杜 昌彦

GONZO

第6話: 悪夢っ子

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2020.08.30

 ご存知のように梶元権蔵と姫川尊のあいだには、何らかのロマンティックな関係が疑われている。数十年前に片方は死亡し、もうひとりは行方を眩ました。当事者らが口を閉ざした以上、真相はだれにも知りようがない。
 知りようがないのをいいことに、一連の事件を題材にしたフィクションの類では、決まってそれが見せ場とされ、冷酷非情な殺し屋が心優しき美少年にほだされ愛に開眼、といった茶番が、あたかも歴史的事実のごとく語られる。読者諸氏もきっと甘ったるい展開を期待されようが、あいにく姫川尊の人柄を知る、かつて同級生だったわたしには、違法行為で生計を立てるデブ中年という、彼ならば容赦なく蔑むに違いない相手へ、人間らしい温もりを吹き込むなど笑止千万。彼自身がだれよりも非人間的な冷血漢だったのであるからして、ふたりの出逢いも必定、殺伐とならざるを得ないのである。
 どうかその薄笑いを引っ込めて、鼻の下を縮め、脳内に立ち籠めた桃色の霧を晴らしてくれたまえ。実際に立ち籠めていたのは乳白色の霧である。空は暗い灰色だ。雲が厚く垂れ込めている。ゴンゾの赤いロードスターが丘を登り、姫川邸に近づくにつれて霧は深く立ちこめた。湿気が肥満した膚やマスクをじっとり濡らす。
 屋敷はあり得ぬほど高い塀にどこまでも囲まれており、さながら監獄か、重度精神病患者を隔離する山奥の閉鎖施設を思わせた。錬鉄の巨大なゲートにはあたかも「働けば自由になる」の標語が掲げられているかのようだった。
 監視カメラが四方八方から訪問客を狙っていた。表札はなかった。掲げずとも青葉市内にだれの屋敷か知らぬ者はない。ゴンゾは呼び鈴を押した。忘れられた屍骸が砂になるほどの時間が過ぎた。それが金持連中の手なのだ。どちらが待たせる側か逐一思い知らせようとする。
 彼はここに立たされるまでの経緯を苦々しく思い返した。夏祭りの屋台で出されるような季節はずれの砂糖水。酸化した油でべとつく血の色の円卓。差し出されたタブレットに表示された不登校児の写真……。
「どういう冗談かわからんな。おれは殺し屋だ。子守じゃない」
「本当に家庭教師をしろというつもりはない。表向きだ。身辺警護だといったろう」
「違いを教えてくれ」
「何もせんでいいのだ。餓鬼のそばで酒でも飲んでいろ。それだけで小遣いを稼げる。気楽なもんじゃないか」
 姫川工業会長の孫か。まったく生意気そうな面をしてやがる。フリルやヒダ飾りをあしらった喪服のようなドレスや髪飾り。踵の高いブーツや網タイツ。何より病人めいた化粧……。おやじさんの孫娘のよくある紛い物だな、とゴンゾは思った。何も知らずにああいう女に憧れる有象無象のひとり。好き放題に甘やかされて育っただけのことはある。病めば特別な何者かになれると勘違いしている。睡眠薬や剃刀が好きそうな、どこまでも凡庸なお嬢ちゃんだ。
「あんたが楽だと請け合ってその通りだったためしがない。どんな裏があるのかあらかじめ知っときたいね。汗をかくのはこっちなんだ」
「このか弱い老いぼれを疑うのか? 日本人の道義心も地に落ちたもんだ」やれやれ、とでもいったように田澤老人は溜息をついて首をふった。「あたしにだって付き合いってもんがある。姫川家からの依頼とあっちゃあ断れんよ」
「勝手にしろ。おれには関係ない」ゴンゾはサングラスのブリッジを指先で押し上げ、立ち上がった。いつものように砂糖水には一滴も口をつけなかった。
「おまえさんのに関係があってもか」
 背を向けたゴンゾが足を止めた。田澤老人は台詞に効果があったのを見てとった。
「あの薬の出所を知りたいんだろう、
