四半世紀ぶりに読みかえした。 高校の現国でむりやり読まされて以来だ。 あのとき理解できなかったのもしょうがないな。 これは自分の人生がだめになって、 もうよくならないと知ってからでないと意味が汲めない。 そもそも 「先生」 につきまとう語り手の若者よりも当時は若かった。 いま読むとあの若者は、 あまりに若々しくて、 元気溌剌で好奇心旺盛で、 生命力にあふれていて、 嫉妬の念すらわいてくる。 むりに読ませて何か得るものがあるとでも思ったんだろうかあの現国教師は。 笑顔で生徒を殴り飛ばすほんもののサディストだった。 あんなやつにこの話が理解できていたとは思わない。
いま読むとあまりにもうまいこと書かれているのにびっくりする。 一文、 一文がじつに正確な描写だ。 BL のはしり、 という意見を読んだけれど矮小化だと思う。 たしかにそうだけれどイコールといいきれるほど単純じゃない。 たしかに冒頭の白人云々はそのまま読めばそう読めるけど、 あれは思うに、 仕事のひきあいは何かとあったのに 「先生」 は断りつづけた、 ということの説明なんじゃないかって気がする。 「先生」 は奥さんを女として愛しているし、 だからこそ、 たとえば子どもができないことを呪いと呼ぶ台詞に、 切実な重みがある。 BL といいきる読み方は単純でわかりやすい。 漱石が書こうとしたのはもっと微妙でわかりにくいことだって気がする。 可視化され得ない問題について書いたから 『こころ』 なのだと思う。
明治天皇と乃木将軍のくだりも、 当時はわからなかった。 古色蒼然たるイデオロギーとして読んでしまったのだ。 明治以降の日本という国家がしてきたことを考えると、 しょうじき肯定的には読めなかった。 そんな話じゃなかったってことが、 震災を経たいま、 リアルな生活実感をもって理解できる。 昭和天皇のときの妙な空気とはまったく意味あいが異なるのだ。 心身弱って、 ささいな希望にすがって生きてるとき、 他人の生き死にが自分の生死とどこかで結びついてるような、 そんな気持になりはしまいか。 「先生」 はずっと苦しんで生きてきて、 他人の人生 (の始末のつけかた) に自分を重ねあわせて、 あぁおれもそのときだ、 と感じたのではないか。
自殺という暴力がまわりの人生にどのような影響をおよぼすか、 という問題についても、 非常に正確に書かれてる。 あのようないきさつで結婚したとなれば、 奥さんのことをどれだけ愛していても、 あるいは愛すれば愛するほど、 しんどくなるだろう。 たとえば、 理想的な恋愛であれば、 親しくなり結婚に至るまでの過程は、 どれもすてきな思い出だったりするわけじゃないですか。 それがあのふたりの思い出の風景には、 いつも自殺した親友がいた。 そういう結婚は、 どれだけ愛しあっていても、 あるいは愛しあっていればいるほど、 うまくいかなくなるものだと思う。
「先生」 は語り手の若者にしか甘えられなかった。 他人だから甘えられた。 若いころの自分を投影できるような他人が、 わざわざ積極的にコミットしてくれたから。 語り手の若者は、 危篤の父親をほったらかして列車に飛び乗るくらい、 若者らしい向こう見ず (もっとも人間だれしも、 歳をとったところで思慮ぶかくなんか、 なりはしないのだけれど) で突っ走る。 「先生」 はそのような強烈なコミットを求めてたみたいに見える。 終盤、 かれはほとんど懇願している。 おれを見棄てないでくれ、 おれをわかってくれ⋯⋯と (いまおれは同年齢なので、 あの見苦しさが身に染みる)。 奥さんもそのようにコミットしていたら事態はちがってたろうか。 あるいは実際にはしていたのかもしれない。 でも先生は彼女をはなから見くびって、 若者を信じたようには信じることができなかった。 こいつには理解できまいと。
あるいは 「先生」 は K を殺したものの象徴が、 奥さんに代表されるような何かであると考えていて、 だからその事実を彼女から隠そうとしたのかもしれない。 論理的なものと情緒的なものの相克という主題が、 先進的に見えた西洋と、 コンプレックスをかかえた日本というイメージを重ねつつ、 何度もくりかえし出てくるのだけれど (たぶんだから冒頭に白人がでてくる)、 なんかそのへんで、 「論理的に生きようとする男の足をひっぱる情緒的な存在」 として女性を捉えるような、 性差別的ニュアンスもあったのかもしれない。 あるいはそれでいて同時に、 情緒的なものの象徴として女性を神聖視するような、 肯定的でありながらやはりこれまた性差別的なニュアンスもあったのかもしれない。
漱石は 「先生」 や語り手の若者といった、 男の目を通して書いているにもかかわらず、 生身の女性を活き活きと描きだしている。 (結婚前の) 若い女性から大人の女 (妻) への変化が、 鮮やかに伝わってくる。 介護などさまざまな時期を経て、 関係性が変化していく過程なんか、 さらっと書かれてるのに生々しく感じた。 ってことは 「先生」 も彼女のことを、 それだけしっかり見ていたわけだ。 愛してなければそのように見つめることはない。 それでも信じられなかったとしたら、 あるいはそこには女性の残酷さみたいなものも、 たしかに存在していたのかもしれない。 だからといって 「先生」 の罪が軽くなるわけじゃないし、 その罪の一部であろうと奥さんに負わせるのは、 まったくのお門ちがいだけれど。
実際あの奥さんにはコミットするだけのタフネスがあったんだろうか。 「先生」 がそう信じたように、 まったく持ちあわせなかったのだとしたら、 もうちょっと夫への接し方もちがってたはずだ。 さっさと見切りをつけて、 あんなふうにあれこれ真剣に問い詰めたり、 泣いたり傷ついたり夫のこころを憂えたりはしなかったろう。
「先生」 は奥さんを、 ほんとは信じたかったんじゃないか。 他人である若者に甘えたのと同じように甘えたかった。 でも、 できなかった。 愛した女のことを、 自分たちとおなじ闇をかかえた存在として信じることができなかった。 生身の人間である事実を拒否し、 神聖視した。 そうして中途半端に護ろうとした。 そこにかれの残酷さと哀しさ、 あるいは人間らしい弱さがあった。 それがかれの罪であり不幸だったって気がする。