ジェイルバード
ASIN: B00E7KWGWO

ジェイルバード

ウォーターゲート事件の巻きぞえをくって囚人となったスターバックが回想する前世紀末の労働争議、サッコ=ヴァンゼッティ事件、世界大戦、赤狩り・・・・・・過去と現在が微妙に交錯しながら奏でられる八十年にわたる物語──現代アメリカ文学の巨匠が、人々への愛と怒りをこめて綴る〈新〉アメリカン・グラフィティ。


¥303
早川書房 1985年, Kindle版 353頁
※価格はこのページが表示された時点での価格であり、変更される場合があります。商品の販売においては、購入の時点で Amazon.co.jp に表示されている価格の情報が適用されます。

忘れてはいけない時代の話

読んだ人:一夜文庫

ジェイルバード

正直に白状しよう選挙権を得てからこれまで旧民主党が与党を破った時以外のすべての選挙で私は自分の票を某左派政党に投じてきた

共産主義についての私の知識はごく浅いものだその理念は人間の怠惰や欲望の前では無力なものだと思うそうでなければこのように気軽に票を入れることはできなかった国も国境もない世界なんて本当にできてしまったらなんと味気ないことだろう国籍を理由にした差別や偏見はあってはならないけれど地域に培われた文化や歴史は尊重されなければならない誰もを病的に均一に平等にするために全てを人為的にコントロールすることもあってはならないというかそんなことは不可能だ共産主義は今となってはただの理想論だだが完全には実現しえない理論であるからこそその一部だけでも、 「平等」 「弱者の救済という点だけでも少しでも実現してほしい知識の浅い素人のそんな単純な想いのみでいつも票を投じているそれで多少なりとも私の想いが世相に反映されているかといえばなかなかそうはならないけど何もしなかったらもっと酷いことにはなっていたかもね⋯⋯という印象である

令和の日本に生きる庶民の私がそんな自らの浅慮を披露したところで私の立場は脅かされないし私の日常は何も変わらないもしかしたらツイッターのフォロワー数はごっそり減るのかもしれないがせいぜいそんなものだろうところが過去に共産主義思想に傾倒していたとみなされただけでだれもが職を追われるということが起こり得る国と時代があった冷戦下のアメリカである。 『ジェイルバードはそんな時代を生きてきたひとりの 囚人ジェイルバードが刑期を終え釈放される日を起点として彼の回想が過去や未来へと交錯し展開していく物語だ

前半を読んでいるとこの主人公がなぜ逮捕されしかしその後釈放された後になぜ巨大資本 RAMJAC に要職を得ることになるのかがなかなか語られないので気になって気になって仕方がなくなった意地悪な飼い主にちゅ~るをお預けされた猫のように爪で空を掻く気分で読み進めていくと絶妙なタイミングで物語が展開するその快感は時系列通りに展開する構成の物語では得られないような特別な感覚だった時に息を呑み時に声を上げて笑いすっかり物語に引き込まれた

純粋に物語として読んで面白いかつて共産主義者だった主人公が友人の官僚もそうだったと軽い気持ちで証言して結果的に彼を失脚させるがその友人は過去に主人公の恋人を奪って妻にしていた閑職に追いやられた末に逮捕され刑期を終えて街に戻った主人公が出会う個性的な人々や過去との邂逅という人間ドラマと共に描かれるのは時代の流れや歴史思想そして経済という実態なく蠢く巨大な怪物の姿だ

共産主義や労働運動実際にあったサッコ・ヴァンゼッティ事件アメリカ史上最悪の冤罪事件といわれるが描かれた末の結論は経済は人間にコントロールできるものではないということだろう実態のあるようなないような経済」 「」 「思想そんなものに翻弄される人間たちヴォネガットはその愚かさを嘆きながらも僅かな希望を抱きながらこの物語を書いたのではないかデモやストライキで雇用者と対峙したのち犠牲になった庶民たちそのことで心に傷を負った雇用者側の人間労働運動に身を投じていたために無実の罪で処刑されたサッコとヴァンゼッティその存在は書き残さなければ消えてしまう忘れられてしまう人間はすぐ忘れてしまう生き物だからそのままでは消えてしまう大事なことを次の時代の誰かに届けるためにヴォネガットはこの物語を書いたのだろう今の時代に当たり前のように国民としての権利や労働者としての権利を享受している私達はそれを闘って勝ち取ってきた勇敢な人々のことも自由のない国で今も当たり前の権利すら得られないでいる人々のこともほんとうにすぐに忘れてしまう誰かが時々思い出しなさいと声を上げなければならない

またこの物語では主人公が愛した女性たちの姿も印象的だナチスドイツの強制収容所から生還したユダヤ系ウィーン人のルース大恐慌で上流階級の実家が財産を失っても明るく無邪気なセーラ高い理想のもとに世界をよくしようとしたメアリー・キャスリーン彼女たちの言葉は世界を描く愚かな人類の姿を本質を描くメアリー・キャスリーンが残りの人生を生きた果てに望んだ未来は彼女の思うようにはいかなかったけれどその結末には虚しさだけではないものを私は感じたというか感じたいだけなのかもしれない人類がそれでも少しはよいほうに向かってくれると信じたいだけの希望的観測かもしれないけれど物語の最後のシーンの明るさが私にその想いを強くさせる

この作品が発表されてから半世紀以上人類は相変わらず愚かだグローバリゼーションの蔓延は共産主義とは真逆の形で世界を均質化しつつあるロンドンでもパリでもニューヨークでも東京でも釜山でもスタバのフラペチーノを舐めマックのポテトを噛りユニクロのボンレスハムのようなダウンを着た人々があふれかえる世界ああつまらない地域性を捨て巨大資本に与えられる皆おんなじ価値観を喜んで享受する社会が資本主義によって実現されつつあるのは滑稽な皮肉だけれどいいこともある好きなことに関心を持って突き詰めていけばたくさんの情報にアクセスできるこの本を読むにあたってだって分からない部分はすぐに検索できたサッコ・ヴァンゼッティ事件が実際に起きた事件であることもRAMJAC がヴォネガット作品に度々登場する架空の会社であることもロバート・フェンダー博士こと作家キルゴア・トラウトという登場人物がヴォネガット作品の常連でヴォネガットの代弁者であることも指先ひとつの操作ですぐに知ることができたその気になれば知りたいことをいくらでも調べられるマックのハンバーガーではなくキビヤックやらくさややらその土地でしか食べられない料理を知ることもボンレスハムダウンではない民族衣装やインディーズのデザイナー服を買うこともできる抗って個であろうと思えばいくらでもどこまででも個でいられる世界皆おんなじの波に埋もれることなく私はここだよこんなふうに生きているよと言っていい世界そこにはいい面もわるい面もありこの先の人類がどこに行くか分からないそんなことは今もこの先も誰にも永久に分からないけれどジェイルバードが出所した先の未来を生きる私達は過去を知り過去から学びもう少しでも世界がマシであるようにひとりひとりが考え行動していけたらと願ってやまない

(2023年04月25日)

寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。
ぼっち広告

AUTHOR


カート・ヴォネガット
1922年11月11日 - 2007年4月11日

米国の作家。人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。20世紀米国人作家の中で最も広く影響を与えた人物。