これまで紹介していなかったが、 『インフィニット・ジェスト』 にはジョエル・ヴァン・ダイン (別名マダム・サイコーシス) という若い麻薬中毒の女性が登場する。 作品の途中で彼女はついに麻薬で大失敗をやらかし、 エネットハウスに収容される。 そこには、 私のお気に入りの無骨な大男ドン・ゲイトリーがいるのだが、 ゲイトリーに向かってジョエルはこう言っている。
「ドン、 私は完璧なのよ。 私は美しすぎて、 まともな神経系を備えた人なら誰だってトチ狂ってしまうのよ。 ひとたび私を目にしたら、 他のことを考えられなくなって、 他のものなんて見たくなくなって、 通常の責任ある行動を果たすのをやめて、 私がいつもそばにいさえすれば何もかもうまくいくって思いこむの。 何もかも。 頬と顎みたいに密接して、 完璧なものと一体になりたいっていう根深くて止み難い欲求に対する答えが私ってところね」
これは、 「鏡に映った自分の顔に見とれている自称イケメンの独り言」 とはまったく違う。 ジョエルは本当にあまりにも美しく、 だから彼女はあえて自分の顔を常にヴェールで隠している。 そうでもしないと、 彼女の周囲の人間たち (特に男たち) は次々と狂い破滅してしまうからだ。
DFW と阿部和重の作品を読むとき、 絶対に無視することのできない文学的な問題がここにある。 ジョエルやアヴリルのように、 圧倒的な美しさであっという間に男たちを骨抜きにする女性は、 ちょっと見たところでは男性よりも強い女性であるように思える。 そして、 「ちーちゃん」 を溺愛する沢見だって、 強い男性にはとても見えない。 けれど、 こうやって男性が女性の魅力に全面降伏しているように見えても、 それは男性の側から一方的に女性を理想化しているに過ぎないとも言える。 これはいわゆるフェミニズムの文脈ではしばしば問題になることなのでよく覚えておいて欲しいが、 女性の美しさを称賛することと、 その女性を単なるモノとして扱うことは、 別に矛盾していないのだ。 英語には、 成功して大金持ちになった男性がかなり年下の美人の女性と結婚したりすると、 その女性のことを 「トロフィー・ワイフ」 と言ったりする。 つまり、 激しい競争に勝ち抜いて、 他の男たちをなぎ倒した勝者が獲得する賞品 (あるいは高額な商品) としての女性、 ということだ。
文学作品でも、 男たちが男たちの間でだけ闘うときに、 その戦いの原因・動機という役割が女性に与えられることがある。 いわゆる男2女1の三角関係を想像すればいい。 勝ったり負けたり、 自分の意思で行動して成功したり失敗したりすること自体が何故か男性の特権であり、 女性はそもそも彼女自身の意思など持たないか、 意思はあっても何か意味のある行動をとったりはしない──小説でも映画でも漫画でも、 こういう作品はいくらでもある。 そしてこういう物語は、 男性が人間というものの標準形だと考えている。 フェミニストが腹を立てるのも当然だ。 彼女たちのためだとか何とか言いながら、 彼らはいつだって彼女を除け者にして勝手に争ったり仲直りしたりしている。
自殺した DFW がこういう男性的な発想を克服できたのかどうか、 よくわからない──と言ってしまえば、 やっぱりごまかしになるだろう。 DFW の伝記 『すべてのラブストーリーはホラーである』 (Every Love Story is a Ghost Story, 2012) によると、 DFW は女性との交際に深刻な問題を抱えていた。 すでに触れたジョエルのモデルになったと思われる女性メアリー・カー(Mary Karr) の場合、 夫と離婚した後で DFW と交際をはじめるものの、 二人の関係はうまくいかなかった。 伝記の作者 D・T ・マックスはさらりと、 「ある晩、 ウォレスは走行中の車からカーを突き落とそうとした」 と書いている。 DFW から好意を寄せられることを初めはそれほど喜んでいなかったメアリー・カーは、 彼が自分を 「母親/救世主」 みたいな人間だと思っている、 と感じていたようだ。 わかりにくいかもしれないが、 この 「母親/救世主」 というのは、 要するに聖母マリア (Mary) のことだ。 宗教的な伝説のなかにしか存在しないイメージを背負わされることは、 その女性にとって重荷にしかならない。
ところで、 もしも彼女の名前がメアリー(マリア) でなければ、 もしかしたら事情は違ったのだろうか。 無数の言葉が砂嵐のように吹きつけてくるなかを歩いていたに違いない DFW が、 単なる名前の偶然の一致を、 はたしてただの偶然として片づけられたのだろうか。 それに、 メアリー・カー(Karr) を車 (car) から突き落とそうとしたなんて記述を呼んで、 この二つの単語 (Karr / car) の発音がほぼ同じであることに、 気づかない人間なんているのだろうか? もちろん、 これはすべて、 『インフィニット・ジェスト』 を訳しながらすでに頭がおかしくなっている私の思いつきにすぎない。 しかし、 誰よりも言葉に接近しながら生きねばならない作家たちの人生は、 きわめてしばしば、 言葉そのものに支配されているように見えてしまうのだ。 それは神の采配とか無情な運命とか、 そういう大げさなものではなく、 それ自体何の意味もない言葉の戯れが、 人間の存在そのものを支配しているように見えるということだ。
さて、 日本の DFW である阿部和重は、 こういう男性的な意識の弱点を何とか克服しようとしている。 たとえば 『シンセミア』 では、 登場人物の一人である女子高校生の田宮彩香が、 「阿部和重って人の、 『インディヴィジュアル・プロジェクション』 という小説」 を読む。 彼女の感想は、 「女性キャラがあんまり出てこないし、 出てきても添え物という感じ」、 となかなか手厳しい。 これはおそらく阿部の阿部自身に対する批判なのだろう。 そのせいだろうか、 『シンセミア』 ではそれまでにないくらい女性登場人物が色々と思い切った行動に出て、 私たち読者を驚かせる。