柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第13回: あるがままではいけない世界(デヴィッド・フォスター・ウォレスと阿部和重)5

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2021.
02.27Sat

あるがままではいけない世界(デヴィッド・フォスター・ウォレスと阿部和重)5

承前

はいえ阿部はおそらく、 『シンセミアでの女性の描き方にも完全には満足していない田宮彩香は確かにそれまでの阿部作品よりも一人の人間として行動している女性像に近いいわゆるネタバレになってしまうが、 『シンセミアの結末近くで彼女の父親と彼女の恋人が壮絶な死闘を演じるという場面があるすると妙なことにそれまでは娘のことを気にかけているようには見えなかったこの父親が、 「俺の彩香に俺だけの彩香にちょっかいを出しやがったことの代償がどれほど高く付くものか厭というほど体でわからせてやるのだととんでもなく怒りだす。 『グランド・フィナーレとよく似ているのがわかるだろう小児性愛者だからこそ最愛の娘を奪われるというを受けている沢見が少女たちに執着しているようには見えないのと同様に大事な娘に手を出されたからブチギレているように見える父親がその娘を大事にしているような描写がないのだよく読まないとこの不自然さは見えてこないが読者が気づいていようといまいと阿部が自分の作品のこういった特徴に意識的であることには疑いの余地がない

 つまり今なお誰も正解を見いだせていない難問はこういうことだ獲得されたり喪失されたりするモノではない女性を言葉で表現することはできるのだろうかもちろん私たちはあらゆる女性そしてあらゆるマイノリティが単なるモノではないことを知っているはずだが私たちの言葉はその理想においついていないいまどき、 「客室乗務員ではなくスチュワーデス」、 「看護師ではなく看護婦などと言う男性がいたら女性差別を疑われるのは当然だしかしかといって、 「客室乗務員だの看護師だのと言っている男性が根っからのセクシストでない保証なんてどこにもない私たちの言葉は私たちの罪や過ちを暴露することはあっても私たちの潔白を証明したりはしない自分がいかに自分自身の夢と理想から遠のいているのかを言葉を通じて私は知る言葉はかならず言葉にはならなかった何かがあることを聞こえるかどうかギリギリの小さな声でつぶやき続けるそのつぶやきを聞き取るために私は小説を読んでいるがなら小説をどう読めばいいのか答えはまだ見つからない私たちは男性中心の文化・歴史の中で生きていてそれに影響されながらしか生きられない私たちが生まれたときにはすでに存在していたこの世界をあるがままに受け継ぐだけでは十分ではない人間は必ず何度も繰り返されてきた間違いや罪がいつかは償われるだろうと願う

 こういう願いは形を変えて芸術作品だけでなく様々な神話や伝説のなかでくりかえされるおそらくその中で最も有名なのが神の子でありながら人間の女性マリアから生まれた救世主イエスという物語だろうというわけで最後はその聖母マリアの登場する歌で締めくくりにしたい。 「僕がどうしても困ったときにはマリア様がやって来て叡智の言葉を語りかけてくる」。 ご存知ビートルズのレット・イット・ビー

4.

 中学生のころ洋楽を聴きはじめた私が最初にCDプレーヤーで再生したのは父から貸してもらったザ・ビートルズのベスト盤いわゆる赤盤と青盤だった青盤のディスク2その 12 曲目がご存じレット・イット・ビー当時私はすでにこのレット・イット・ビーを録音したころのビートルズがすでにボロボロだったことを父から聞かされていたビートルズを続けたいポールと続けたくないジョンの間ですでに亀裂は深まっていて、 「レット・イット・ビーはそんなポールがいつかジョンともう一度⋯⋯という願いをこめた曲なのだと父は言っていたこういう裏事情がどこまで正確なのかはとりあえず問わずにおこうその後ジョンがポールだけでなく誰の手も届かないところに行ってしまった悲劇のことは誰だって知っている

 さてこれからこの誰だって知っている名曲レット・イット・ビーとっておきの秘密を教えようこの曲には実はジョンとポールの和解を予告するかすかな囁き声が含まれているこれを読んでくれている人はぜひビートルズの青盤を手元においてレット・イット・ビーをもう一度注意深く聴いてほしいYouTube の公式チャンネルで公開されているいくつかのバージョンのなかにも私が言っている声が聞き取れるものがあるとにかく曲がはじまって1分くらいしたところでその声が聞こえる

For though they may be parted, ★there is still a chance that they will see.
There will be an answer, let it be.

離ればなれになったとしてもめぐり合うチャンスはまだある
答えは見つかるさありのままに

  ★ のところでイヤホンやヘッドホンの片方からボソッと何かつぶやくような声が聞こえるはずだ私はそれを何度も聴いたがどうやらstill a chanceと言っているようだジョンとの別れを受け入れようとして孤独にピアノを弾くポールがいつかはまた会えるのだと自分に言い聞かせるその直前まるで誰かがポールに歌詞を教えるようにして囁いている still a chance──チャンスはまだある」、 もちろん私はこの囁き声がジョンだと言いたいわけではない声どころか録音中の雑音か何かかもしれないけれどもしもこれがジョンの声だとしたらどうだろう二人の別れを歌い上げるとき二人がその歌をともに歌っていたとしたら二人は本当に別れたのだろうか?   いつかはまた会えると歌ったその瞬間に二人の再会は果たされていたのかもしれない私たちがそれを聞き取れていようといまいと

 同じことが小説についても言える私は確かに言葉は自意識がない限りには書くことも読むこともできないと言ったけれどその自意識を超えるために私たちが何をするかと言えば結局誰かの言葉を読み自分の言葉を書きつけるのだたぶんそこにしか答えはないいつか答えを見いだすためにもしかしたらすでに出会っているのに聞き逃した叡智の言葉を今度こそ聞き取るために

第六回 了


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。