杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第24回: Is Everything Okay In Your World?

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.26

 塞ぎ込む様子がないばかりかむしろ元気そうに見えることに警戒すべきだった。田辺美樹を饒舌にさせるなというヤンパチの教えをのちに明日香は噛み締めることになる。
 音沙汰がないかに見えたのは嵐の前の静けさだったらしい。柳沢美彌子はずっと美樹の精神を蝕みつづけていた。いわば彼はふたつの世界に引き裂かれながら生きていた。過去の世界に引き戻されれば現在の仲間から生活を奪うことを知っていたからだ。だから彼は隠し通すことを選んだ。そうすれば双方の世界を両立させられると信じたかのように。
 美彌子はスーパーの袋を提げてアパートに足繁く出入りするようになった。明日香の利用する近所の生協や少し離れた場所にある激安店ではなく成城石井のレジ袋だった。美樹の部屋からいい争う声が聞こえることもあった。広間のアイランドキッチンを勝手に使われることもあった。あたかも明日香の料理では元夫の健康が保たれないとでもいうかのように。他人の領域を荒らすなと抗議したいところだが、夕飯の支度に重ならぬ時間を選び、使う前より綺麗になるほど完璧に後始末をされては文句のつけようもなかった。
 長身の美人と廊下ですれ違うたびに威圧されドキッとした。明日香はそれなりに愛嬌のある顔立ちだと自負していたが、絶世の美女かと問われれば渋々ながら否と答えざるを得なかったし、どちらかといえば小柄で顔立ちも幼く、致命的なことに化粧が苦手だった。無理に飾れば背伸びした中学生のように見えた。キヨタカ先輩と再会した夜には大工事を施して『タクシードライバー』のジョディ・フォスターさながらの大惨事となった。年齢相応でないのは経済力もしかりで、高校時代のパーカや運動靴をいまだに身につけている。
 それに対して田辺美樹の元妻が身につけているのは、大手出版社勤務だけあって質のよさそうなダークスーツとハイヒール、及び洗練された大人の物腰だった。元夫に負けぬほどの長身でかつ絶世の美女。それだけでもパリコレのモデルやハリウッド女優と互角に渡り合えるし、日本人形さながらの漆黒の長髪をもってすれば彼らを打ち負かすに充分だった。劣等感をおぼえぬほうがおかしい。
 いまだに身につけている、という奇妙さは左手薬指にあった。ヤンパチとマシューの会話を明日香が盗み聞きしたところでは再婚はしていないようだ。以前は指輪などつけていなかったはずだ。何らかの作戦に基づく圧力のつもりと見えた。あきらでさえ疑わしげな目でその指を見つめた。
 鼻持ちならぬ、というのが明日香が柳沢美彌子に抱いた印象であったが、にもかかわらずその美しい長身にはじっと見とれざるを得なかった。何しろ本の頁から抜け出てきたかのごとく小説のヒロインに生き写しなのである。ファンとしては濡れ場を含む作中のあらゆる情景を重ねずにはいられない。自覚せぬままほとんど性的な視線を向けていた。気づかれて嫌悪のまなざしを返された。そのことに倒錯した悦びをおぼえさえした。そういう嗜好を喚起する種類の女だった。
 そうでなくても敵意は感じていた。一度など美彌子が帰ったあと、キッチンのゴミ箱に料理が棄てられているのを発見した。明日香が美樹のために用意し、ラップをかけて冷蔵庫にとっておいたものだ。手をつけられなければどのみち自分で棄てていたとはいえ、他人からあからさまな悪意を向けられるのはコールセンター以来で慄然とした。
 美樹は食事を断るようになった。夕食ばかりか朝食もだ。美彌子が数日分の料理を作り置きしていったからとの理由だ。権田原さんは人数分を考慮して買い物しているはずだよ、飲食店でも直前のキャンセルは迷惑になるっていうじゃないとマシューが朝食の席で抗議した。こういうところが病んだ女たちに愛されるのだろうと明日香は考えた。明日香にしてみればお節介すぎていささか煩わしく感じられた。
