杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第35回: It’s All Over Now, Baby Blue

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.02

 九死に一生を得る、などというが六歳の神崎陸にはもとより生きている実感などなかった。そのせいかそれより以前の記憶はない。いわば田辺美樹に身を挺してかばわれたことにより世界に産み落とされたようなものだった。
 赤子の頃からだれとも目を合わさず言葉の発達も遅かった。独自のこだわりを持つ育てにくい子供だった。実の両親の気持ちが離れたことを責めるつもりは陸にはなかった。要するに彼らは「普通」のひとびとだったのだ。愛されなかった彼にとって同い年の美樹は父であり母でもあった。
 事件前は顔すら知らなかったし事件後も親しくはならなかった。教室が違うので関わる機会はなかった。しばらくは廊下で見かけることもあったが卒業式に美樹の姿はなかった。よその街へ移ったのだろうと陸は考えた。そういう生徒は多かった。残って通いつづけるほうがむしろ稀だった。
 大人たちはすべてを事件に結びつけたがった。とりわけ家族は過干渉になった。陸には煩わしいだけだった。高笑いの混じる罵声と乾いた銃声、それに足音が近づいたとき自分に覆い被さった少年だけが気になった。彼の名を知らぬまま成人した。
 他人より高い知能を活かして技術職に就いた。生まれ落ちた瞬間を忘れたことはなかった。抱き締められるあの重みの記憶が自分を世界につなぎ止めていた。
 あの少年もまた自分をずっと気にかけていたことを知ったのは六年前だ。卒業後の足跡をたどって訪れた男はもう少年ではなかったが陸にはひと目でわかった。
 記憶は陸にとって感覚の洪水だ。すべての光景が刺青のように焼きついて拭えない。とりわけ犯人夫婦が自分たちを見下ろし、鼻で笑って立ち去るまでの数秒間はほかのどの瞬間よりも鮮明だった。しかし田辺美樹にとっては遠い過去の一瞬に過ぎないのだろう。正しい相手に再会できたのか確信できぬように見えた。
 無理もない。銃口から庇ってくれたとき彼は陸を見ていなかった。陸を通して犯人の行いを、自らの罪を見つめていた。田辺美樹は殺されたすべての子供たちの代わりに陸を救おうとしたのだ。あの日は多くの子供が殺された。たまたま美樹の目の前に居合わせたとき陸の番が訪れたに過ぎない。
 そう知っていてもなお、この大柄な男は陸にとって父であり母でありつづけた。
 陸は社会にどうしても馴染めなかった。ひとびとは陸の知らぬ旋律のようなものに合わせて相互作用していた。彼らの言葉は辞書の意味とは異なった。背後の旋律が聞きとれなければ理解できない。規則性を見出そうと努めたが叶わなかった。
 情報工学を学んだのは裏切られないからだ。コンピュータと意思疎通するために設計された言語は美しく、その旋律は陸にも確かに感じとれた。ピアニストの指先に鍵盤があるのに似て自在に操れた。
 職能にはそれでも他者との相互作用が求められた。ひとびとの奏でる旋律が聞こえぬためにどの職場でも苛立ちや憎悪を集めた。旋律は聞こえずとも悪感情は体調に影響を及ぼす。解雇を告げられるか自ら辞めるかしかなかった。
 職安や転職エージェントとのあいだにもコンピュータ言語には存在しない旋律が流れていた。口座の金が底をつきガスも水道も止められた。電気が止まればパソコンもスマートフォンも使えなくなる。それが怖ろしかった。ただ餓死を待つよりもこの世に生まれ出た瞬間に立ち戻ろうと考えた。
 本来ならあのとき射殺されていた。大柄な少年の重みを、締めつける両腕を思い出した。布団とロープ、それに粗大ゴミ置き場から拾ってきた自転車で装置を自作した。動作すれば自分をあの瞬間よりも前に引き戻し、この世界から掻き消してくれる。残された身体の滲出液を布団が吸収するはずだった。
 それは意図したように機能しなかった。圧搾する力があまりにも足りない。装置に締めつけられた陸は奇妙な安堵をおぼえた。当初の用途とは異なる改良法を思いついた。取り憑かれたように考えをそらせなくなるのが彼の性質だった。生きて抜け出ることを想定せずに設計したので、もがくことになった。
 もがいていると呼び鈴が鳴った。
 家族にはもう何年も前に見棄てられていた。友人はもちろんいない。鳴るはずのない呼び鈴だった。驚いて悲鳴を上げた。施錠されていない扉がひらき、光が射して外気が流れ込んだ。大柄な男が逆光を背にして立った。神崎陸かと問いかけてきた。
 そうだと答えた。言葉を返せたことに驚いた。他者と会話を成立させられた理由はすぐにわかった。あの少年だったからだ。田辺美樹と男は名乗り、それで陸はあの少年の名を初めて知った。
