読み返すのは四半世紀ぶりだった。 旧訳で読んだときは東西冷戦が終わって間もなく、 スパイものに将来はないなどといわれていた。 いまとなってみれば不安のありようがよりわかりにくく変質しただけだった。 たとえば性暴力の捉え方が現代と異なるのに狼狽させられはするけれども、 それは単に、 暴力が社会においてそのように扱われる現実を主人公たちがわきまえているにすぎない。 正しさでは喰えないし弾は避けられない。 しかしどこかで正しさのようなものを求めたくもあり、 それがなんなのかを彼らは掴めずにいる。
飛行機の話しか書けないと思われるのが癪だったのか、 この小説で主人公たちは地べたを移動する。 国境が金を生む仕組みについて冒頭で考察される。 地図に引かれた線を越えれば無から有が生まれる。 天文学者と測量士が引いた線が、 人間の権利にまつわる大きな意味を生んだように。 そしてピンチョンの凸凹コンビと同様に、 この物語でも個性豊かな面々が 「敵に襲われて一コマ戻る」 「古い恋人と再会して一回休み」 「銀のロールス・ロイスで二コマ進む」 といった旅を展開する。 意外な真犯人がまったく意外でないところが逆に意外、 というのは旧訳を読んだときにも思ったが、 今回はあまり気にならなかった。 そこは重要ではないと理解できたからだ。
アクション小説の古典とされていて、 昭和の男たちは非現実的な英雄譚、 いわゆる 「男のロマン」 として読んだと聞く。 その読み方は生理的にしっくりこない。 派手な撃ち合いとカーチェイス、 爆発炎上でストレス解消⋯⋯といった趣向ではないのだ。 ほとんどの場面が移動の描写と会話で構成されている。 この静かな会話に緊張感がある。 ちょうど 『マルタの鷹』 のクライマックスが、 悪党が集ってただ会話しているだけの場面であるように。 むしろ日常の延長にある苦さが正直に書かれていると感じる。 ハメットがスト破りや犯罪者について書いたように、 物語そのものは創作であっても、 生理的な感覚としてはつくりごとではなかったのではないか。
以前読んだときはアル中のガンマンは陳腐な設定に思えた。 歳をとってから読み返すと身につまされる。 戦争のなかで生き方を学び、 大人になり、 人生をはじめてしまった人間にとって、 戦争は殺されるまで終わらない。 あるいは別な生き方を見出すまで、 ということになるだろうけれども、 母性的な気分になった恋人の助けがあろうが、 おせっかいな仕事仲間に指を折られようが、 いちど方向づけられた人生を他人が変えることはできない。 重要で切実だった時期が無価値だったと認めねばならないからだ。 キャントンであることは名誉や自尊心ではない。 キャントンでなくなれば自分がだれかわからなくなる、 それが怖いのだ。 掴もうとしたのは結局そういうものだったかもしれない。
読み終えて、 次に読み返したくなったのは最高傑作 『もっとも危険なゲーム』 ではなく、 それまでの自著への悪意すら感じるセルフパロディ 『拳銃を持つヴィーナス』 だった。 読んだのが何しろ大昔なのでおぼろげな記憶だけれども、 あの物語でたしか主人公の運び屋は戦争の英雄ですらなかった。 そういう意味で 『深夜プラス1』 よりもさらに英雄譚から遠い、 苦い物語だったように思う。 持て余しそうな苦さを軽くあしらう、 悪趣味寸前のしたたかな態度。 そういうものに励まされたくてこの手の小説をおれは読むのかもしれない。