杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第29回: Modern Dance

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.13

 絶えずひとの声がするアパートだと思っていた。その時期は過ぎ去ったと思い知らされた。新サービス公開まで秒読みとなりボッチーズはそれぞれの自室にこもりきりとなった。
 ヤンパチとマシューのふたりとは食事のときだけ顔を合わせるようになった。最近はこれだけが息抜きだよとマシューは洩らした。いそいそと部屋に戻ったり取材に出かけたりする様子を見れば、それは愚痴よりも惚気のように明日香には聞こえた。マシューは仕事を、女性や食事と同様に愛しているのだ。
 ヤンパチは平静を取り戻したかに見えた。仕事に打ち込めば気が紛れるのだろう。独特の煙草臭がしなくなったのでパチンコ屋に通う余裕すらないのが窺い知れた。
 神崎陸は柳沢美彌子をなるべく避けているかに見えたが、不運にもばったり出くわした日を境に広間へ降りてこなくなった。明日香はまたしても盆に載せて食事を彼の部屋まで運ぶこととなった。以前と違うのは部屋に入れてくれるようになったことだ。
 美彌子は神崎陸への嫌悪を隠さなかった。なぜ視界に入る場所に存在しているのかとでもいいたげな表情を露骨にしてみせた。つねに無表情で何も感じぬかのように見える陸も、これにはこたえたらしい。食事を中断して二階へ戻った。全自動締めつけ機の騒音は三十分もつづいた。
 元夫への柳沢美彌子の執着は常軌を逸していた。近所にマンスリーマンションを借りたらしく毎日のように通い詰めた。むしろ明日香やマシューやヤンパチのほうが「夫婦」の家庭に割り込んで居候しているかのように感じさせられた。
 やがて広間のアイランドキッチンをわがもののように占領されるに至った。美彌子のいない隙を狙って調理するしかない。時間のやりくりが厄介になった。うっかり片付けが遅れて鉢合わせすると舌打ちされたりした。台所にかぎらず視界に入ると敵意を向けられるので何をするにも息を潜めて働かざるを得なかった。
 仕事とはいえ美彌子の使ったトイレを掃除することに理不尽を感じた。二階の浴室は性に合わぬらしいのが救いだった。明日香はあの浴室が気に入っていた。
 それでも明日香は美彌子に悪感情は持たなかった。ただひたすらに圧倒され畏敬の念すら抱いた。
 休暇をとったのか出張の扱いなのか知らぬが、東京の出版社をこれだけ長いあいだ離れるのは容易ではないはずだ。編集者としてであれ元妻としてであれ、仕事も生活もなげうってなりふり構わず美樹に尽くしている。彼女をモデルにしたと思しき人物が美樹の小説に運命の女ファム・ファタールとして登場するのもむべなるかなと思った。ふたりの間柄には何人たりとも割り込めまい。
 あたしはキヨタカ先輩にそこまで尽くせるだろうか。……いや、ない。ありえない。何につけても予想と常識の範囲内だからこそ交際や結婚の対象となるのだ。現にすでに彼の顔をぼんやりとしか思い出せなくなっている。膚を合わせて将来の展望を話し合っていてさえその程度である。
 そうでなくとも美樹は明日香と視線を合わせなくなっていた。美彌子の料理をこっそり廃棄して明日香のを食べてもらうどころではなかった。ほんの腰掛けのつもりでも、季節が変わるほど勤めれば失態はそれなりにこたえると知った。業務としての意識が薄れて家族に接するかのような態度になっていたかもしれぬ。気を抜いてはいけないと反省した。