 陸は田辺家が所有するアパートで暮らすようになった。仕事は美樹が斡旋してくれた。身のまわりの世話を焼いてくれる老女、光丘たえとその孫娘あきらが現れた。ついで美樹の友人たちが集まった。彼らとは会話が成立した。なぜかはわからない。彼らにだけ聞きとれる通奏低音が流れているかのようだった。
 広間には笑い声が絶えなかった。愉快な日々だった。世間のひとびとが愉しんでいたのはこのような生活かと感じた。学生時代を生き直しているかのようだった。
 光丘たえが入院してから仲間たちの気持が離れはじめた。会話も笑い声も聞かれなくなり孫娘は自宅へ帰った。彼らを広間へ呼び戻したのは春から住み込みで働きはじめた若い女性だった。これまでに逢ったことのない不思議な力を持つ人物だった。向こうにこちらの言葉は理解できないようだがこちらは向こうのいうことがわかった。あきらの友人も加わり、光丘たえのいた頃と同じかそれ以上に愉快に暮らせた。
 柳沢美彌子がすべてをぶち壊した。
 美樹が結婚していたことは知っていたし、美彌子がその女だと見当もついた。外の世界から強引に侵入したかに感じられた。共通の旋律を持たぬことで陸をそしり、見下す種類の女だ。薄気味悪い虫でも見るかのような目を向けられた。アパートの外の視線だった。「普通」に属するひとびとの。
 愉しかった日々は終わったのだ。陸は改良を重ねた装置に潜り込み、ヘッドフォンをつけて眼を閉じた。そうして繰り返しあの瞬間に立ち戻った。
 両親に対するのと同様に、美彌子を責める気にはなれなかった。彼女にとっても田辺美樹は父であり母であるのだろう。旋律は聞こえぬが彼女の孤独は感じとれた。肉親を独占したがるのは無理のないことに思えた。なるようになるしかない。美樹が彼女を選ぶのであればなおさらだ。
 あるいは美樹にとっても美彌子はかけがえのない肉親なのかもしれない。陸は自分もまたそのような存在でありたかった。高望みだと自覚してもいた。ただ幸運にもまちがった時間、まちがった場所に居合わせたために特別扱いをされただけなのだ。
 権田原トゥモロウが気がかりだった。彼女はこれまでに出逢っただれよりも、ことによると光丘たえや摩周和己や河元真琴やあきらよりも、田辺美樹の魂によい影響をもたらした。柳沢美彌子とは逆だ。美彌子の旋律に被爆することは美樹に深刻な害を及ぼした。
 正しい選択とは思えなかった。だが陸に口を出す権利はない。この六年間、田辺美樹の弱みにつけ込んで生きてきたからだ。真実を告白する勇気もない。陸の生きづらさを美樹は事件の影響によるものと見なしていた。それは美樹にとって彼自身の罪を意味すると陸は知っていた。
 それは事実ではない。神崎陸は生まれつきこうなのだ。おそらく脳の障害だろう。だがそれを打ち明ければ美樹を喪う。和己を、真琴を、あきらを喪う。住居と職を喪う。アパートでの愉しい暮らしを喪う。人生のように感じられた日々を。
 神崎陸は己の卑劣さを知っていた。だから権田原がアパートを去るときも黙っていた。正面二階の窓から黒のワゴンRが走り去るのを見送った。本当は引っ越しを手伝いたかった。
 田辺美樹に必要なのはあなただと伝えたかった。
 新サービスは自動化を終えて陸の仕事はほとんどなくなっていた。あきらも権田原もアパートを去り、和己と真琴は広間に寄りつかなくなった。美樹と美彌子は部屋にこもりきりだ。ボッチーズが集まるのは取材のときに限られるようになった。
 権田原に調子を狂わされた装置を神崎陸は見下ろした。階下の広間ではまたインタビューをやっている。やけに長時間の取材だ。普段は真琴が美樹の補佐をするようにして受け答えしていた。美樹ひとりに喋らせると都合の悪いことを口走りかねないとの判断だ。きょうは美樹だけが話しているように聞こえる。そういえば真琴も和己も朝から出かけていた。
 美彌子だけが付き添っているのだろう。厭な予感がした。
 アパートの重い扉は外の世界を防げなかった。ボッチーズ自身が招き入れたのだ。力を合わせてそれだけの仕事を成し遂げたことに陸は誇りを感じた。いまやアパートと外に違いはない。これからさらに変貌するのだろう。大勢が出入りし、陸にはわからない旋律が鳴り響く。そこに陸の居場所はない。
 田辺美樹が必要とする家族に、自分はなれなかった。偽りの罪から彼を解放すべきときだ。
 目をつぶって装置を撫でさすり、三十二年前の記憶を思い描いた。生まれる前に死んでいるはずだった。あるべき場所にかえるにはいい頃合いかもしれない。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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