彼らはめいめいに、 自分の音の高さあるいは調べを、 そしておそらくは自分の歌詞をも選択するだろうが、 旋律はまったく同じである。 すべての歌詞で、 すべての調べで、 すべての高さで、 ひとつの同じトラララが。
ジル・ドゥルーズ 『差異と反復』
1.
大手コンビニの 「ずっと夢を見て、 安心してた」 というあの歌を誰もが知っている。 そのせいでかえって知らない人もいるが、 これは忌野清志郎 「デイ・ドリーム・ビリーバー」 で、 モンキーズというアメリカのバンドの “Daydream Believer” をカバーしたものだ。 ヘロヘロなのにカッコいい清志郎の声がメロディとぴったりなので、 私もてっきり清志郎の曲だと思っていたことがあった。
モンキーズは 「アメリカのビートルズ」 だそうだ。 中学生のとき、 私が父にそのことをきくと、 父はこう言って笑った。 「もちろんモンキーズもすごいよ。 でも、 モンキーズをアメリカのビートルズとは言っても、 ビートルズをイギリスのモンキーズとは言わないぞ」。 世界的に有名なAにあやかって、 「日本のA」 とかいう呼び方をすることがある。 けど、 あやかることでそのAには勝てないと半分認めたようなものだから、 それを勘違いするなと父は言いたかったのだろう。 いつまでたっても 「あのAさんの息子 or 娘」 と紹介されるタレントみたいなものか。
ずっと関係のない話をしているわけではないので安心してほしい。 アメリカ現代文学を代表する作家デヴィッド・フォスター・ウォレス (DFW) の 『インフィニット・ジェスト』 に関して、 今回は日本の DFW と言うべき作家と DFW を比べてみよう。 彼の名は阿部和重。 はじめに断っておくと、 私は DFW より阿部和重 (ABE) が劣っているとは全然思っていない。 モンキーズの “Daydream Believer” も、 忌野清志郎 『デイ・ドリーム・ビリーバー』 も両方好きだし、 DFW と ABE に優劣をつけたいわけでもない。 今回は、 『デイ・ドリーム・ビリーバー』 と “Daydream Believer” のどちらかを聴いてみてから読んでほしい。
2.
阿部和重と DFW を共鳴させるのは、 「自意識」 だ。 この翻訳日誌でも以前紹介した 『これは水です』 の中で、 DFW はこんなことを言っている。
考えてもみてほしい。 今までの経験のなかで、 自分がその経験に対して絶対的な中心ではなかったなんてことは一度もないでしょう。
あなたが体験する世界は、 あなたの正面、 あるいは背後、 あなたの右なり左なりにあって、 あるいはあなたのテレビに、 あるいはモニターに、 なんでもいいけどそういうものに映し出されている。
他人の考えや気持ちは、 どうにかしてあなたに伝達されないといけないけど、 でもあなた自身の考えや気持ちはとても生々しくて、 差し迫っていて、 リアルだ。
私が見る世界の中心にはいつでも 「私」 がいる。 私は 「私自身」 と 「あなた」 を完全に同列にして、 まったく平等に考えることができない。 だからこそ、 人はその自意識の牢獄から抜けだそうともがき、 あるいは脱けだしたフリをする。
「自意識」 の問題を真剣に考える小説家にとって、 恋愛を描くのは難しい。 恋愛というのは、 「私」 が 「私」 とは違う誰かに引き寄せられて、 今までとは少し違う 「私」 になっていく体験だ。 たとえば、 まだ恋人ではないけれど、 お互いなんとなく好意を抱いている二人が距離を縮めていくときの、 あの独特の感覚を言葉で表現するのはとても難しい。 雲の上を歩いているのに地上に落下することなど考えもしないような陶酔? 目には見えない甘い香りの微粒子が風に乗って頬や瞼にぶつかりパチパチと弾けるような心地よさ? 気づけば昨日までと違う世界に生きているのに、 そのことに驚きもせず、 むしろ 「あの人」 が近くにいるこの世界こそ自分の故郷であるような気がする根拠のない安心感?
要するにそれは、 恋愛でいちばん楽しいあの時期のことだ。 断言してもいい。 二人の人間が恋人同士になっていくまさにその時間の流れをリアルに描くことができたら、 それだけで一流の作家である証拠だ。
ちなみに、 二人の人間が恋愛の時空にむかって離陸するまでの助走期間を描くのが難しいために、 作家たちはだいたい以下のような描き方をする。
- 物語に登場した時点で、 その人物がすでに誰かに完全に恋している
- ある段階で突発的に、 いわゆる 「一目惚れ」 をする
- 相手を好ましく思う理由を説明して、 やがてその恋が終わる時の伏線にする
私が昔読んだ 「純愛小説」 では ② が使われていたが、 相手の美しさに目を奪われている男が一人称で冷静に語っていて、 こりゃダメだと思った。 言葉はどうしても、 それを紡ぎだすための最低限の理性と自意識を前提とするので、 その理性を働かせる余裕を失っているはずの状態を下手に描くと、 語っている人間の自意識が鼻につく。 つまり、 恋している自分に酔っているか、 あるいは相手からの好意を確信していい気になっている人間の自分語りを聞かされるわけだ。 鏡に映った自分の顔に見とれている自称イケメンの独り言なんて、 誰だって聞ききたくないだろう。 即座にそいつの背中を蹴って、 鏡とディープキスさせてやる。 (人が恋に落ちるか落ちないか、 その微妙なグレーゾーンを描いた小説の最高峰は、 私に言わせればフローベール 『ボヴァリー夫人』 だ。)
DFW や阿部和重にとっても、 「自意識」 を抜け出すのは難しい。 DFW の 『インフィニット・ジェスト』 に関して、 今回は新たに、 主人公ハル・インカンデンザの母親であるアヴリルを紹介したい。 ハルの父親ジェイムズが 「超」 のつく天才だったことには以前触れたが、 このアヴリルもまた、 どうしようもないくらい強烈な人間だ。