまま、起き上がらなかった。僕はカメラを拾い上げた。歪んで裏蓋が開いていた。幅広のフィルムを引き出した。男は手を伸ばして這い寄ってきた。その頸にフィルムを巻きつけ、締め上げた。
 男の舌が紫に膨れ上がった。飛び出した眼に恐怖が宿った。僕はその眼を見つめた。生命の火が弱っていくのがわかった。自分のすることに何の感情も持てなかった。それがその頃の日常だった。
「マロ君やめて。もういいのよ!」
 仁美がしがみついてきた。僕は手の力を緩めた。男は砂袋みたいにくずおれた。彼は手で喉を押さえ、激しく咳き込んだ。フィルムはよれてのびていた。仁美の肌は青ざめていた。見ないように努めた。
「ベークライトにガラスの眼……か。真実味を持たせたかったのはわかる。でもどこで仕入れた知識だよ。アンティークじゃないといったのは君だぜ」
 仁美は慄える体を押しつけてきた。上衣の肩が涙で濡れた。「助けて欲しかったの。打ち明ける勇気がなくて……」
 服は背の高い椅子にかかっていた。鞄もそばにあった。彼女が身につけるあいだ、背を向けて小男を見張った。死ぬ心配はなかった。しぶとそうに見えた。こいつも僕も同じだ。
「外へ出たら通報しよう」
「ネガとプリントを処分するだけにして。お願い。みんなに知られたくないの」
 僕は男の頭を爪先で小突いた。ネガとプリントの在処を尋ねた。男は答えなかった。虫の息に見せればやり過ごせると思ってるのだ。
 僕は現像室を見つけた。棚を倒した。洗濯ばさみのついた紐を引きちぎった。赤い電球を叩き割った。薬品を残らずぶちまけた。防湿庫を破壊した。
 自分が誰を真似ているのかは気づいていた。小男の悲痛な叫びは、騒音に掻き消された。
 僕は戻ってきて、さっきの竿を手にした。天井の照明を叩き落とした。三つめに取りかかったとき、小男が僕の脚にすがりついた。「頼むからやめてくれ! ネガとプリントは茶の間の金庫だ……」
「それで全部か」喉元に竿先を突きつけてやった。男はその先端を見つめて頷いた。喉仏が上下した。「データの複製とかは?」
 男は蔑むように顔を歪めた。「デジタル? あんなもの……」
 僕は彼の頭を蹴り飛ばした。住居にパソコンは見当たらなかった。事務所にあった骨董品だけだ。画像処理できる代物ではない。ウェブでばらまかれていたら、どうせ対処しようがなかった。
 小男に階段を上らせた。僕は鞄を背負った。男は放心したように金庫を開けた。彼の手から大判の封筒をひったくった。
「全部揃ってるか確かめて。仁美は見たくない」
 立ったまま中身を検めた。大勢の子供が記録されていた。被写体の虚ろな表情には見憶えがあった。踏みにじられた者に特有の諦め。
 セーラー服の上だけを着た少女。帽子や靴下だけの少女。様々な姿態。何人かで映ったのもあった。裸で赤い鞄を背負った幼女には吐きそうになった。死んだ娘と同年齢だった。
 人生が彼を歪めたのかもしれない。あるいはただの生まれつきかもしれない。詮索しても被害者は救われない。加害者がまともになり、罪を自覚するわけでもない。この小男みたいな者もいる。逆に人心に付け入ることで、世間の方を自分に適応させる者もいる。どちらも選べずにただ弱っていく者もいる。
 写真の大半は未整理だった。撮影日や被写体の別なく、束ねられていた。仁美のだけは別扱いだった。ネガと共に輪ゴムで纏められていた。一枚ずつ照合した。意味のある作業とはいえない。仁美を安心させるためだった。すぐそばに本人がいるので後ろめたい。ホクロは赤ん坊の頃と同じ位置にあった。
 欠落がないことを仁美に納得させ、炬燵の上からライターを発掘した。台所の流しで火をつけた。炎に舐められて黒く縮む束。仁美は僕の肩越しに見届けた。
 茶の間の男は放心状態だった。仁美の手を引いて廊下を抜け、暖簾をくぐった。若い店員が驚いた顔をした。構わずカウンターを出た。一度も振り返らなかった。
 来た道を引き返した。騒音が沈黙を補った。僕だけ鞄を背負っているのが愚かしく思えた。
 やがて仁美は伏眼がちに話しだした。独り言みたいに、ぽつりぽつりと。
「一年くらい前、キーホルダーを万引きしたの。別に欲しくなかった。すぐ棚へ戻すつもりだった。誰にも見られてなかった。店員さんにもお客さんにも。もしかしたらこのまま外へ出ても大丈夫かも。そう考えたら試してみたくなった」
 大型トラックが轟音とともに排気ガスを撒き散らして過ぎた。
「店長さんが『ポケットのもの出しなさい』って。事務室へ連れてかれて、座らされて。『ああ、警察や学校に通報されるんだ。仁美が普通の家の子じゃないって、みんなにバレちゃうんだ』って思った。長いお説教のあと、今回だけは見逃してくれるっていわれた。『内緒にする代わりにいうことを聞け』って。それから今日まで何度も……。もう許してって頼んでも、写真をばらまくって脅されて……」
 銀杏ロードに差しかかった。晴彦の姿を認めた。彼は舗道に屈み込み、小刀で何かを執拗に突き刺していた。異様な光景だった。何かが思い通りにならないと、彼はしばしば感情を爆発させるのだ。その怒りは他人には理解不能だった。
 彼はふと顔をあげた。まるで表情のスイッチを切り換えたようだった。幼い眼を剥き、口をぽかんと開けた。彼としては異例の機敏さで立ち上がった。
 僕は彼の足許に眼を奪われた。最初は百円ショップのゴム玩具に見えた。芸を仕込もうとしたが、命令に従わないので抹消した。そんなところか。
 それは切り刻まれたカナヘビの死骸だった。
 晴彦は蒼ざめて立ち尽くした。お嬢が殺されたあの日みたいに。いったん僕らをやり過ごし、十メートルほど遅れてついてきた。骨がないかのような身のこなしだった。
 仁美は足許を見つめて歩いていた。自分の世界に籠もり、晴彦の存在には気づかなかった。夕方で交通は激しさを増していた。毒のペーストみたいな視線を、背後に感じた。
 仁美は急に立ち止まった。意を決したように。
「どうした?」
 そう尋ねながら、脳裏には別の考えが渦巻いていた。お嬢の最期の言葉を耳にする機会が、晴彦には本当になかったろうか。あの頃は廊下でたびたび話しかけてきた。僕への異常な執着。アリバイも充分ではない。嫉妬から逆上、先まわりして彼女を殺し、体育倉庫の陰に隠れた……可能性はある。
「マロ君、本当にありがとう」
 仁美に抱きつかれた。唇を塞がれ、呼吸を奪われた。唇は熱く湿っていた。舌は蛇のようだった。
 僕の視線は晴彦を捉えていた。彼は電柱の陰で息を呑んでいた。憧れの女子は、箱の中でバレエを踊る人形ではなかったのだ。
 意に沿わなかったカナヘビみたいに。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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