柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第10回: あるがままではいけない世界(デヴィッド・フォスター・ウォレスと阿部和重)2

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2021.
02.24Wed

あるがままではいけない世界(デヴィッド・フォスター・ウォレスと阿部和重)2

承前

ヴリル・インカンデザという女性は自意識の化け物アヴリルは自分の夫つまりハルの父親ジェイムズがアルコール依存症であったため息子のハルが酒や薬物に手を出さないかとものすごく心配しているところがこの母親は自分がものすごく心配していることを息子が知ってしまえばきっと息子の自立心を阻害してしまうしかえって反抗的になるかも⋯等々と考える結果的にアヴリルはハルのことをものすごく心配していながらものすごく一生懸命になって心配なんてしていないフリをするどうなるかは明らかだろうそうやって心配しないフリをしていることまで含めて息子にはバレバレだ自意識というのは他人の目に自分がどう映っているか他人が自分をどう思っているかという意識のことだそしてそんな意識を抱いていることを相手に悟られないように努力するならそこにも自意識が生じる

 こういう風に何重何層にもなった自意識が反映されている文章がインフィニット・ジェストにはいくつもあって私も訳していて頭がおかしくなりそうになるたとえばとても読みにくいだろうが息子ハルの飲酒を心配する母アヴリルについての以下の箇所をどうか我慢して一気に読んでみて欲しい

 それに究極的には彼女がラスクおよびテイヴィス両博士に語ったところによると自分の母親は自分のことを信頼しているというハルの認識が揺らがぬままであった方が良いし彼女は息子を信頼していて支えとなるような母親であって彼が時々友達とカナダ産のビールを一杯飲んでいたくらいのことで非難したりはらわた千切れんばかりに心配したりそのしなやか両手を揉みしだいたりはしないのだとハルにはそう思ったままでいてほしいのでジェイムズその人やジェイムズの父親のように彼がこれまでに酒を飲んだことがあるのかもしれないと考えると母として戦慄してしまうのをとんでもなく懸命になって隠そうと努めすべては例えば飲酒のような話題であってもハルは彼女に対して何憚ることはなくどんな状況下であれ彼女に対し何も隠す必要などないと確かにそう感じて安心してくれればと思ってのことだ

 こういう文章が何度も何度もでてくるインフィニット・ジェストを訳しはじめたとき私は脳みそのシワの模様が力づくで別の形に変えられているかのようでとなるとこれはもうこの翻訳の作業をできるだけ短期的に集中してやり終えないと困ったことになるんじゃないかと思ったがそんなことができるなら誰も苦労はしないわけでこの翻訳日誌の連載を持ちかけてくれた杜昌彦氏をはじめとする人たちが励ましてくれるのをいいことに長期戦の構えにでて今に至る

 整理しよう言葉は最低限の自意識がない限り書くことも読むこともできないだから人間の自意識がぼんやりと揺らいでしまう恋愛の体験を語ることはとても難しい恋愛を描くにあたっての問題というのは別の言い方をするとどうしてが愛するあなた他の誰かではなくあなたでなければならないのかがどうにも説明しにくいということだだから物語のなかの恋愛は、 (同性愛も含む恋人との恋愛というより親子愛として描かれることが多い厳密に親子でなくとも兄と妹双子の姉と弟というようなカップルであれば最初から強いきずなで結ばれていても不自然でないこういうバリエーションはいくつもあって幼馴染で恋人未満の男女などもこの中に含まれる

 しかし正確には、 「恋愛を描くのが難しいためにその代わりとして家族愛が描かれるというのは誤解を招く言い方だもともと私たちが他人に対して抱く感情のうちで私たちの根っこの部分にいちばん近い気持ちはどれなのかなんてことはどうだっていい自分では恋愛をしない人が甥っ子や姪っ子を溺愛しているかもしれないその人に対してお前がその子を可愛がるのは疑似恋愛だろうなんて言う資格は誰にもないいくつもの形のどれか一つだけを特別なオリジナルと見なしたがる傾向は私たち全員に備わっている

 モンキーズのDaydream Believerの主人公は高校の頃からみんなの人気者だったキレイな女性と結婚できたらしい一人の男だったけれど清志郎のデイ・ドリーム・ビリーバーに出てくる彼女というのは清志郎が一度も会えなかった実の母親と子供の頃に亡くなった育ての母親のことだそうだ彼らが歌い上げる彼女はきっと特定の誰かだろうがその誰かが恋人なのか母親なのかその母親と血がつながっているかどうかはどうだっていいことだ

3.

 阿部和重も恋愛を描くのに積極的ではなかったデビュー作アメリカの夜以降阿部はスパイやらストーカーやら他人を監視する登場人物を何度も描いているこれはその人物が小児性愛者だとか陰謀を調査しているとかいう設定ならばその人物が何かに強く執着していても不自然ではないからだ


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。