杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第26回: I’m Looking Through You

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.05

 公開を間近に控えて男たちは『ぼっちの帝国』の追い込みに入った。マシューもヤンパチも子供たちとゲームで遊ぶ余裕はないようだった。ヤンパチはおろか食いしん坊のマシューですら口数が減り、お代わりもせずに食事を終えるとマグカップを手にそそくさと自室へ引き上げた。
 田辺美樹に至っては食事を利用すると宣言しておきながら朝も夜も広間に姿を見せない。そのことに明日香は腹を立てたが、おかげで図らずも部屋に侵入する好機が到来した。彼がまたしても過集中に陥ったのである。目の焦点が定まらぬ彼とランドリー室や廊下ですれ違うことが増えた。呼びかけても気づかない。目の前で鼻に親指を当てて両手をひらひらさせてみせても視界に入らぬ様子だ。
 ああなるともう話しかけても無駄だよとマシューがいい、ほっとけよとヤンパチもいった。むしろ明日香には好都合だった。田辺美樹そのひとには用がない。妨げにしかならぬ。彼の書くものに興味があるのだ。
 仲間がばたばたしていても神崎陸だけは流儀を貫いた。夕食後も食卓に留まってゆっくりとコーヒーを飲んだ。つくづく奇妙な男だと明日香は思った。子供たちとの会話には加わらぬものの、彼がいるだけでも団欒はそれなりに成立した。ボッチーズの空気をひとりで醸し出している。いわば彼を通じてマシューやヤンパチ、田辺美樹の存在を感じられた。
 そもそも陸が食卓に加わるようになってから一度として彼が言葉を発するのを聞いたことがない。マシューとヤンパチによれば必要に応じて話すこともあるというが明日香には信じられなかった。
 あきらと岬は学校の話をした。明日香の知らない教師や同級生の噂話だ。食後に食卓で宿題をやることもあった。ふたりに手助けを求められても明日香には何ひとつ答えられなかった。マシューやヤンパチなら教えてくれるのに、とあきらに文句をいわれた。勉強ができればこんな生活はしていない。もっとましな就職をしてましな人生を歩んでいた。
 明日香がマシューやヤンパチに代わって岬を市営住宅まで送り届けた。アパートへ引き返す途中、あきらは親友が隣町へ引っ越すかもしれないと語った。母親が工場の仕事を見つけたらしい。男とも別れて夜の仕事は辞める。前よりも岬のことを構ってくれるようになったという。
 明日香はその話をどれだけ信じられるだろうと考えた。男に棄てられたから関心を娘に移しただけではないか。自分の母親にもそんなところがあった。こと恋愛が絡むと女のいい分は信用できない。この国では男との関係で人生が左右されるからだ。
 かくいう明日香はキヨタカ先輩と順調にデートを重ねていた。週末の夜、帰宅後にほろ酔い気分で二階の浴室へと向かった。あの骨董品を一度使ってみたかったのだ。座って用を足しながら、そうであったかもしれない高校時代をあれこれと夢想していると上半身裸の美樹が入ってきた。焦点が定まらぬ例の目つきだ。
 施錠を忘れていたのに明日香は遅ればせながら気づいた。
 美樹は肩にタオルを掛けていた。ほかにだれもいないかのように床に靴とジーンズを脱ぎ棄てた。タオルをタオル掛けにひっかけ、浴槽のカーテンを引いてシャワーを浴びた。カーテンがひらいて美樹が濡れた体をタオルで拭い、ジーンズを穿き、靴をつかんで出ていくまで、身の危険を感じて仮死状態になった狸もかくやとばかりに明日香は身動きできなかった。
 明日香は後日、鎌をかけるような質問を何度もしてみた。埒が明かぬのでついには恥を忍んで直球で問い詰めた。美樹は何も憶えていなかった。気づかなかったすまないと些細なことであるかのように謝られた。演技とは思えなかった。気まずいのは明日香だけだった。
 美樹のそうした過集中をヤンパチは「あっち側へ行っている」と表現した。いつか行ったまま戻らぬ日が来そうで心配だとも語った。あながち冗談でもないように明日香には思えた。
 そこまで周囲が見えなくなるのならばと明日香は一計を案じた。かといってマシューやヤンパチに気取られたくない。何よりあきらに誤解されたくない。彼らのいない時間帯を狙った。
 マシューとヤンパチが朝食を終えて自室へ引き上げた。つづいて神崎陸も二階へ戻る。登校するあきらを見送ったあと料理を盆に載せて美樹の部屋を訪ねた。扉を叩いても返事がない。キーを叩くコトコトという音が響くだけだ。把手を試すと施錠されていなかった。無断侵入ではないし口実もあると自分に弁解した。呼びかけながら部屋に入った。
