昨年末に ZENSOR 1 という北欧製のスピーカと、 Miniwatt N3 という評判のいい小型真空管アンプ⋯⋯ではなくその紛い物 (球が曲がって挿さっている) を買いました。 Spotify を楽しむためです。 おかげで音楽がさらに大好きになりました。 いまは音量を絞って Thelonious Monk を聴いています。 この天才を理解した当時のひとびとは偉大でした。 現代の日本なら決してこんな変な音楽は受け入れられなかったでしょう。
連休のために酒は用意してあったのですが、 アテのことを忘れていました。 眠れないので酒がすすみ、 備蓄分はすでに消費しました。 いかにも不審者のていでコンビニに行き、 気の毒なレジの若者をおびやかすか、 諦めて寝床でピーター・ケアリーを再読するか迷いました。 結果として Hulu で映画 『人生はビギナーズ』 を見ました。 共感できたし、 中断せずに最後まで見たので苦痛ではなかったのだと思います。 善良なひとたちが、 だれも悪くないのに、 ささいな巡り合わせで、 心から幸せにはなれないまま生きていかねばならないのは⋯⋯だれもが人生の初心者である以上、 そういうものなのかもしれません。
昨年の秋、 九時間ほど熟睡できた日がありました。 とても驚きました。 眠れたのはそれが最後でした。 おかげで映画を楽しむ時間が増えました。 冷蔵庫には数年前に歳上の女性からもらったハルシオンが棄てずにとってあるのですが、 入眠障害ではなく中途覚醒なので向かないように思います。 また飲酒をしているのでベンゾジアゼピン系はリスクが高いかもしれません。 カート・コベインのように猟銃を持っていたらしくじる畏れもないのですが。 言葉が頭に入ってこないので本はあまり読んでいません。 ケアリーの再読には二ヶ月かけています。 今朝は 「ジャーナリスト」 という単語を思い出すのに Google の力を借りました。 便利な時代になったものです。
読書がはかどらなくなったのは頭が働かないからだけではありません。 日増しに疎外を感じるようになったせいでもあります。 現代のこの国では 「絆」 や 「つながり」 といったコミュニケーション・スキルが厳しく問われます。 魂の拠り所であるべき読書はいつしか取り上げられ、 ネタというソーシャルな通貨に貶められました。 孤独な人間は断罪されるばかりです。 叩いてもよいとされた生け贄への暴力は 「絆」 や 「つながり」 を強化します。 それはアカウントの価値を高める通貨であり、 ゲームのプレイヤーを利する使い棄てアイテムです。 社会的に正当化された暴力を寄ってたかって行う分には、 誰もが安全な 「絆」 側にいられます。
社会的暴力に属することばを、 男の子に言われて素朴に喜ぶ女の子をしばしば見かけます。 そこは怒らないといけないよ、 と余計なおせっかいで教えてあげたくなります。 きょうは女性の労働機会を独力で切り拓いた字幕翻訳家が袋叩きに遭っているのを見ました。 芸事は批判に晒されて向上するものですから、 訳業に対する批判はされて当然ですし、 誰もうわべではもっともらしい正当な理屈を並べますが⋯⋯。 一部の男性だけに閉ざされていた世界をこじ開けたのがいけなかったのかもしれません。 あるいは年老いた女性であること自体が叩いてもよい落ち度とされたのか。 鬼の首をとったように批判するひとたちは、 彼女が成し遂げたのと同じだけの仕事をしてみればいいと思います。 飲み会で女の子が男の子たちのために焼き鳥を串からはずす習慣が、 近年広まったそうです。 亡命したアフガンの女性飛行士は他人事ではないのです。
『人生はビギナーズ』 はジェンダーのために不幸でなければならなかった両親と、 その影に戸惑って女性とうまくつづかない男の話でした。 異国の過去と笑えるでしょうか。 ただ生きて呼吸するだけで社会を脅かしたと見なされるかのような場面を、 この国ではしばしば見かけます。 自分自身であることが許されないのなら、 せめて孤独の権利は守りたい。 読書だけはその拠り所にしたい。 しがみつくため、 取り戻すために城壁を築いて本を溜め込むつもりです。 まずは MacBookPro から離れ、 窓が明るくなるまで寝床で 『イリワッカー』 の頁を繰ろうと思います。 Spotify は Monk のアルバムが充実しています。 つくづく変な音楽です。 自分自身であることに勇敢な音楽が低く流れつづけています。