目に映らない愚か者

連載第6回: おわりに

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.30Mon

おわりに

機械が次の英語の文章 《 Out of sight, out of mind 》をロシア語にしました[ ⋯ ] 点検のためにこのロシア語訳を再び機械に放り込むと逆に英語訳が出てくるのですがそれは《 Invisible Idiot 》白痴の透明人間というものでしたロンブ・カトーわたしの外国語学習法

たちは自由で快適に見えないでもない現在のアカデミズムに対する懐疑から出発したデリダとド・マンの読解によって示された認識はしかし彼らの脱構築がそれなりに刺激的な試みのひとつとして学問の内部に取りこまれたことがまったく自然かつ当然であることを示しているそれほどまでに彼らの脱構築はひとが学問と呼ぶ営為とは相性が悪い同じテクストをおおむね同じように読み曖昧に互いの違いを認めあう研究者たちの共同体に対してデリダはむしろその共同体を抜け出すようなその度ごとに一人きりでしかない単独的な愛読者にむけて書いているロラン・バルトはどこかでテクストを読む者はその者にしか聞こえない音を聞きつけてひょいとあらぬ方向をむく鳥のようだと語ったことがあるが単なる気の迷いでしかないという可能性とともにどこかものに憑かれたような読者をデリダは待ち望んでいる私たちにとって励ましになるのはいわゆる大学の研究者であるかどうかはそんなどこか気の触れたようなデリダの愛読者であるかどうかとは関係がないということでありその意味でデリダは普遍的な存在であるほとんど常軌を逸したデリダの多作振りはこの意味では両義的で彼の脱構築に感染するための経路が多いともいえるが危険が少なくより毒を抜かれたものばかりに読者が集中することにもなるだろうその点でよりアカデミズム内部で流通しやすい形として一応は論文らしいスタイルを維持しデリダよりもはるかに寡作だったのがド・マンであるとはいえならばド・マンを読むことのできる人間が多いのかと言えばそれはまったく疑わしい私たちが見たばかりのド・マンの誤訳に気づきもしない人々は大方ド・マンどころか彼が扱う詩人や作家すら読んでいないのだろうがそれを読んだ私たちとてもたらされた洞察が洞察というにはあまりも断片的なものなのでそれに学問的な価値があると強弁する気にはなれない

 したがって言葉の狭い意味における脱構築ほぼ批評の同義語と言ってよいすなわち学問や研究とよく似てはいるしそのなかから生まれることも大いにありうるがそれでも学問や研究を支えている規律権力が課す規格化を外れた異物である批評家と呼ばれるに足る彼ないし彼女は今日実に愚かしくも見えるだろうし実際に愚かなだけかもしれないがいずれにせよそんな人間は真っ当な大学教員にとって悩みの種だろうデリダの影響のためかやたらと細かいところにこだわってデヴィッド・ハーヴェイを困らせた学生たちのグループをここで思い出そう当初はそんな学生たちの背後のデリダを愚か者に違いないと確信していたハーヴェイだが彼はこうも述べている。 「この体験を後に振り返って私は第一章を櫛で梳くようにして読むだけでもマルクスの言語──彼が言っていることそれを言う彼の言い方そしてまた彼が自明と受け取っていること──に慎重に注意を払うことが肝要だということをこのグループが私に教えてくれたのだと悟った1 この学生たちはおそらく脱構築など理解してはおらず機械的にデリダやド・マン風の精読を真似ていただけだろうがにも関わらず彼らこそ時間がかかったとはいえハーヴェイに脱構築の正しさを納得させたとは言えないだろうか一見教育の失敗でしかない時間がむしろ最も価値ある教育であったとすれば──デリダとハーヴェイ当人同士のあいだでならば起こり損ねたはずの出会いが両者をつなぐ多かれ少なかれ愚かしい学生たちによって可能になったとすればそれを希望と呼んでもいいのではないだろうか脱構築としての批評はそんな愚か者たちを介して今もどこかで人目に触れずに潜在し長い時間をかけて誰かを教育しているのかもしれない流行病のように訪れては過ぎ去った脱構築は今も誰かのなかに潜伏しているのかもしれない日々薄れていくデリダやド・マンの記憶とは裏腹にいつか彼らとは違う脱構築が目覚めるのかもしれない

注釈

  1. David Harvey, A Companion to Marx’s Capital, 4.

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。