 かちっ、と回線が接続される音がした。声はなかった。遠くかすかに砂の流れるような気配があるだけだ。ゴンゾは車から身を乗り出し、田澤老人の紹介状をレンズに掲げた。電子錠がはずれる音がしてモーターが唸り、煉獄の入口を思わせるゲートがひらいた。インターフォンからはひと言の挨拶もなかった。敷地に一歩踏み入れると背後でゲートが締まり、電子錠がかかる重い金属音がした。
 手入れが行き届いているにもかかわらず山奥のように鬱蒼とした暗い庭をどこまでも進まされた。個人宅の門というより国境を通過したかのようだった。
 中央に噴水のある広場に出た。ルネサンス様式の洋館と二階建ての古民家が融合したキメラのような建物が見えた。重要文化財に指定されていそうな豪邸だった。明治時代の資本家の亡霊ならまだしも、生身の現代人が暮らしているとは思えなかった。石畳は洋館の正面へつづいている。入口には屋根があり彫刻の施された列柱で支えられていた。どこかに駐車場があるのだろうが玄関前に停めた。建物まで歩かされるのが癪だった。
 エプロンを着けた無愛想な女が扉の前に立っていた。ハイネックのカットソーと色褪せたジーンズ、運動靴、縁の細い眼鏡。いずれも格安量販店で買い揃えたらしき品で、ゴムで束ねたおかっぱの髪やそばかすの散った化粧っ気のない顔は、女中というより保育士のように見えた。ミコト様がお待ちですと女は陰気な声でいった。布マスク越しのせいで耳をそばだてなければ聞きとれなかった。
 広大な玄関に通され、迷宮のような長い廊下をついて歩いた。帽子は脱いだが靴を脱ぐ必要はなかった。床は飴色に磨き上げられた寄木細工だった。高いアーチ天井は黒くくすんでいた。壁の漆喰は現代の左官の技術ではなさそうだった。昼間なのに照明がついていても暗い。天候のせいばかりではないようにゴンゾには感じられた。この屋敷に使用人がひとりきりのはずはないが人の気配はなかった。
 どこへ通されるのかと思えば裏口だった。なかなかの待遇だとゴンゾは思った。女は振り返りもせずに中庭を歩きつづけた。中庭とはいえ森林公園の遊歩道のようだ。芝生や植え込みがじっとりと濡れている。小さな洋館が見えてきた。本館のミニチュア版のような佇まいだ。姫川宗一郎の孫娘は離れで生活しているらしい。
 松精テレピン油の臭う応接間に通された。フットボールの試合をする必要がなければ充分な広さだ。暗い本館とは異なり、天気さえよければひだ飾りのついたカーテンからは柔らかい陽射しが降りそそぐのだろう。調度類はどれも彫刻が施されたり天鵞絨が張られたりした、重厚な造りの骨董品だった。
 写真で見た少女が窓際で絵を描いていた。画架に固定されたキャンバスに絵の具を塗りたくっている。窓から見える景色を描いているようだ。暗い絵だった。
「なぜ外で描かない」ゴンゾは声をかけた。
 姫川ミコトは高校生と聞いていたが中学生くらいに見えた。左右を細い三つ編みにした腰まである長い髪。フリルやひだ飾りのついた黒いワンピース、長い白靴下、足首にストラップのある黒い靴。生気のない青白い顔は中世ヨーロッパの蝋人形のように見えた。そのように見せるべく意図された化粧ではあったが、あながちそれだけのせいにも思えなかった。
 ミコトはパレットと絵筆をコーヒーテーブルに置き、目を輝かせて飛び跳ねるように近づいてきた。田澤老人に負けぬほど嘘くさい芝居のようにゴンゾには感じられた。
「新しいペット?」
 聞き違いではなく確かにそういった。サングラス越しの上目遣いで説明を求めるゴンゾを無視して使用人は部屋を出て行った。女は屈辱に耐えるように眉間に皺を刻み、唇を噛んでいた。ゴンゾは呼び止めなかった。ミコトは腰をかがめ、獣が臭いを嗅ぐように来客の周囲を上から下まで凝視して歩いた。
「変な格好。サングラスが特に変よね。なんで帽子持ってるの。ネクタイ細すぎ」
 ゴンゾは何も答えなかった。
「ほんとに犬に似てるね。顔の肉が垂れてるやつ。マスティフとか」
