とはいえ、 阿部はおそらく、 『シンセミア』 での女性の描き方にも完全には満足していない。 田宮彩香は確かにそれまでの阿部作品よりも一人の人間として行動している女性像に近い。 いわゆるネタバレになってしまうが、 『シンセミア』 の結末近くで、 彼女の父親と彼女の恋人が壮絶な死闘を演じるという場面がある。 すると妙なことに、 それまでは娘のことを気にかけているようには見えなかったこの父親が、 「俺の彩香に、 俺だけの彩香にちょっかいを出しやがったことの代償が、 どれほど高く付くものか、 厭というほど体でわからせてやるのだ」 ととんでもなく怒りだす。 『グランド・フィナーレ』 とよく似ているのがわかるだろう。 小児性愛者だからこそ最愛の娘を奪われるという 「罰」 を受けている沢見が、 少女たちに執着しているようには見えないのと同様に、 大事な娘に手を出されたからブチギレているように見える父親が、 その娘を大事にしているような描写がないのだ。 よく読まないとこの不自然さは見えてこないが、 読者が気づいていようといまいと、 阿部が自分の作品のこういった特徴に意識的であることには疑いの余地がない。
つまり、 今なお誰も正解を見いだせていない難問は、 こういうことだ。 獲得されたり喪失されたりする 「モノ」 ではない女性を、 言葉で表現することはできるのだろうか。 もちろん私たちは、 あらゆる女性、 そしてあらゆるマイノリティが単なるモノではないことを知っているはずだが、 私たちの言葉はその理想においついていない。 いまどき、 「客室乗務員」 ではなく 「スチュワーデス」、 「看護師」 ではなく 「看護婦」 などと言う男性がいたら、 女性差別を疑われるのは当然だ。 しかし、 かといって、 「客室乗務員」 だの 「看護師」 だのと言っている男性が、 根っからのセクシストでない保証なんてどこにもない。 私たちの言葉は、 私たちの罪や過ちを暴露することはあっても、 私たちの潔白を証明したりはしない。 自分がいかに自分自身の夢と理想から遠のいているのかを、 言葉を通じて私は知る。 言葉はかならず、 言葉にはならなかった何かがあることを、 聞こえるかどうかギリギリの小さな声でつぶやき続ける。 そのつぶやきを聞き取るために私は小説を読んでいるが、 なら小説をどう読めばいいのか、 答えはまだ見つからない。 私たちは男性中心の文化・歴史の中で生きていて、 それに影響されながらしか生きられない。 私たちが生まれたときにはすでに存在していたこの世界をあるがままに受け継ぐだけでは十分ではない。 人間は必ず、 何度も繰り返されてきた間違いや罪がいつかは償われるだろうと願う。
こういう願いは、 形を変えて、 芸術作品だけでなく様々な神話や伝説のなかでくりかえされる。 おそらくその中で最も有名なのが、 神の子でありながら人間の女性マリアから生まれた救世主イエスという物語だろう。 というわけで、 最後はその聖母マリアの登場する歌で締めくくりにしたい。 「僕がどうしても困ったときにはマリア様がやって来て、 叡智の言葉を語りかけてくる」。 ご存知、 ビートルズの 「レット・イット・ビー」 だ。
4.
中学生のころ洋楽を聴きはじめた私が最初にCDプレーヤーで再生したのは、 父から貸してもらったザ・ビートルズのベスト盤、 いわゆる赤盤と青盤だった。 青盤のディスク2、 その 12 曲目がご存じ 「レット・イット・ビー」 だ。 当時私はすでに、 この 「レット・イット・ビー」 を録音したころのビートルズがすでにボロボロだったことを父から聞かされていた。 ビートルズを続けたいポールと続けたくないジョンの間で、 すでに亀裂は深まっていて、 「レット・イット・ビー」 はそんなポールがいつかジョンともう一度⋯⋯という願いをこめた曲なのだと父は言っていた。 こういう裏事情がどこまで正確なのかはとりあえず問わずにおこう。 その後、 ジョンがポールだけでなく誰の手も届かないところに行ってしまった悲劇のことは誰だって知っている。
さてこれから、 この誰だって知っている名曲 「レット・イット・ビー」 の、 とっておきの秘密を教えよう。 この曲には実は、 ジョンとポールの和解を予告する、 かすかな囁き声が含まれている。 これを読んでくれている人はぜひ、 ビートルズの青盤を手元において 「レット・イット・ビー」 をもう一度、 注意深く聴いてほしい。 YouTube の公式 (?) チャンネルで公開されているいくつかのバージョンのなかにも、 私が言っている声が聞き取れるものがある。 とにかく、 曲がはじまって1分くらいしたところでその声が聞こえる。
For though they may be parted, ★there is still a chance that they will see.
There will be an answer, let it be.離ればなれになったとしても、 めぐり合うチャンスはまだある。
答えは見つかるさ。 ありのままに。
★ のところで、 イヤホンやヘッドホンの片方から、 ボソッと何かつぶやくような声が聞こえるはずだ。 私はそれを何度も聴いたが、 どうやら “still a chance” と言っているようだ。 ジョンとの別れを受け入れようとして孤独にピアノを弾くポールが、 いつかはまた会えるのだと自分に言い聞かせるその直前、 まるで誰かがポールに歌詞を教えるようにして囁いている。 “still a chance” ── 「チャンスはまだある」、 と。 もちろん、 私はこの囁き声がジョンだと言いたいわけではない。 声どころか、 録音中の雑音か何かかもしれない。 けれど、 もしもこれがジョンの声だとしたら、 どうだろう。 二人の別れを歌い上げるとき、 二人がその歌をともに歌っていたとしたら、 二人は本当に別れたのだろうか? いつかはまた会えると歌ったその瞬間に、 二人の再会は果たされていたのかもしれない。 私たちがそれを聞き取れていようといまいと。
同じことが小説についても言える。 私は確かに、 言葉は自意識がない限りには書くことも読むこともできないと言った。 けれど、 その自意識を超えるために私たちが何をするかと言えば、 結局誰かの言葉を読み、 自分の言葉を書きつけるのだ。 たぶんそこにしか答えはない。 いつか答えを見いだすために。 もしかしたらすでに出会っているのに、 聞き逃した叡智の言葉を、 今度こそ聞き取るために。
第六回 了