 男たちの部屋はいずれも癪に障るほど整頓されていたが美樹も例外ではなかった。ベッドと仕事机しかなかった。まるで独房だと明日香は思った。ヤンパチの部屋も似たようなものだったが、なぜか美樹の部屋ほど寒々しい印象は感じなかった。上げ下げ窓にはブラインドが降りていて朝の陽光を締め出していた。ガラスとアルミニウムの巨大な画面のほうがむしろ外界への窓に見えた。
 明日香はアーロンチェアに座る美樹の背後から画面を盗み見ようとした。大きな背もたれと広い背中が邪魔だった。盆をベッドに置いて再び美樹の背後に立ち、発散される体温を感じるほど近づいた。
 明日香は落胆した。画面には呪文のようなコードが表示されていた。美樹は新作に取りかかったと公言したし、柳沢美彌子が進捗を管理しているのもわかっている。しかし読書の習慣を得たおかげで明日香の仕事は滞留し山積していた。掃除も洗濯も収支の計算もせねばならぬ。買い物や炊事だってある。一日中こうして背後に張りついてはいられない。
 そうとわかっていながら明日香は彼の背中から離れられなかった。家を出て行く前の父をなぜか思い出した。幼い明日香は父に構ってもらおうと懸命につきまとい、広い背中に抱きついた。
「何か用か」
 美樹が声を発したので明日香は飛びのいた。「朝食を……」
「そこへ置いといてくれ。コーヒーを魔法瓶でもらえると助かる」
 こんなの反則だ。ずるい。てっきり透明人間にでもなったつもりでいた。いつから気づかれていたのだろう。明日香はコーヒーの代金として千五百円を徴収し部屋から逃げ去った。顔が燃えるように熱かった。おかげで掃除のことを切り出し損ねたが、どのみち一日のほとんどを部屋で過ごされては掃除をする暇もない。マシューもヤンパチも最近では掃除を断るようになっていた。
 新作を盗み読む野望は果たせなかったが、キヨタカ先輩との交際は着実に進展していた。緊張せずに目を見て話せるようになり、人前で手をつなぐにも寄り添うにも抵抗がなくなった。かつて遠くから背中を見るしかなかった相手が、いまでは明日香の話に耳を傾けている。話題に関心があるというよりも、夢中で話す彼女を微笑ましく見つめる態度だった。
 田辺美樹と違ってキヨタカ先輩は目の前の女をちゃんと見てくれる。明日香はあたかも自分に特別な価値でもあるかのような錯覚をおぼえた。
 ときにはキヨタカ先輩が話すこともあった。彼はかつての明日香のように実用書以外の本は読まぬようだった。映画の感想は月並みで宣伝文句の引用さながらだった。会社の話をしてくれることもあったが、世界が異なりすぎて明日香には興味が持てなかった。
 美術の話題は出なかった。いつ描くのをやめたのか、訊けば教えてくれたかもしれないが明日香にその気はなかった。心情を慮ったのではない。単純に関心がなかった。
 母にせよボッチーズにせよ、わかりにくい独自の価値観に明日香はうんざりしていた。キヨタカ先輩の凡庸さはまっとうな大人の証に思われた。何より地元の中堅企業に勤めて堅実な収入があるところがよかった。これまでに付き合った男は年収三百万以下の非正規雇用ばかりだった。最後の男などバイトさえ碌に長続きせぬ学生だった。そこが可愛く思えたのだから病んでいたものだ。
 ちゃんとした大人の男性との交際を通じて、年齢相応の大人になろうと明日香は決意した。これまでの自分とは変わるのだ。職と男と住居を喪ってシェアハウスに転がり込むような人生とはさよならだ。
 話しながらも美樹の鍛えられた肉体が目の前にちらついた。明日香自身が関心のある話題ならまだいい。先輩が話しはじめるとつい上の空になった。気づかれた。何か悩みでもあるのかと訊かれた。
 疲れてるのかもと笑った。アパートの管理業務について話した。住民のことは伏せるつもりだったのに業務を説明する都合上どうしても語らねばならなくなった。変人ばかりである旨を説明した。とりわけ田辺美樹なる男がいかに偏屈であるか、愚痴はいけないと思いつつも次から次へと溢れ出た。
 キヨタカ先輩の目つきが急速に醒めていくのにふと気づいた。彼が頼んだ六百八十円のコーヒーも手をつけられぬまますっかり冷めていた。彼の肩越しに喫茶店の時計が視界に入った。
 明日香は美樹の変人ぶりをかれこれ二時間近くも熱く語っていた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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