杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第23回: In My Life

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.15

 あとで思い返せばひどい話だが、ばたばたしていて明日香は食事を二階へ持っていくのを忘れていた。しかし神崎陸は忘れられたから降りてきたのではないことは明白だった。
 明日香は慌てて立ち上がり料理をよそって彼の前に並べた。あきら、マシュー、ヤンパチがその様子を固唾を呑んで見守った。何事にも動じず関心すら持たぬかに見える美樹までもが注視していた。陸はスイッチを入れた自動人形のように無言で食べはじめた。マシューとヤンパチが顔を見合わせてニヤッと笑い、互いの掌を打ち合わせた。あきらは笑い声を上げて明日香に抱きついた。
 まったく奇妙な男だった。仲間にこれだけ騒がれていながらだれとも視線を交わさない。明日香は自分がどう感じるかよりも田辺美樹の反応が知りたかった。視線が合った。美樹は笑っていた。
 つい前日まで彼が塞ぎ込んでいたのを明日香は唐突に思い出した。あきらのことで頭を悩ませていて気づかなかった。饒舌にさせるなとのヤンパチの警告が脳裏をよぎる。
 いわれてみればあきらの活躍を知った美樹はかつてなく上機嫌で口数も多かった。笑い声さえ上げた。そしていま彼は神崎陸の箸運びにつられるようにして食欲を取り戻している。献立や食材や調理法の工夫ではどうにもならなかったことを彼の仲間は成し遂げたのだ。
 明日香にしても陸のことが嬉しくないわけではない。感謝の気持もある。しかし喜ぶ住民たちのなかで彼女はひとり取り残されていた。マシューにお代わりを笑顔で勧めながら内心は無力感に打ちのめされていた。
 その頃にはアパートの管理業務にも慣れてきて空き時間をつくれるようになっていた。明日香は翌日、携帯の地図アプリで場所や交通手段を調べて図書館へ向かった。自分には無縁の施設だと思っていた。学生時代でさえ一度も訪れたことはなかった。
 幼い子供を連れた若い母親や暇を持て余した老人が目についた。受験勉強をする場所という印象があったがそれらしき学生はいなかった。自分の資料を持ち込んで席を長時間独占するのは禁じられているらしい。雑誌や視聴覚資料のコーナーもあり、思ったより愉しめる場所だと感じた。
 美樹の著書は「た」の棚に並んでいた。手垢と開き癖のついた同じ本が何冊もあった。奥付は十年ほど前だった。当時は予約待ちができるほどのベストセラーだったのだ。上下巻の片方だけがない本も多く、いまだに借りられていることが窺えた。
 いちばん新しそうな本を手にとって立ったまま読みはじめた。借りる前の品定めのつもりだったがやめられなくなった。ハードカバーの重さに腕が痺れてきた。閲覧席に移動した。小説を読むのは『ドラゴン・タトゥーの女』の分厚い原作本に挑んで挫折したとき以来だった。美樹の本はそれよりも大部だったが、決してそうは感じさせなかった。
 むしろそう感じさせてくれたほうが社会生活上は助かった。携帯の振動でわれに返った。時刻にびっくりした。アラームを設定していなければ仕事を忘れるところだった。SFの時間跳躍を経験した心地だ。知らずにカレーを喰わされるほどの過集中もこのような感覚なのだろう。
 二週間で借りられるのは五冊までだと窓口で教わった。しぶしぶ取捨選択した。免許証を提示して利用者証をつくった。納税していてよかったと思った。スーパーに立ち寄って職場に戻った。
 いつもより手を抜いたのがばれないか夕食時には気が気でなかった。とりわけあきらには悟られているような気がしてならなかった。幸いなことに岬が遊びに来ていたので話題が及ぶことはなかった。事件以来ふたりの友情はさらに深まったようだ。