 美樹は料理に手をつけずコーヒーを大事そうに啜っていた。キャンセル料は払うと彼はいった。この男にも罪悪感があったのかと錯覚させるような表情をしていた。あきらもそのことに驚いたようでぽかんとして彼を見つめた。出逢う前の美樹に何があったかは彼女も知らないのだ。いいよどうにかするからと明日香は応じた。残った料理を次回に再利用する事実を声高に訴える神経はなかった。
 あの大柄な男が食べないのでは張り合いがない。土日祝日は食事の提供をやめることも検討しはじめた。働くのは嫌いではないし、東京に戻って職探しをするための資金稼ぎに過ぎぬとはいえ、いつまでも年中無休ではいられないのは初めからわかっていた。肝心の就職活動だっていずれ着手せねばならない。しかし平日と変わらぬ時間に食卓に集まる顔ぶれを見ると決心が鈍った。マシューやあきらに昼間のうちから夕食の献立を訊かれることもあった。岬もお代わりをしてくれるようになった。
 自分の仕事が楽しみにされるのは初めての経験だった。どう受け止めてよいかわからず戸惑った。
 明日香は買い出しのついでに書店に立ち寄った。図書館で借りるだけでは飽き足りなくなり、とりわけ気に入った作品だけでも手元に置いておきたくなったのだ。アパートの書庫に田辺美樹の著作はなぜか一冊もなかった。掃除の際に隅々まで探したのでまちがいない。忘れたい過去というのはあながち誇張でもなさそうだと明日香は考えた。
 さすがに新刊ではないので平台にはない。文庫の棚にはまだ著者名の札が挿してあり、図書館で借りて読んだ作品が並んでいた。今月の新刊、と帯のついた文庫があった。もちろん過去の「今月の新刊」である。奥付の発行日は数年前だった。ハードカバー版と違って解説がついていた。田辺美樹のあとがき嫌いは有名で、「空飛ぶ豚」のような意味合いの「ナベミキのあとがき」なるネットジャーゴンまであるとは、この解説を読むまで知らなかった。
 解説には影響を受けたとされる若手作家が列挙されていた。それまで小説を読む習慣のなかった明日香はだれひとり知らなかった。案外人気だったんだな、と思った程度である。あの強面の大男とベストセラー作家のイメージがいまだに結びつかない。口下手な人間が自分だけに語りかけるような、だれも聴いていない深夜放送をたまたま受信したかのような、そんな錯覚を明日香はナベミキの著書に感じていた。
 解説は謎の失踪事件にも触れていた。死亡説も囁かれ、デビュー作『Fの肖像』に登場する無頼派作家さながらに異世界へ消えたとまで噂されたらしい。青葉市のアパートに引き籠もってウェブ制作会社を経営していると知る読者は自分くらいだろう、と明日香はほくそ笑んだ。
 本文に目を走らせた。判型が異なるせいかあたかも初めて読むかのように新鮮に感じられた。文庫化の際に大幅に加筆する作家であることをまだ知らなかった。知っていれば全作品を購入する羽目に陥ったろうし、実際にそうなるのも時間の問題だった。図書館にあるのはハードカバーばかりで文庫は少なかった。明日香は意識を頁から引き剥がすようにして本を棚に戻した。
 隣の本を抜き出そうとしたときに他人の指に触れた。
 明日香と相手の女はあたかも火傷でもしたかのように互いに手を引っ込めた。明日香はもごもごと口のなかで謝罪して足早に売場を離れようとした。知り合いに目撃でもされて、アラサーにもなって空想の世界に耽溺しているなどと噂されてはかなわない。生活圏内で立ち読みをするリスクに遅ればせながら思い至り、明日香は顔が熱くなった。
 あっ、と叫ぶ声が背後に聞こえた。「光丘さんのお母さん先日は……」
 光丘さんのお母さんってだれだよと思い、自分の役名だと気づくのに時間がかかった。振り向くとあきらの担任がお辞儀をした。知り合いといえばこれほど知り合った知り合いもない。視線をそらして他人のふりをするには遅すぎた。また水飲み鳥の玩具のような挨拶ループに陥るのかと危惧したがそうなる前に担任は切り出した。
「あの、少しお時間いただけませんか。お茶でも……」
 土曜というのに子供に目撃されかねない学区内に彼女がいるのは奇妙に感じられた。自分が教員ならそこまで私生活を犠牲にしない。コーヒー一杯四百二十円の喫茶店でわけを訊くと休日出勤したとのことだった。新人で要領が悪くどうしても定時に仕事を終えられないという。指導にも悩んでいたと打ち明けられた。
