このところ出版レーベルの話と、 「場としての出版ツール」 の話を同時に書いているので、 別々だということがわかりにくくなってしまったようです。 出版レーベルは 「人格 OverDrive」 としてすでに行っている活動で、 わたしがいいと思った本、 つくりたい本をつくります。 「場としての出版ツール」 は利用できる手段です。 さらにいえば、 そのための実験です。 「場としての出版ツール」 は主体的に利用するものであり、 だれかが何かをしてくれるものではありません。 とはいえ前例がなければ利用イメージが湧かないので、 出版レーベル 「人格 OverDrive」 の活動をモデルケースにと考えました。 このあたりの説明がなかったのでわかりにくかったと思います。 本来はサイト自体を別々に分けるべきですが、 ふたつのサイトを運用する手間やコストをかけられないので、 「人格 OverDrive」 で実験せざるを得ず、 そのためますますわかりにくくなりました。
七年前に 「人格 OverDrive」 をはじめた時点ではセルフパブリッシングとしてレーベルの活動を定義していました。 当時は 「お金がかからないので自費出版とは違う」 「企業による従来の出版でもない」 という区別が必要でした。 そのため耳慣れないカタカナが必要とされたのです。 現在ではその区別は意味をなさなくなりました。 ちゃんとした本をつくろうとすれば、 お金も手間も制作工程も、 場合によっては関わる人数も、 企業で行われていることに近づきます。 企業といっても大手もあれば 「ひとり出版社」 もあり、 いまでは大手でも自費出版を手がけているところが多くあります。 七年前は電子出版のみでしたが、 いまは同様に印刷版をつくって Amazon で売ることができます。 在庫を持たないことが違いともいえますが、 完全に在庫ゼロではないにしても、 大手企業もオンデマンド印刷による小ロット出版を導入しつつあるようです。
そうなると大きな違いは規模だけということになります。 『悪魔とドライヴ』 印刷版の出版にかかった費用は版下作成のためのアプリケーションやフォント、 Facebook 広告費くらいです。 成果物も数冊単位で売れたり自分で購入したりします。 これは企業の出版ではありえないことです。 もうひとつ定義に付け加えるなら 「ウェブを利用して成立する出版」 ということでしょう。 CreateSpace にしても Facebook 広告にしてもウェブですから。 InDesign でさえウェブの常時接続による定額制で、 ある意味ではウェブサービスの一種といえます。 ふたつの定義を合わせれば 「ウェブの利用により、 数冊単位のごく小規模でも成立する出版」 ということになります。 「家内制出版業」 という造語を前回は使いましたが、 商売なのかどうかは首を傾げるところですので、 「業」 という言葉は誤解を招くでしょう。 「極小出版」 という言葉がどちらかといえば近いかもしれません。 いずれにせよセルフパブリッシングという単語は期限切れで、 もはや時代に合いません。 それはただ出版と呼ぶべきものです。 確かにいえることは 「実現手段が格段に増えた」 ということだけです。
今回の改修はやってよかったと思います。 短期間でつづけて日記を書いているからです。 書くことへの心理的障壁が薄れるのは自分にとってよいことです、 社会的には黙っていたほうがいいのかもしれませんが。 サイト移転をどういう手順で進めるか考えています。 サーバ移転ではゼロから再構築するか、 いまあるものをそっくり移すかで悩んでいます。 いま試している機能は開放しないことに決めたので (理解されないものを公開しても意味がありません)、 ドメインを無理に変える必要はなくなりました。 であればそっくり移してもいいかもしれません。 次の課題は著者タグページの画像です。 著者画像をヒーローヘッダに指定したいのですが、 どうしても表示させられません。 それがうまくいったら次は 『Pの刺激』 の印刷版。 年末からは小説にとりかかります。
考えているのは発達障害者の梁山泊みたいなアパートの話で、 対比のために健常者の視点が必要なのだけれども、 健常者がわからないので難儀しています。 書きやすく読みやすいかたちにするには健常者に感情移入できるようにしなければならず、 それをやると完璧な健常者ではなくなる。 どこかしら欠陥のある、 発達障害者とそれほど変わらない生身の人間になってしまう。 それでは対比の効果が出ません。 実際の健常者がそうするように、 発達障害者に非難がましい視線を向けさせるためには、 性格的な落ち度のない、 社会的にしくじらない 「正しい」 人間である必要があります。 絶対的な勝者でなければ。
もうひとつ意図があってそれはジェンダーの書き方なのですが、 読みやすく共感しやすいように書くことと意図の両立に悩んでいます。 発達障害を蔑む健常者でありながらジェンダーでは差別されていて、 そのことの憤懣を発達障害者にぶつける、 差別された者が別な者を差別する、 という構造がなければならない。 だから健常者は社会による差別構造に、 される側の当事者としては憤り抗う人間でなければならない。 ところがそれをうまく処理する方法が見つかりません。 舞台がアパートという暮らしの場であって、 しかもそこは発達障害者ばかりが居住しているので、 そこに健常者を結びつけるには旧弊なジェンダーロールを押しつけるくらいしか現段階では思いつかないのです。 そういう発想しかないのは結局のところ差別的なジェンダー観が自分にあるからだろうという気もします。 であればこの状態で書きはじめるのはよくないということです。 もうすこし消化してからだ、 と思うけれども、 消化するにはまず食べねばならない。 まずは多くの本を読まねば、 と思います。