職場の近くに大好きな書店がありました。 多くの棚から個性が消えてつまらなくなり、 目利きのセンスが光る外国文学の棚が縮小され、 アート関連が奥に追いやられ、 漫画コーナーを前面に出し、 ついには文房具を扱いはじめたので不安を感じていました。 文房具を置くようになったら書店は末期、 という自分のなかでのジンクスがあるのです。 あんのじょう潰れました。 やむなく同じ系列の別店舗へ向かいました。 外国文学の棚はありませんでした。 ハードカバーのミステリにまぎれてごくわずかだけ扱っていました。 文脈もセンスも皆無。 ただ狭い場所に押し込められていました。
その店もご多分に漏れず文房具を扱っていました。 雰囲気も雑然としていて、 客に見える場所に段ボール箱がいくつも積まれていました。 おそらくは潰れた店舗から移した在庫がまだ整理できていないだけなのでしょうが⋯⋯しかし本を何かの象徴や、 それぞれの私的な世界を内包したものとしてではなく、 単にモノとして扱っているかのような印象を受けました。 生命力を感じさせる猥雑さ、 というのなら大いに結構なのですが (郊外モールに出店するようになる前のヴィレヴァンのように)、 それとは違います。 その場ならではの視点、 文脈、 一貫性が欠如しているのです。 猥雑には猥雑なりの感性があります。
その系列店の品揃えや棚づくりは、 大好きだった店舗と違って、 ほかのどの書店とも区別がつきませんでした。 その書店ならではの視点 (文脈) が感じられませんでした。 それがない書店はネット書店のランキング表示と変わりないので、 わざわざ足を運ぶ理由を見いだせません。 たとえ同じ本であってもそのように死んだ場からは買いたくありません。 魅力的な場の一部を切り取って持ち帰りたいのです。 そこには魔法があります。 書店で本を買う大きな愉しみです。 よそと区別がつかなくなったり、 雑然としてきたり、 何屋だかわからなくなったりしたらもうその店はだめです。 系列店もだめとなれば、 魅力ある書店はわたしの暮らす街から絶滅したことになります。 がっかりしました。
異質なものとの出逢いで自分が変えられる体験や、 ほかのだれとも異なる孤独と向き合う経験は、 読書の大切な役割です。 だれとも同じで何も変えられないようなものを、 なんのために出版しなんのために読むのですか。 読書や出版を勝ち負けの概念で語りたがるひとにばかり遭遇するので、 おかしいとは思っていました。 わかりやすい、 無難な、 だれでも知っている、 当たり前、 分類可能、 「売れ筋」 ⋯⋯そんなものばかり並べて独自の視点が入り込む余地がなくなれば、 そこに魔法は生じません。 効率よく大量のクリックを発生させつづければ商売としては成り立つので、 出版に関わるひとたちはそれでいいのでしょう。
愉しみにしていた本は買えませんでした。