「光丘さんのお父さんを尊敬します。奥様が羨ましい」
 たったふたつのセンテンスに突っ込みどころを詰め込む才能に明日香は嫉妬した。「あんな男のどこが」
「助言をいただいて気持が楽になりました。指導にもゆとりが生まれた気がします。すぐに成果を出せなくともよいのだと。人生経験が豊富でいらっしゃるんですね」素敵な男性と結婚された奥様が羨ましいと担任はまたいった。若すぎて語彙が少ないのだろう。
「妻なんかじゃない」明日香はつい苦い声を洩らした。
「え」担任は目を丸くして明日香を見つめた。
 保護者を装って校内に侵入したとばれたら大ごとになる。たった一度きりの舞台をしのげればいいと信じて引き受けたのが軽率だった。不仲で別居中だと苦し紛れに弁解した。朗報、とばかりに担任の顔が輝くのを見て明日香はイラッとした。生徒の家庭がうまくいっていないのを喜ぶのかこの教師は。
「でも別れるつもりはないんです」明日香は意地悪く口走った。
 その勢いに担任は狼狽し、そうですよね素敵なご主人ですからと慌てたようにいった。嘘は単純なほうが露呈しにくいと明日香も知っている。複雑な設定を衝動的に追加したのを後悔し、なぜそんな愚かな真似をしたのかと思い悩んだ。
 明日香が黙り込むと担任は唐突に切り出した。「光丘さんのお父さんって田辺美樹さんですよね。前からファンでした。大学の専攻は国語教育で彼が描く子供を卒論の題材にしました。面談のときから気になってたんです。あとで著者近影を見てやはり同一人物だと確信しました。ウィキペディアには本名とありますが筆名だったんですね」
 明日香は巧妙な罠にはまった心境だった。それが本題だったのだ。知らぬ存ぜぬといいはり、なんのことですととぼけてみせた。じゃあなぜナベミキの本を立ち読みしていたんですかと担任に鋭く詰問された。早くも綽名で呼び棄てかよと思いながら明日香は抗弁した。「似てるといわれて気になって。いわれるほど似てませんね。というか逆に妻ならしなくないですか立ち読み」
「わたしが妻ならします。愛する夫の本ですから。新作はもうお書きにならないんですか」
 明日香のつくり笑いがこわばった。明らかに病んだこんな女にあきらを預けて大丈夫なのか。「さあどうでしょう。いまは本業で忙しいので」
「本業」おまえは本当に妻かと呆れるかのように担任は復唱した。
 だから妻じゃないんだよあんなやつと結婚するわけないだろと思いながら、明日香は視界の隅に退路を確認した。インターネットの何かをしているようですと適当に答え、だんだんボロが出てきたと自覚した。妻が夫の職業を知らぬわけがない。驚く担任に「仕事があるので」と弁解して逃げるように伝票をつかみ、ダチョウ倶楽部の譲り合いのようになる前に有無をいわせず支払いをして立ち去った。
 悪夢のようなひとときだった。しかし忘れさせてはもらえなかった。こないだ先生が美樹っちのことをしつこく訊いてきたと夕食時にあきらは話した。「ベストセラー作家だったって本当?」
 ヤンパチは焦ったようにあきらと美樹を交互に窺い見ながら口をぱくぱくと動かした。黙らせたいがあきらに理解できる言葉が見つからぬようだ。マシューは美樹の顔色を不安げに窺った。神崎陸はいつもと変わらず支柱でも入っているかのような硬直した姿勢で黙々と食べつづけた。岬は怪訝そうに彼らを見まわした。美樹は機械的かつ事務的にタッパーの料理を食べながら、そうだと認めた。
「芥川賞獲った?」
「いや。直木のほうだ」
「新作は書かないの。先生が愉しみにしてるって」
 ああ、いちばんいっちゃいけない台詞をという顔をヤンパチとマシューはした。
「いま書いている」と美樹は答えた。
 ヤンパチとマシューは青ざめた顔を見合わせた。
 それが崩壊のはじまりだった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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