 明日香は食べながら小説のつづきが気になった。陥れられ命を狙われた恋人たちはどうなるのだろう。思わせぶりなあの台詞は何を意味するのだろう。ふと気づくと食卓の全員が、つまり神崎陸を除いてという意味だが、明日香を注視していた。だれかに話題を振られたらしい。
「ごめん、聞いてなかった」
「ちょっとしっかりしてよ」あきらが眉をひそめた。「このアパートで唯一まともな大人なんだから。最近なんだか変だよ」
「疲れてるんじゃないかな。うちへ来てからずっと働きづめだから。たまには休みなよ。明日香さんが来てくれるまでは家事を交代でやっていたんだよ。たまにはそのくらい、ぼくたちにもやれるよ」
 マシューの気遣いが後ろめたさに追い打ちをかけた。明日香は母親とは異なり、地に足のついた現実的な人間だと自負していた。よもやこの歳で虚構にうつつを抜かし、仕事をおろそかにするとは思わなかった。ほんの腰掛けとはいえ職場でせっかく築き上げた信頼を損ないたくない。ほどほどにせねばと思いつつも読書をやめられなかった。強力な呪いでもかけられたかのようだ。
 睡眠時間は激減した。そうなるとわかっていながら寝る前にちょっと、と手を伸ばして気づけば明け方になる日々。借りてきた本はすぐに読み終えた。図書館に通いはじめた。棚にない本は検索すれば書庫から出してもらえたり予約したり他館から取り寄せたりできることを知った。雑誌に掲載された無名時代のコラムや、単行本未収録の短編さえ見つけることができた。
 まるで麻薬中毒だ。図書館に通うところを他人に見られたくないと明日香は思った。
 田辺美樹の著書では決まって子供が無残に殺された。ダークファンタジー『水晶の卵』は性的虐待の悪夢に苦しむ子供を救おうとして果たせない話だった。『約束の報酬』では虐待された子供が加害者らに復讐するために大勢を巻き添えにし、『凍った月』では宗教に洗脳された父親たちが互いの子供を殺した。歴史ミステリ『渦になる』では麻薬で人生を狂わされた子供たちのその後が描かれた。
 どうしてそんな陰惨な話ばかり書くのだろう。なまじ著者本人を知っているだけに検索してウィキペディアの記事を読む気にはなれない。周囲をこそこそと嗅ぎまわるストーカーにでもなった気がする。本人に直接、尋ねてみたいが勇気が出ない。創作の秘訣を親切に教えてもらえるとも思えない。
 明日香は気になって悶々とした。
 私小説でもないのだから実生活が反映されているとはかぎらない。所詮はフィクションだとわかっていながら明日香は、元妻との経験を下敷きにしたのではと疑わせる描写に悩まされた。十代の頃から愛し合い、だれよりも理解し合っていながら、それがゆえにかえって傷つけ合う男女がしばしば登場した。
 幸いにも男のほうは概ねまともな人物に描かれていたから美樹を重ねることはなかった。さもなくば物語に没入できなかったろう。問題は女のほうで、どのヒロインも敵役のどの悪女も、美人は必ず背が高く、腰まである黒髪と切れ長の目を持っていた。だれがどの本のだれやらわからなくなる。言動も同性としてぴんと来ないものばかりで共感のしようがなかった。
 このあたりは作家の能力的な限界なのかもしれないと明日香は考えた。それでいて物語には夢中にさせられるのだから、人間に対する理解と語りの技量は別物なのだろう。わずか数週間前の明日香なら文学なるものに対していかなる見解も持ち得なかった。それがこんなことまで考えさせられてしまうとは。田辺美樹の著書には明日香にとって、天地を逆転させるほどの影響力があった。
 通販大手でも扱っていない初期の希少本が隣区の図書館にあった。検索端末で閉架に在庫ありと表示されたときは飛び上がるほど嬉しかった。電車とバスを乗り継いでさらに歩かねばならない。最寄りの図書館まで取り寄せてもらうこともできたが数日待たされる。借りた本はすべて読み終えてしまった。
