杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第8回: Mother’s Little Helper

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.03.09

 よかったわねぇシチュー大好きだったでしょと母にいわれたがそのような設定に思い当たる節はない。別に好きでも嫌いでもなかった。旨いシチューもあれば不味いシチューもある。記憶にある母のシチューは後者でそれを好んだ事実はない。いかに昨日の昼から何も食べていないとはいえ朝から積極的に食べたい料理でもない。起床するなり煮込み料理をつくるのが春の日常であるかのように語られると眩暈がする。
 そもそも好物も何も母は三種類の料理しかつくれなかったではないか。それも具材の下処理をしたりルーやホワイトソースを炒めたりといったことは一切やらなかった。乱切りというより雑に切っただけの野菜と肉を大量の水で茹で、あとはぶち込む調味料の差でしかなかった。だしの素と味噌なら豚汁、割り砕いて入れる固形ルーなら黄色か白かの違いでカレーかシチューになる。
 その朝に台所の食卓でありついたシチューは、出来合のルーをただぶち込んだ汁とは明らかに異なった。小麦粉をバターで炒め牛乳を徐々に加えたホワイトソースを基礎とし、肉や野菜にも適切な下ごしらえを施したのち月桂樹を加えて丹念に煮込んだ逸品だった。春の朝食にふさわしいかはさておき、とっておきの赤ワインと香ばしい焼きたてバゲットが是非ともほしくなる味だった。母のいうシチューがこれならなるほど確かに大好きかもしれないとさえ思った。
 母が娘の好物として主張するのはそれを食べて娘が育った雑な煮汁であってこのような本物の料理ではない。どうも母には区別がつかぬようだが他人には一目瞭然である。そしてこれもおそらく理解されていまいが娘もまた他人なのだ。エプロンを着けていた事実から見ても賞賛されるべき料理人が謎の美青年であり、徹夜で仕事をしていたと思しきジャージの女でないことくらい騙されようがなかった。台所もまた記憶にある実家とは異なり整理整頓され隅々まで磨き上げられていた。
 何かが起きたのだ。何か信じがたい変化が。夢を見ているかのようだった。
 たくさん食べてくださいねと美青年は爽やかに微笑んだ。明日香はまたしても天上の匂いを嗅ぎ点描のスクリーントーンを幻視した。さながら長生きしすぎた猫が猫又になるがごとく、栄枯盛衰の激しい業界でしぶとく生き延びた漫画家もまた妄想を実体化する魔力を操るに至るのか。
 十年ぶりに再会した娘に母は何の感慨もないようだった。あたかも普段通りに朝の食卓で顔を合わせたかのようだった。高校時代から薄々疑っていたが脳の時間感覚を司る部位に生まれつき欠陥があるのではないか。季節によって寒暖が変化するとか、今年は去年の単なる繰り返しではないとか、冬の深夜は海を見に行くのに適さぬとか、子供の成長に合わせて服を買い換えるとかいった発想が母にはなかった。三歳が三十歳とは異なることや、十三歳が三歳と異なることを理解しない母にはひどく苦労させられたものだ。保健体育や友人からの情報がなければ思春期を乗り越えられたかわからない。
 がつがつと何杯かお代わりを平らげて腹が膨れ、人心地がつくと、明日香は十年ぶりに里帰りした娘として当然に思える質問をした。あたかもずっと前からの家族のような顔をして同席するこの男はだれだ。むろん言葉は丸めたがその旨を問うた。
 食後のお茶を飲んでいた母と美青年はきょとんとして顔を見合わせた。シュウ君、とだけ母は答えた。パソコン、とかスマホ、といった現代人なら知らぬ者はない一般的な固有名詞を尋ねられたかのようだった。だからシュウ君ってだれよと明日香は食い下がった。シュウ君はシュウ君よと母は何を訊かれたのか理解できない様子で答えた。
 こんな女だったと諦めて娘は当の本人に尋ねた。完璧に美しいだけあって青年は至極まともな社会性を有しているように見えた。冷静に考えれば母のそばにいる時点でこの男もまた正常ではないに決まっていたが、母のおかげで現実感覚が歪められた明日香は何を信じればよいのかわからなくなりつつあった。名乗り遅れて失礼しました、光丘秀蔵と申しますと素敵な微笑で会釈された。それから美青年は明日香の本名を口にし、お話はいつも伺っておりますと付け加えた。
