アヴリル・インカンデザという女性は、 自意識の化け物だ。 アヴリルは、 自分の夫 (つまりハルの父親ジェイムズ) がアルコール依存症であったため、 息子のハルが酒や薬物に手を出さないかとものすごく心配している。 ところがこの母親は、 自分がものすごく心配していることを息子が知ってしまえば、 きっと息子の自立心を阻害してしまうし、 かえって反抗的になるかも⋯等々と考える。 結果的にアヴリルは、 ハルのことをものすごく心配していながら、 ものすごく一生懸命になって、 心配なんてしていないフリをする。 どうなるかは明らかだろう。 そうやって心配しないフリをしていることまで含めて、 息子にはバレバレだ。 自意識というのは、 他人の目に自分がどう映っているか、 他人が自分をどう思っているかという意識のことだ。 そしてそんな意識を抱いていることを相手に悟られないように努力するなら、 そこにも自意識が生じる。
こういう風に何重、 何層にもなった自意識が反映されている文章が 『インフィニット・ジェスト』 にはいくつもあって、 私も訳していて頭がおかしくなりそうになる。 たとえば、 とても読みにくいだろうが、 息子ハルの飲酒を心配する母アヴリルについての以下の箇所を、 どうか我慢して一気に読んでみて欲しい。
それに究極的には、 彼女がラスクおよびテイヴィス両博士に語ったところによると、 自分の母親は自分のことを信頼しているというハルの認識が揺らがぬままであった方が良いし、 彼女は息子を信頼していて支えとなるような母親であって、 彼が時々友達とカナダ産のビールを一杯飲んでいたくらいのことで非難したり、 はらわた千切れんばかりに心配したり、 そのしなやか両手を揉みしだいたりはしないのだとハルにはそう思ったままでいてほしいので、 ジェイムズその人やジェイムズの父親のように彼がこれまでに酒を飲んだことがあるのかもしれないと考えると母として戦慄してしまうのをとんでもなく懸命になって隠そうと努め、 すべては、 例えば飲酒のような話題であってもハルは彼女に対して何憚ることはなく、 どんな状況下であれ彼女に対し何も隠す必要などないと確かにそう感じて安心してくれればと思ってのことだ。
こういう文章が何度も何度もでてくる 『インフィニット・ジェスト』 を訳しはじめたとき、 私は脳みそのシワの模様が力づくで別の形に変えられているかのようで、 となるとこれはもう、 この翻訳の作業をできるだけ短期的に集中してやり終えないと困ったことになるんじゃないかと思ったが、 そんなことができるなら誰も苦労はしないわけで、 この 「翻訳日誌」 の連載を持ちかけてくれた杜昌彦氏をはじめとする人たちが励ましてくれるのをいいことに長期戦の構えにでて今に至る。
整理しよう。 言葉は、 最低限の自意識がない限り書くことも読むこともできない。 だから、 人間の自意識がぼんやりと揺らいでしまう恋愛の体験を語ることはとても難しい。 恋愛を描くにあたっての問題というのは、 別の言い方をすると、 どうして 「私」 が愛する 「あなた」 が、 他の誰かではなく 「あなた」 でなければならないのかが、 どうにも説明しにくいということだ。 だから物語のなかの恋愛は、 (同性愛も含む) 恋人との恋愛というより、 親子愛として描かれることが多い。 厳密に親子でなくとも、 兄と妹、 双子の姉と弟というようなカップルであれば、 最初から強いきずなで結ばれていても不自然でない。 こういうバリエーションはいくつもあって、 幼馴染で恋人未満の男女などもこの中に含まれる。
しかし、 正確には、 「恋愛を描くのが難しいために、 その代わりとして家族愛が描かれる」 というのは誤解を招く言い方だ。 もともと、 私たちが他人に対して抱く感情のうちで、 私たちの根っこの部分にいちばん近い気持ちはどれなのか、 なんてことはどうだっていい。 自分では恋愛をしない人が、 甥っ子や姪っ子を溺愛しているかもしれない。 その人に対して、 お前がその子を可愛がるのは疑似恋愛だろう、 なんて言う資格は誰にもない。 いくつもの形の、 どれか一つだけを特別なオリジナルと見なしたがる傾向は、 私たち全員に備わっている。
モンキーズの “Daydream Believer” の主人公は、 高校の頃からみんなの人気者だったキレイな女性と結婚できたらしい一人の男だった。 けれど、 清志郎の 『デイ・ドリーム・ビリーバー』 に出てくる 「彼女」 というのは、 清志郎が一度も会えなかった実の母親と、 子供の頃に亡くなった育ての母親のことだそうだ。 彼らが歌い上げる 「彼女」 はきっと特定の誰かだろうが、 その誰かが恋人なのか母親なのか、 その母親と血がつながっているかどうかは、 どうだっていいことだ。
3.
阿部和重も、 恋愛を描くのに積極的ではなかった。 デビュー作 『アメリカの夜』 以降、 阿部はスパイやらストーカーやら、 他人を監視する登場人物を何度も描いている。 これは、 その人物が小児性愛者だとか、 陰謀を調査しているとかいう設定ならば、 その人物が何かに強く執着していても不自然ではないからだ。