 ヤンパチが営業で近くへ行くというので車に乗せてもらった。数少ないよそ行きの服を身につけているのをじろじろと見られた。割烹着とがま口はどうしたとは訊かれなかった。車は近所の駐車場に停めてあった。黒のワゴンRだった。帆布の買い物袋に詰め込まれた本にヤンパチが気づいた。
「あいつの本を読んでいるのか」
 ええまあと明日香は言葉を濁した。
「本人には気づかれるなよ。あいつにとっちゃ柳沢との終わった過去だ」
「どういうこと」
「あの女はあいつを担当するために大手出版社に就職したんだよ。希望どおり配属されるのに何をしたかわからない。なりふり構わず汚い手を使ったようだ。いずれ美樹だけのために独立してエージェント業をはじめるつもりだったらしい。あの頃の美樹はひどいもんだったよ。友人として見ていられなかった。あいつをそんな風にした柳沢がいまだに許せない。食卓に携帯を持ち込むようになったのに気づいたか。やめさせたいんだが口を出せない。別れたとはいえ夫婦だからな」
 明日香は運転するヤンパチの横顔を見つめた。以前の美樹を知らぬので何も疑問に感じなかった。しかしいわれてみれば彼のような男が他人からの連絡を気にするのは不自然だ。あれからずっと元妻と連絡を取り合っていたのだと知った。
 おれはあいつの最初の読者なんだよとヤンパチは打ち明けた。「大学ノートに筆圧の強い字でびっしりと書かれていた。改行や段落を知らなかったんだな。マシューが読みたがるまではおれが世界でただひとりの読者だった。マシューはそれまで小説なんかに関心はなかったんだよ。いまじゃいっぱしの読書家だがね。それから柳沢が現れて、ノートを横取りされてそれっきりさ。いわゆるクリフハンガーの場面でね。つづきを読めないのは拷問だった。それが数年後には出版され処女作になった」
「『Fの肖像』ね」
 ヤンパチはそうだと肯き、売れてもあいつは変わらなかったといった。懐かしげにも、なぜか哀しい夢でも見ているような顔にも見えた。それでいて普段どおりの醒めた顔でもあった。いまや作家の熱心な読者となった明日香にはどの逸話も興味深く、かつ疎外された気分にもなった。何にせよ自分はそこにいなかったのだ。
「あのひとのこと本当によく理解してるのね」
「そりゃつきあいが長いからな」
「ね、実は好きなんじゃないの」
 ヤンパチはバックミラー越しに蔑むような目つきをくれた。「男同士の友情が同性愛的だという意味においてはな。あんたは女だから当然マシューと寝たいだろ」
「冗談でしょ。友だちとしては好きだけど」
「そういうことだ。ゲイとしてはあいつはごめんだ」
 洞察力の鋭いヤンパチのことだ。美樹の名を挙げられていたら動揺を見破られていた。マシューでよかったと明日香は思った。
 迎えに来ようかといわれたが帰りはバスと電車を乗り継ぐからと断った。読みたかった本を手にした顔を見られたくない。貸出窓口で希少本を手渡されたときは飛び跳ねて叫びたい衝動をこらえた。二番目のお目当ては単行本未収録の短編だった。埃臭い雑誌のバックナンバーを書庫から出してもらった。あいにく禁帯出だった。短編というより中編に近い長さで、読みふけるうちに遅くなった。買い物袋に入れた本をしっかりと胸に抱き締めて図書館を出た。
 改札を出たところでキヨタカ先輩とばったり出くわした。
「こんなところで出逢うなんて。同じ電車に乗ってたのかな。あれからどうしてた? 既読がついても返事をくれないし。ねぇ、あの、もしよければ……」
「なんて返事したらいいかわからなくて。……あ、こないだは話せて嬉しかったです」明日香は夕飯の支度が遅れていて気が急いていた。夕方の特売に間に合わない。先輩は何か話したそうだったが、じゃあまた、と強引に遮ってスーパーへ向かった。
 片手に戦利品で膨らんだレジ袋、もう片方の手に大切な本を抱えて歩きながらふと気づいた。もしかして絶好の機会を逃したのかもしれない。まぁいいかと思った。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
ぼっちの帝国