 明日香は表情が険しくなるのを自覚した。なぜ教えたのかと母に詰問した。何が悪いのととぼけられた。素敵な名前じゃない、保育園の頃はお友だちに自慢して歌ったりしていたでしょう、ほらなんといったっけあの子、プリキュアが大好きで髪がふわふわでいつも袖で洟を拭っていた……。
 明日香は目の前の中年女を忌々しい思いで見つめた。保育園の友だちなんて憶えてるわけないだろ。成人したいまは当時とあらゆる事情が異なるのだと説明しても無駄なのはわかっていた。この女と会話を成立させるのは不可能だ。二十八年の経験で身に染みていた。母は無視して初対面の美青年のみと話すことにした。マネージャー兼チーフアシスタントと彼は自己紹介した。
 チーフということはほかのアシスタントはどこにいるの、あなただけってことはないでしょうと明日香は尋ねた。十年も見棄てておきながら母の暮らしが心配になる虫のよさは自覚していた。ブルックリンに三人、台北にふたり、パリとロンドンにひとりずつと光丘秀蔵は指を折って数えた。
 は? と明日香は訊き返した。ブルックリンに三人……と最初から繰り返す彼を明日香は待って、と押しとどめた。待って。あたしは母のアシスタントの話をしているの。母のと念を押した。頭痛がするのは寝不足のせいばかりではない。そうですよと美青年はいった。世界各地のスタジオに外注に出しているんです、仕事の大半はクラウドで完結します、東京の編集者と話すのもブルックリンに指示を出すのも一緒ですよ。
 やまだないとは九十年代からやってたわよと母が口を挟んだ。
 漫画を読まぬ明日香にはだれのことかわからなかったが問題はそんなことではない。ごく最近まで二つ折りのガラケーで拙いテキストメールを打っていた女が海外にアシスタントを持つとは。あまつさえ大型のiPadで仕事をし、いまどき紙にペンなんて漫画家はいないわよなどとうそぶくとは。授業中に校内放送で呼び出され、お母さんから職員室に電話があった、緊急の要件でいますぐ帰宅してほしいそうだ、なんだかわからないが急いで行ってやれと教師に気遣われ、何事かと思えば録画の方法がわからないからやっといて、と一瞥もせずに告げられたあの過去は何だったのか。
 わかった、わかりました、じゃあなんであなたここにいて家事までやらされてるんです、なんでもクラウドでやれる時代なんでしょ、こんなめんどくさい女とじかに顔を合わせなくてもいいじゃないですか。明日香はこめかみを揉みながらなかば懇願するかのように尋ねた。頼む否定してくれ。いまや明々白々たる事実を認めたくなかった。母と美青年はふたたび困惑したように顔を見合わせ、それは……ねえと微笑を交わした。
 愛人なんですと美青年は答えた。爽やかに説明するなよと明日香は思った。
 ハウスハズバンドよハウスハズバンド、と母は愉しげに訂正した。憶えたての言葉を使いたいんだなと娘は察した。正真正銘のハズバンドがほかにいるじゃない、まだ離婚してないんでしょう。じゃあ事実上の夫、と母は妥協の姿勢を見せた。事実上の夫ですか、照れますねと美青年は嬉しそうに頬を赤らめた。ばかだこいつらと明日香は思った。バカップルだ。いい歳してと思わず心の声が洩れた。あらお母さんこれまで女手ひとつであなたを育てるために犠牲になってきたんだもの、そろそろ自分の幸せのために生きてもいいと思ったの、祝福してくれてもいいじゃない。
 周囲を振りまわして生きてきた身勝手な母のあまりの物いいに、明日香はこめかみの血管が切れそうになったがぐっとこらえた。何しろ職や住む部屋が見つかるまでしばらく厄介になろうというのだ。しかもその願いを申し出てすらいない。なぜ帰ったともいつまでいるとも明かしていない。それでもひと言いってやりたい気持は抑えきれなかった。日本の法律じゃ重婚はできないし籍を入れないと何かと不利益があるの、まずお父さんと会ってちゃんと離婚して。
 ええめんどくさいと母は眉をひそめた。どこにいるかわからないし二十年も逢ってないのよ。二十五年と母がいわなかったことに明日香はひっかかったが忘れることにした。両親が娘に隠れて話し合っていた時期があったとしても知ったことではない。養子という手もありますよと光丘秀蔵はおもしろそうにいった。あら谷崎みたいねと母は満更でもない顔をした。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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