 家事に集中しているときはまだいい。古い建物だけあって細心の注意を払うべき箇所が多々あり、手入れをしていると無心になれた。しかし一日の仕事を終えてシャワーを浴びたり、ヘトヘトに疲れてベッドに倒れ込んだりすると、どうしても美樹のことを考えてしまう。拒絶に傷ついた意味や、その瞬間まで気持が通い合っていたかに錯覚していたことなどを無限ループで考えた。
 枕に顔を埋めて泣くのはフィクションの登場人物だけだと思っていた。よもや自分がと意外だった。彼の著書などもう二度と手に取る気になれなかった。印刷されたどの言葉も明日香を責めなじるかのようだった。食事の顧客を逃したのを美彌子のせいにできたのは大いに慰めとなった。
 考えることが山ほどあってあきらのことを忘れていた。美彌子に台所をとられてクッキーを焼いてやる機会もなかった。十一歳の上司は妙に静かだった。黙々と食べて席を立ち、登校したり自室へ引き上げたりする。受験勉強に忙しいせいだと考えていたが明日香はふと気づいた。岬がしばらくアパートを訪れていない。会話がないのはそのせいだ。喧嘩でもしたのかと気になったが子供の友情に口を出していいものか迷った。
 ほどなくして理由がわかった。
 転校した同級生についてあきらが食卓でヤンパチに話していた。愛子ちゃんってだれよと明日香は何気なく尋ねた。そのときはマシューも神崎陸もたまたま居合わせて食事をしていた。奇妙な生き物を見るかのような四人分の目つきが明日香に集中した。つまり陸までもが明日香をなんだこいつというような目で見た。いつもここでご飯食べてたじゃない、もう忘れたのとあきらが呆れて蔑むようにいった。
 岬は苗字だったのだ。知らなかったのは明日香ただひとりのようだ。さすがのマシューも補い助けるようなことを何もいってくれなかった。ヤンパチは少しだけおもしろがるような顔をして何やら独り言をいった。友人を亡くしてから笑うのを見るのは初めてだった。やっぱり似てるわあんたらと聞こえた。本当にそういったのか、だれと似ているのか明日香は尋ね損ねた。
 訃報は往々にして続くものだ。光丘たえが入院先の病院で息を引き取ったのはそんなある日だった。
 柳沢美彌子が帰り、全員が食事を済ませたあとだった。明日香は食後の後片付けを済ませたらシャワーを浴びてベッドで読書する習慣だったが、読書をやめてからはすることがなかった。どうせ眠れないので広間でコーヒーを飲んだ。だれも飲まなくなったので豆は古くなり味が落ちていた。
 美樹は育ての親である兄から電話で訃報を聞いたようだ。彼があきらの部屋を訪ねて長いこと話し込んでいるのは頭上の物音で明日香もなんとなく察していた。それから美樹はボッチーズを広間に呼び集めて説明した。明日香は招かれなかったが出て行けともいわれなかった。
 兄の話では、と美樹は住民たちに伝えた。たえさんは静かに眠ったまま逝ったそうだ。
 理想の最期だなとヤンパチが感想を述べた。マシューが気遣わしげに窺い見たがあきらは何もいわなかった。覚悟していたのだと明日香にはわかった。あきらが以前からヤンパチの車で見舞いに行っていたのは明日香も知っていた。喪服についてのあきらの言葉がようやく理解できた。
 通夜には美樹とあきらが参加した。深夜に戻ってきた彼らがどことなく険悪に見えるのが明日香は気になった。ふたりともよほど疲れたのだろうと思った。
 翌日に葬祭会館で行われた告別式はあたかも同窓会のパーティのようだった。大往生だったせいもあるのだろう。厳粛な空気は拍子抜けするほど感じられず、談笑する声で賑わっていた。低い音量でディキシーランド・ジャズが流れていた。ヤンパチによれば故人が好んだ音楽であるらしかった。
 中年から老人まで大勢の男女が懐かしそうに挨拶し会話していた。いずれも光丘家のみならず田辺家にも縁のあるひとびとであるらしかった。子供時代から美樹を知っているらしい老人も多かった。美樹は絶え間なくだれかに挨拶していた。十代の頃に選挙のポスターで見た顔もあった。声の大きな肥った男で、美樹と握手をして彼の背中を励ますように叩いていた。
