妄想中年日記

連載第114回: あと1センチの恋

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2018.
02.15Thu

あと1センチの恋

うーん……後味が悪い。女の人生はセックスに支配されているとでもいいたげだ。セックスで不幸になってセックスであれこれあってセックスで幸せになる。望むのも憎むのも幸せな結末もセックスだ。徹頭徹尾、それだけの話しかしていない。登場する男は父親を除いてひとり残らず糞野郎で、幼馴染みの男にしたって、実はそれほどひどい糞野郎ではなかったことが結末近くで明かされるけれども、しょせん身勝手な役立たずであることに変わりはない。ウェブカメラに映る運命の王子サマの背後にはいつだって品のない金髪が、入れ替わり立ち替わり現れて、きみの不在を埋めるためだったんだとかなんとか、彼はありふれた言い訳をする。騙されてはいけない、彼とはなんの関わりもなく主人公は夢を実現しているのだ。男とは確かに得てしてそういうものではある(しなだれかかる金髪は別として)、身に憶えはある(取っ替え引っ替えは別として)、でもだからこそフィクションには理想像を観たい。自分もそうだったらよかったのにと心から思える男を。

18の夜に別な男と寝たから不幸になった、彼と寝て幸せになりました、ほんとうにそれでいいのか。セックスしか頭にない金髪を批難できるのか。同族嫌悪ではないのか。娘も親友もきっかけこそセックスではあったけれども、主人公のひととなりがあってこそ手に入れられたはずだ。夢を叶えたのは父親のおかげではあるけれども、それは彼女と父親との結びつきがあったからだ。まわりの男たちと同じように彼女自身も糞野郎だったなら、けっして手に入れられなかった。彼女自身がそう信じているような、運命の男がいないことで不運にみまわれた人生ではなく、むしろ男のせいで煩わされ、ふりまわされながらも、その困難を乗り越え、まわり道さえ味方につけて、あるべき姿を着実に手に入れてきた人生であるはずだ。男なんてなくたって立派に夢を叶え、幸せを手に入れている。むしろ男はどの局面でも妨害しかしていない。

……とはいえ、どんな完璧な女性にも愛すべき弱みくらいはあるはずだし、そういうだめなところがあってさえ、自分の人生を歩める逞しさが女性にはある、ということをこの映画は描いているのかもしれない。あるいは恋愛映画の(金になる)幻想は、実際には女たちだけでやっていたほうがうまくいくのに、人生には男がいなければならないかのように錯覚させられ、割を食わされていることに無自覚であるがゆえに成立するものなのかもしれない。どちらであるかは部外者である男にはわからない。いずれにせよ女性の生き方を描く作品において、男は単なる道具立てにすぎず、血の通った人間としてはお呼びでないような、厄介者扱いされた感じがする。そして女たちの人生にとって男は事実そういうものなのだろう。この後味の悪さは罪悪感にほかならないのかもしれない。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
ぼっちの帝国