正直に白状しよう。 選挙権を得てからこれまで、 旧民主党が与党を破った時以外のすべての選挙で、 私は自分の票を某左派政党に投じてきた。
共産主義についての私の知識はごく浅いものだ。 その理念は人間の怠惰や欲望の前では無力なものだと思う。 そうでなければこのように気軽に票を入れることはできなかった。 国も国境もない世界なんて、 本当にできてしまったらなんと味気ないことだろう。 国籍を理由にした差別や偏見はあってはならないけれど、 地域に培われた文化や歴史は尊重されなければならない。 誰もを病的に均一に平等にするために、 全てを人為的にコントロールすることもあってはならない、 というかそんなことは不可能だ。 共産主義は今となってはただの理想論だ。 だが完全には実現しえない理論であるからこそ、 その一部だけでも、 「平等」 「弱者の救済」 という点だけでも少しでも実現してほしい。 知識の浅い素人のそんな単純な想いのみでいつも票を投じている。 それで多少なりとも私の想いが世相に反映されているかといえば、 なかなかそうはならないけど何もしなかったらもっと酷いことにはなっていたかもね⋯⋯という印象である。
令和の日本に生きる庶民の私がそんな自らの浅慮を披露したところで、 私の立場は脅かされないし私の日常は何も変わらない。 もしかしたらツイッターのフォロワー数はごっそり減るのかもしれないが、 せいぜいそんなものだろう。 ところが、 過去に共産主義思想に傾倒していたとみなされただけで、 だれもが職を追われる、 ということが起こり得る国と時代があった。 冷戦下のアメリカである。 『ジェイルバード』 はそんな時代を生きてきたひとりの、 囚人が刑期を終え釈放される日を起点として、 彼の回想が過去や未来へと交錯し展開していく物語だ。
前半を読んでいると、 この主人公がなぜ逮捕され、 しかしその後釈放された後になぜ巨大資本 RAMJAC に要職を得ることになるのかがなかなか語られないので、 気になって気になって仕方がなくなった。 意地悪な飼い主にちゅ~るをお預けされた猫のように爪で空を掻く気分で読み進めていくと、 絶妙なタイミングで物語が展開する。 その快感は時系列通りに展開する構成の物語では得られないような特別な感覚だった。 時に息を呑み時に声を上げて笑い、 すっかり物語に引き込まれた。
純粋に物語として読んで面白い。 かつて共産主義者だった主人公が、 友人の官僚もそうだったと軽い気持ちで証言して結果的に彼を失脚させるが、 その友人は過去に主人公の恋人を奪って妻にしていた。 閑職に追いやられた末に逮捕され刑期を終えて街に戻った主人公が出会う個性的な人々や過去との邂逅という人間ドラマと共に描かれるのは、 時代の流れや歴史、 思想、 そして経済という実態なく蠢く巨大な怪物の姿だ。
共産主義や労働運動、 実際にあったサッコ・ヴァンゼッティ事件 (アメリカ史上最悪の冤罪事件といわれる) が描かれた末の結論は 「経済は人間にコントロールできるものではない」 ということだろう。 実態のあるようなないような 「経済」 「国」 「思想」 そんなものに翻弄される人間たち。 ヴォネガットはその愚かさを嘆きながらも、 僅かな希望を抱きながらこの物語を書いたのではないか。 デモやストライキで雇用者と対峙したのち犠牲になった庶民たち。 そのことで心に傷を負った雇用者側の人間。 労働運動に身を投じていたために無実の罪で処刑されたサッコとヴァンゼッティ。 その存在は書き残さなければ消えてしまう。 忘れられてしまう。 人間はすぐ忘れてしまう生き物だから、 そのままでは消えてしまう大事なことを次の時代の誰かに届けるために、 ヴォネガットはこの物語を書いたのだろう。 今の時代に当たり前のように国民としての権利や労働者としての権利を享受している私達は、 それを闘って勝ち取ってきた勇敢な人々のことも、 自由のない国で今も当たり前の権利すら得られないでいる人々のことも、 ほんとうにすぐに忘れてしまう。 誰かが時々、 思い出しなさいと声を上げなければならない。
またこの物語では、 主人公が愛した女性たちの姿も印象的だ。 ナチスドイツの強制収容所から生還したユダヤ系ウィーン人のルース。 大恐慌で上流階級の実家が財産を失っても明るく無邪気なセーラ。 高い理想のもとに世界をよくしようとしたメアリー・キャスリーン。 彼女たちの言葉は世界を描く。 愚かな人類の姿を、 本質を描く。 メアリー・キャスリーンが残りの人生を生きた果てに望んだ未来は彼女の思うようにはいかなかったけれど、 その結末には虚しさだけではないものを私は感じた。 というか感じたいだけなのかもしれない。 人類がそれでも少しはよいほうに向かってくれると信じたいだけの希望的観測かもしれない。 けれど、 物語の最後のシーンの明るさが、 私にその想いを強くさせる。
この作品が発表されてから半世紀以上、 人類は相変わらず愚かだ。 グローバリゼーションの蔓延は共産主義とは真逆の形で世界を均質化しつつある。 ロンドンでもパリでもニューヨークでも東京でも釜山でもスタバのフラペチーノを舐めマックのポテトを噛りユニクロのボンレスハムのようなダウンを着た人々があふれかえる世界。 ああつまらない。 地域性を捨て巨大資本に与えられる皆おんなじ価値観を喜んで享受する社会が資本主義によって実現されつつあるのは滑稽な皮肉だ。 けれどいいこともある。 好きなことに関心を持って突き詰めていけば、 たくさんの情報にアクセスできる。 この本を読むにあたってだって、 分からない部分はすぐに検索できた。 サッコ・ヴァンゼッティ事件が実際に起きた事件であることも、 RAMJAC がヴォネガット作品に度々登場する架空の会社であることも、 ロバート・フェンダー博士こと作家キルゴア・トラウトという登場人物がヴォネガット作品の常連でヴォネガットの代弁者であることも、 指先ひとつの操作ですぐに知ることができた。 その気になれば知りたいことをいくらでも調べられる。 マックのハンバーガーではなくキビヤックやらくさややらその土地でしか食べられない料理を知ることも、 ボンレスハムダウンではない民族衣装やインディーズのデザイナー服を買うこともできる。 抗って個であろうと思えば、 いくらでもどこまででも個でいられる世界。 皆おんなじの波に埋もれることなく 「私はここだよ。 こんなふうに生きているよ」 と言っていい世界。 そこにはいい面もわるい面もあり、 この先の人類がどこに行くか分からない (そんなことは今もこの先も誰にも永久に分からない) けれど、 ジェイルバードが出所した先の未来を生きる私達は、 過去を知り過去から学び、 もう少しでも世界がマシであるように、 ひとりひとりが考え行動していけたらと願ってやまない。