たとえば、 阿部が芥川賞を受賞した 『グランド・フィナーレ』 を例にとろう。 この作品は、 主人公である中年男性、 沢見克実の一人称によって語られていく。 沢見は昔から幼い女の子への欲望を隠しながら、 ヌード雑誌のモデルになった少女たちの裸体を撮影していた。 そのなかの一人とは 「夏休みにいっしょにプールに行った日から二人だけで会うようになって、 二、 三回セックスをして、 それから関係がぎくしゃくしてしまった」 と沢見は語っている。 文脈からしてこれは真っ赤な嘘とまでは言えないが、 かといって赤裸々な真実というわけでもないだろう。 「自意識」 による現実の歪曲とはそういうものだ。 神妙に反省すれば脱け出せるほど、 自意識の牢獄は甘くない。 そんな沢見は、 自分の娘のヌード写真を撮っていたことが妻にばれて、 今は離婚し、 最愛の娘 「ちーちゃん」 にも会えない。 沢見の言葉は、 この 「ちーちゃん」 に向けた決して届かないテレパシーだ。 「ちーちゃんよ、 果たしてこれは君が望んだことなのだろうか。 /今日はせっかくの君のお誕生日だというのに、 ひどい土砂降りになっちまったじゃないか。」
この作品で芥川賞を受賞したことで、 阿部がいわゆる変態を好んで描く作家であるというイメージがついてしまった。 それは的外れでもないのだが、 阿部にとって、 小児性愛を含む 「異常」 な人間の心理はそれほど重要ではない。 阿部がこだわっているのはむしろ、 絶対に逃れることのできない、 私たちの愛情をめぐる矛盾だ。
その証拠に、 『グランド・フィナーレ』 にはとても奇妙な矛盾がある。 つまり、 実の娘のヌード写真まで撮ってしまうくらいどうしようもない小児性愛者なのに、 沢見が少女たちに執着する気持ちがほとんど描かれないのだ。 これはあまり注目されていないことなので、 少し丁寧に語り直そう。
阿部の愛読者のなかには、 大作 『シンセミア』 に芥川賞を与えるべきだったと考える人が多いが、 この 『シンセミア』 には、 やはり小児性愛者であることを隠して警官になった中山正という男が登場する。 中山は少女たちの糞便が大好物──文字通りそれを食べるのが好き──という極めつきの変態で、 少女のことを思うと 「何というか、 頭と股間が破裂しそう」 になる。 お台場で毒ガステロが起きた? そんなのどうでもいい。 俺は可憐な少女たちの屁を嗅ぎたいんだ! 少女たちよ、 臭くてたまらないその屁で俺を、 俺を殺してくれ!
俺の息の音を止めてしまうほどに強烈な毒ガスを一発放て! と中山は強く念じた──ああ美少女愉快犯たちよ! 情状酌量の余地もないくらいにきつく濃厚なやつを、 お台場の女どもじゃなくこの俺にこそお見舞いしてみろ! と彼の魂は絶唱したのだ。
セックスの最中に性的絶頂のために死ぬことを英語で “sweet death” と言う。 日本語では 「腹上死」 と言うが、 「甘露往生」 なんていう風流な訳語もある。 中山が望んでいるのは 「悪臭爆死」 だろうか。 激しすぎる少女愛のために中山はある意味で後々 「爆死」 することになるのだが、 詳細については 『シンセミア』 をお読みいただきたい。
ともかく、 『グランド・フィナーレ』 の沢見にはこういう切実さが欠けている。 沢見が執着しているのは一人娘の 「ちーちゃん」 であって、 「ちーちゃん」 に会えなくなった原因であるはずの少女たちへの執着は、 作品を読む限りほとんど感じられない。
これは、 「恋愛」 が実はとても奇妙で危険な体験であることを反映している。 私たちはそれぞれの自意識の牢獄の中で生きている。 別に他人が訪れ去ってしまっても、 それがただの他人なら何でもない。 けれど 「私」 が恋している相手は、 自分だけの世界から脱け出すよう 「私」 を誘惑する。 だから、 ある意味で、 恋愛とはここにこうして生きている 「私」 を殺してしまいかねない危険な体験なのだ。 生まれ変われるかもしれない。 そのまま死ぬほど傷つくかもしれない。 強い引力と、 同じくらい強い斥力がいっぺんに働き、 「私」 は魅惑と反発の力に同時にさらされる。 傷つき傷つけられる可能性なしには他人と深くかかわることができないというジレンマを、 宗教的な言葉で 「原罪」 と呼んでもいいかもしれないが、 もちろん、 これは神話や伝説や寓話のなかのことではなく、 ものすごくありふれたことだ。
すると、 何が起こるのだろうか。 彼女は 「私」 の心をとらえて離さないが、 同時に 「私」 は、 彼女と結ばれることなどありえないし、 結ばれてはならないと自分でもどこかで分かっている。 阿部の 『グランド・フィナーレ』 の沢見は、 確かに今すぐ娘の 「ちーちゃん」 を抱きしめたいと思っているし、 父親が一人娘に対してそういう愛情を抱くことを誰も不自然だとは思わない。 けれどその 「愛情」 は、 極限まで高まると、 その愛の炎で人間を焼き尽くしてしまう。 愛情の二面性、 愛している誰かから必ず遠ざけられているという矛盾を描くために、 阿部は 『グランド・フィナーレ』 をこのように書いたのだろう。
作風の違いを超えて、 阿部と DFW が同じ歌を歌っていることがわかるだろう。 小児性愛者の父親にとって娘は、 愛してはいても決して触れてはならない存在になる。 作品全体の雰囲気や歴史的背景はまるで違うが、 いわゆるハードボイルド小説にも、 こうした女性が頻繁に登場する。 「私」 の心を溶かし、 自意識を破壊してしまう誰かは、 言ってみれば、 男たちを破滅させる運命の女 (ファム・ファタール) だ。 「私」 は彼女を愛さずにいられないが、 まるで麻薬のように、 彼女に手を出せば破滅することも分かっている。 『インフィニット・ジェスト』 のアヴリルもまた、 とにかく異常なくらい人を引き寄せてしまう女性として描かれている。