 これだけひとが集まっていながらだれも焼香していなかった。読経もなければ坊主もいなかった。
 菊や百合、胡蝶蘭で囲まれた棺の向こうに白黒の大きな肖像写真が飾られていた。鷲鼻の老女が愉快そうに笑っている。見ているとこちらまで幸福な笑顔に感染しそうになった。ボッチーズに慕われたのも肯けた。光丘秀蔵を鷲鼻だと思ったことはないが、血縁者と思って見ればどことなく面影があるような気もした。
 明日香がのちにヤンパチから聞いたところでは葬儀の費用は田辺家が出したそうだ。生前に本人が計画した葬儀を実現してあげたということらしい。喪主は光丘秀蔵が務めていた。故人の娘夫妻は母親が死んだくらいでは帰国しないのだ。光丘秀蔵もまた故人の遺影と同じく、葬儀の場とは思えぬほど愉しげに見えた。他人と関わるのが好きなのだろう。
 ヤンパチが明日香の袖を引き、高級官僚のようなダークスーツの男を顎で示して、マイクロフト氏のお出ましだと囁いた。なるほど人気ドラマでベネディクト・カンバーバッチの兄を演じたマーク・ゲイティスをどことなく思わせた。しかしかの脚本家兼役者と似ているのは知的な雰囲気だけだった。美樹の兄だけあって背が高く、弟よりもさらに威圧感があった。
 明日香は彼と一瞬だけ目が合った。内臓の底まで見透かされたかのような心地がした。ヤンパチに警告されずとも油断のならぬ印象を受けた。
 マイクロフトは肥った政治家と会話し、光丘秀蔵に挨拶してすぐに出て行った。
「お母さんの喪服、ぴったりですね」と光丘秀蔵に声をかけられた。
「クリーニングに出しそびれていて……」ちょうどよかったというのも変だと気づいて明日香は口をつぐんだ。
「なんだかやつれたように見えます」
 あんたに気遣われる謂われはないと内心で苛立ちながら、ダイエットに成功したのと明日香は答えた。母親よりも肥っていたといいたいのだろうかと邪推した。
「それならいいんですけど」と光丘秀蔵は爽やかに笑った。「もし何か悩みでもあれば相談に乗ります。もっと頻繁に帰ってきて、お母さんに逢ってあげてください」
 そんなことより妹の心配をすべきじゃないのかと明日香は思った。会場を出てあきらの姿を探した。
 あきらはトイレの前で美樹といい争っていた。美樹は困惑しているように見えた。あきらは急に泣いて駆け出した。美樹は茫然と立ち尽くした。それまで見たことのない表情だった。
 明日香はあきらを追って葬祭会館を出た。
 近所に寂れた公園があった。手入れがされておらず雑草が伸びていて遊具はペンキが剥げて錆びていた。
 あきらはベンチに座って声もなく泣いていた。明日香は隣に座り、わけを訊こうとした。
 明日香は身近な人物に死なれた経験がなかった。祖父母は物心つく頃にはすでにいなかったし父は生死すら知れない。母は歳下の男を捕まえて膚の色艶もよく十代の小娘のように溌剌としている。死ぬとしたら自分のほうが先だろう。言葉を探すのを諦めて薄暗い空を見上げた。
 いまにも降り出しそうだ。降りそうで降らない天気が数日のあいだ続いていた。
 あきらは頭をそっと明日香にもたれた。明日香が肩を抱いてやるとあきらは小声で話しだした。光丘たえが死ぬのは覚悟していた、と彼女は打ち明けた。幸福だったと信じている。最後に逢ったときにお礼もお別れの言葉もいえた。後悔はない。
 怖いのは……とあきらはいった。言葉にすることで現実になるのを畏れるかのように。
 怖いのは美樹がいなくなることだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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