 写真から受けた先入観が誤りだったのをゴンゾは認めた。装われた病ではない。甘やかされただけでこうはならない。脳の発達に障害があるのだ。家族もこの娘を持て余しているのではないか。生まれ育った教団にもこんな子どもがいた。あれは儀式と称して親たちに投与された薬のせいだった。
「子守に雇われた。勉強を教えろといわれている。梶元権蔵だ」
 ゴンゾは手を差し出した。少女は握手をしなかった。奇妙な名前の持主を憐れむように見上げた。彼は手を引っ込めた。金持相手であれ慣れぬことをするものではない。
「ごんぞう?」
「知り合いにはゴンゾと呼ばれている」
「もっといい名前をつけてあげる。むかし飼ってた犬の名前。嬉しい?」
 姫川ミコトは組んだ両手を頬に当てて小首を傾げ、児童劇団員のように微笑した。ゴンゾは小さな色レンズ越しにそれを見つめた。使用人の態度や、社会病質であるこの自分を用心棒として招くことの理由が、薄々ながら見えてきた。子守は覚悟していたが狂人の面倒を見ろとは指示されていない。使用人は戻ってくる気配がなかった。
 画材が置かれているのとは別のテーブルに紅茶とクッキーの皿があった。姫川ミコトはクッキーをつかんで床に放り投げた。戦前から敷かれているような絨毯の上でクッキーは砕けた。ゴンゾは割れたクッキーを、それからミコトを見た。
 姫川ミコトは期待を込めた視線でゴンゾを見つめた。「豆吉、餌!」正常に動作しない玩具を不審がるかのようにつづけた。「どうしたの。ペットなら従いなさい」
 ゴンゾは歩み寄り、帽子を持っていないほうの手でミコトの頭をつかみ、床に突き倒した。姫川ミコトは横ざまに倒れ、ショックを受けた目つきで頬を手で押さえた。そしてゴンゾを睨み上げた。子役めいた演技は消え失せていた。
って……何すんのよ」
 変声期に差しかかった少年を前にしていることにゴンゾはようやく気づいた。何が楽な仕事だ。こいつは災厄そのものだ。数百年も経ればいずれは田澤老人顔負けの嘘つきに仕上がるかもしれない。やはり最初から断るべきだった。
「咬まれるような扱いをするからだ。犬なんか飼ったことないんだろう」
「通報してやる」
 激しい憎しみがじかに伝わってきたが、ゴンゾはそういうものには飽きていた。失笑した。「犬を?」
 そもそもが筋の通らぬ依頼だった。これだけの資産家だ。いくら顔馴染みだか知らないが、刻文町のいかがわしい中華料理屋などに頼らずとも、契約している警備会社に経歴の確かな連中をよこさせればいいじゃないか。東大やハーバードを出ているタフガイを何人でも集められるだろう。なんならその生命を束で買うことだってできるはずだ。
 騙された自分が腹立たしかった。ゴンゾは蟹目のサングラスを指で押し上げ、中折れ帽を深く被って戸口へ向かった。どんな意図があるにせよ巻き込まれたくなかった。
 背後の気配に気づくのが遅れた。かわしきれずに跳び蹴りを受けてゴンゾは倒れた。教団が崩壊し、路上で暮らしているところを田澤老人に拾われた十代でさえ、こんな失態は演じなかった。姫川ミコトは馬乗りになって殴りかかってきた。ゴンゾは相手の華奢な両肩をどうにか床に押さえつけた。息が切れた。罵倒しようとした。
 そして相手の目の色が変わるのを見た。
 まるで瞬時にして遺骸にすり替わったかのようだった。ミコトは急に抵抗をやめていた。その瞳にあるものはゴンゾでさえ覗き込みたくなかった。肥った中年の殺し屋は狼狽して後ずさるように立ち上がり、何かをいいかけた。いうべきことなど何もないことに気づいた。中折れ帽を拾い上げて被ると足早に部屋を出た。
 松精テレピン油の臭いが鼻に残った。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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