社員証をリーダーに通すと、電子音とともに画面に文字が浮かび出た。「お誕生日おめでとうございます」
機械に祝われても嬉しくないよ、と作業用手袋を着用しながらぼやいた。とはいえ何歳のと言わないだけまだましか。
景気の良かった頃は、月初の朝礼で誕生月の社員にプレゼントを渡す行事があった。全員の前で年齢を読み上げられるので、当然女子社員からは不評だった。不況を理由に廃止されたときには裏で喜び合ったものである。
エアシャワーを浴びて仕込室へ入ると、後輩の泉が待っていた。朝のミーティングの間、仕事を頼んでいたのだった。
「さっきトラブルがあってラインが三十分ほど止まりました。尾美さんが今度は」
尾美とは勤め出して三ヶ月になるパート社員だ。あまり要領が良くないらしく、たびたび愚痴まじりの報告を受ける。
「作動中のローラーに手を突っ込んで、あやうく指を潰すところだったんですよ」
「えっ。大丈夫」
「後ろに山田くんがいたんで、すんでのところで助けてくれました。注意はしましたけど、でも咲さんからもお願いします。反省してる様子がないんで」
泉のいらつきは見ぬふりをして尾美を呼んだ。怪我はないことを確認し、仕事中は慎重にと諭すが、相手は拗ねた顔つきを変えない。
「食品を扱うということは、食べる人の命に関わることでもあるんです」
尾美はやり過ぎなくらいに肩をすくめた。なるほど。泉さんの心情はよくわかった。
「とにかく、怪我がなくて何よりでした。持ち場に戻ってください。くどいようですけどくれぐれも慎重に」
尾美はおざなりな会釈をして背を向けた。ぼそっと呟いた声が届いた。
「オールドミス……」
一瞬、ぽかんとした。今なんて言った? そして思わず吹き出した。オールドミスって。それもう死語でしょ。尾美は驚いた顔を私に向け、きっと睨むと持ち場に戻っていった。
「あっはっは」
まだ大笑いしている私を、ビニールカーテンの向こうから泉が訝しげに見ていた。はあ可笑しい。
「ハッピーバースデー」
食堂で、同期の深田怜美が小さな紙袋をくれた。ベージュ色のシュシュが入っていた。怜美とは互いの誕生日に、千円未満でのプレゼントのやり取りをしている。シングルマザーである彼女に負担にならない楽しみ方をしようとそう決めたのだった。ありがとうと髪ゴムの上にシュシュをはめる。
「ところでさ」
怜美は急に顔を寄せた。
「こないだの人とその後どう? 誕生日のお誘いとかあった?」
「ううん」
箸を取って蕎麦をすすった。さっさと食べないと伸びてしまう。
怜美が言うのは、先月出会った男性のことだった。婚活中の男女のための催しで、怜美の付き添いのつもりでぼんやり参加したのだが、なぜか気に入られて何となく連絡先を交換したのだった。一度映画に出かけたが進展はない。このまま消滅だろう。
「誕生日だとも教えてないし」
怜美は残念そうだった。興味本位でなく、心配してくれているのだ。藤川さんが辞めてからもうじき一年、私にほかの相手がいないから。その名前を口に出さないようにしてくれていることも知っている。
怜美が席を立ったあと、携帯を見るとメール着信があった。ふゆちゃんからだ。姪は私の誕生日をいつも覚えていてくれる。
冬花の母親である長姉は私が中学に入る前に結婚したので、さほど親しくしていた記憶がない。幼い頃は二つ上の兄と遊ぶことが多くて、姉は両親のほうに近い「おとなのひと」だった。私のもとに冬花が入り浸っていた時期、姉から妬かれたことがある。
「あんたばっかり美味しいとこ取って。母親のあたしは損な役ばかり」
確かに美味しいとこ取りかもしれない。あの子の名前をつけたのも私だ。というより、姉夫婦が私の案を採用したのだが。名前の由来は、当時好きだった小説だった。中学生だった私はヒューという名のキャラクターが大好きで、「ヒュー/ふゆ」と音をこじつけて女の子らしい名前を作ったのだった。私は姪をヒューちゃんと呼んで、彼女も自分のことをそう名乗っていたのだけれど、姉はそれが気に入らなかったらしい。すぐに矯正されてしまった。冬花はたぶん覚えていない。もうすっかり立派な女性に育って、ヒューちゃんなんて呼び名は似合わない。
「あ」
ふいに思い出した。
二十代の頃、付き合いで買った指輪があった。冬花が成人したら譲るつもりですっかり忘れていた。成人どころか三十歳の誕生日もとうに過ぎている。うっかりもいいところだ。どこにしまい込んだんだったか。探しておかなきゃ。来年の誕生日にはきっと渡そう。
食堂から戻ると、泉が朝よりもっと渋い顔で待っていた。尾美が無断で帰ったと言う。
「昼休憩に入ってすぐ着替えて出ていったらしいんです。咲さんに注意されてからずっと不機嫌だったんですけど」
「あー……そうなんだ」
失敗した。私に馬鹿にされたと怒ったんだろう。しなかったと言うと嘘になるけど。
「ずいぶん楽しそうでしたけど、何の話されてたんですか」
その質問は笑ってごまかした。尾美が欠けた穴埋めに、午後の会議は欠席することにした。
トイレ休憩に出たついでに廊下で軽いストレッチをしていると、前屈している背中をいきなり押さえつけられた。悲鳴をあげて振り向くと、営業の飯塚が笑っていた。
「もっと深く曲げないと。体固いよ」
「固いからこそストレッチしているの。会議はどうだった」
「新製品は、咲さん推しのミルク味に決定」
会議内容のプリントを手渡される。
「味見にいそしんだ甲斐があったね」
飯塚が右手を挙げたので、その掌を思いきり叩く。ぱん、といい音を立てた。
「わざわざ報告に来てくれたの?」
「そう。それと、今日咲さんの誕生日だって深田さんから聞いたから」
飯塚が差し出した手には板ガムが一枚。
「おめでとう。気持ちだけだけど」
「まあそうね」
「でもそれは新製品の最後の一枚だから」
「貴重な一枚をありがとうございます」
笑い合って、飯塚は帰っていった。
ガムの包み紙を剥いて口に入れると、柑橘の香りが鼻腔に広がった。この一年、小さな贈り物をどれほど貰ってきただろう。社内での噂や孤立しそうになるたび飯塚と怜美に救われた。数え切れないほど。いつか返せる日が来るだろうか。
冬花が明日ケーキを持って訪ねてくるというので、スーパーで彼女の好物を買い込んだ。誕生日なのだから自分を甘やかそうと、いつもは買わない銘柄のビールも買った。
帰宅すると、手紙が一通届いていた。薄緑色の封筒に差出人の名前はない。けれど、宛名を見れば藤川さんの字だとわかった。
花柄のカードは香り付きで、開くとほんのり花の匂いがした。
「誕生日おめでとう」
たったひと言、青いインクの文字を指でなぞる。別れてから初めての手紙だ。最後の手紙にもなるだろう。
一年と一日前、藤川さんは辞表を出し電話番号もアドレスも変えた。いっさい連絡は取らないと約束させられたのは、私を守るためだった。だから私が返事を書くことはない。
私が諦めていたおめでとうの言葉は、彼の心残りでもあったのだろう。自分から約束を破るような真似をしたのは、でもどこか、藤川さんらしいとも思えた。ここにこうしている私と、一年前の私が重なる。あの日の私に一年遅れの「おめでとう」を伝えた。
ぬるめのお湯に浸かって、買ったばかりのビールを開けた。もうじき終わってしまう誕生日をひとりで祝う。初めての地ビールは期待以上に美味しい。明日、冬花と一緒に飲もう。
風呂場の窓をほんの少し開けると、ひんやりとした風がどこからか音楽を運んできた。ハスキーな歌声を聞きながら、お湯で肌を撫でる。悪くない誕生日だ、と思う。そう。悪くない。
(了)