目に映らない愚か者

連載第5回: 隠し立てするポール・ド・マン

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.29Sun

隠し立てするポール・ド・マン

ここで取りあげるド・マンの論文美的形式化──クライストの人形芝居について」」 クライストが残した短編小説のようでも自伝的エッセイのようでもある奇妙なテクストについて書かれている一八〇一年の冬に偶然名高い舞踏家 C 氏に会い言葉を交わしたと語る果たして仮構された語り手なのかクライストその人なのかは定かではない以下で用いる種村季弘訳チリの地震 クライスト短編集はこれをフィクションと見なしているようだが英訳 Selected Writings の訳者・編者デヴィッド・コンスタンティンはこれを essay に分類しているこの分類上の乱れはド・マンが取りあげることになる不分明さの帰結でもあるすなわちある断片的な言葉をそれを発した者の実存を反映したものとして解読することの当否や可能性に関する揺らぎである。 「人形芝居について他者にどう見られているのかという自意識のために人は所作事の自然な美しさを失うのであり生命のない人形の舞踏こそが美しいという C 氏の逆説的な主張の正しさをが納得するまでの過程を描いているそれはどことなく数学の証明のようでもあり純粋に論理的な証明とは違う知的権威を背景にした教育のようでもあるそしてそれ故にこのテクストをどのように読むのであれその読解の内容はその読解の正しさを他者に対しどのように示すかという形式に関する問いを暗に提起することになりデリダやド・マンにとって実に興味深いものとなる

 しかし私たちはここでド・マンの議論を丁寧にたどりなおすことはしない紙幅の余裕がないからでもありいわゆる先行研究がすでにその作業を行っている1からでもあるが本質的な理由は別にあるつまりド・マンの教えの正しさを真正面から検証するためにはむしろ底意地の悪い査読者のようにド・マンを読み彼のテクストのあちらこちらを寸断してそれぞれの断片に注視せねばならないからだそのような読解を不当だと退けることはできないド・マンのクライスト論が最終的に提示するのは、 「文字の力によって言語の分裂dismemberment of languageと舞踏の典雅さとを混同する2ことの必然性であるこの結論は論理的に展開され不可逆的な順序に従っているかに見える論述ですら実は至るところで寸断されうるし潜在的には常に寸断されているということを含意するこれこそ脱構築がもたらす洞察のうちで最も危険なものであるだからこそド・マンは論文の最後の段落で初めてこの洞察を書きつけているその洞察の正しさを確信してしまえばそれ以降何を書こうとも波打ち際の砂に指先を走らせるようにひとつの言葉がそれ以外の言葉とつながり文脈を形成する以前にかき消されおよそ言葉と言葉をつなぎ合わせる文脈を書き手自身が意識できなくなる個別性と一般性部分と全体とのあいだの媒介が不可能であることの認識はその認識を示すテクスト自体にも影響を及ぼすこのクライスト論を以って終わるロマン主義のレトリックの序文でド・マン自身言うようにある種の書き手たちが好んで断片的な断章の併置というスタイルを採用するのも言わんとする内容とそれを言うための形式とのあいだの不一致をそれなりに補償するためであり、 「おそらく絶えず無に帰することによる苦渋に比べれば安い代価3だろう

 こうしたことを自覚しつつそれでもこのド・マンによるクライスト論をここで取りあげるのはいかにも怪しげでいかがわしい箇所というか端的に間違いを含むためであるこの間違いはデリダのルソー論に関して指摘した作業仮説としての間違った前提とはまるで別物である虚構のようにも自伝のようにも読める人形芝居についてに対してド・マンはいくつかの読み方を試しては放棄するその際に仄めかされるド・マンの読解は説得力があると同時に信じがたいテクストにクライストの秘めた思いのようなものを読むべきでないと主張しつつ悪い冗談に耽るかのようにド・マンは続けるカフカKafkaやキルケゴールKierkegaardのように婚約を解消したクライストKleistに何があったのか一八〇一年という妙に具体的な年号は後続する事柄に照らして何ら必然的ではないがそれは作者クライストの人生において確かに不吉な年だったカントKant哲学に衝撃を受け芸術的・学問的な理想と私生活での幸福のうち前者のため後者を犠牲にせねばならないのかとこの年に悩み始めたクライストは言わばカントの後継者になるべく婚約を解消するところが後にそんなクライストに代わり文字通りカントの後任となった教授クルーグKrugクライストが結婚を諦めたまさにその女性の夫となりその時期に書かれた戯曲はこわれがめDer zerbrochene Krug)」 と題された。 「K という文字がきわめて多く出てくるカントクライストクルーグキルケゴールカフカK など話はどのように解釈しようともいかがわしい話にならざるをえない4なぜその教授の固有名がクルーグでなければならずなぜその戯曲ではかめKrugが壊されねばならなかったのかそれは本当に偶然なのか? このいかがわしさに私たちの読解は介入する

  K が氾濫する物語に言及するにあたりド・マンはクライストを誤訳しているそしてこの誤訳はあからさまでド・マンのこの論文を読む者がそれに気づかないのは彼らがクライストなど読みもしないからだろう5①種村季弘による邦訳②クライストによる独語原文③ド・マンによる英訳を以下に併置する

  1. この話ほんとうと思われますか?

     思いますとも!」、 パチパチ手を叩きながら私は叫んだ、 「知らない人から聞いたとしても信じますましてあなたから聞く話ですもの!

  2. Glauben Sie diese Geschichte?

     Vollkommen!rief ich, mit freudigem Beifall;jedwedem Fremden, so wahrscheinlich ist sie: um wie viel mehr Ihnen!

  3. Do you believe this story?

     Absolutely, replies K, with enthusiastic approval. Even coming from a stranger, so plausible it is: and how much more coming from you!6

 引用箇所以外でも対話する二人の登場人が C と K であるかの如くド・マンは何度も K と書くが舞踏家 C と語り合うのはあくまでも匿名のであるましてド・マンは人形芝居については三分割できて、 「物語物語が話す7と正確に要約してもいるので語り手ich / I)」 ド・マンによる一種の間接話法では三人称er / he)」 ですらなく何故 K なのかは説明できない説明できるとすればクライストに加えてカフカにキルケゴールにと頭文字 K の人物ばかりが出てくる不気味な話を導入して二重の意味でクライストを打ちのめしたどこかの大学教授クルーグでオチをつけるに当たりどうしても人形芝居についてのテクストの中に K という人物が必要だったからということになるもちろん頭文字が同じであることなどカフカやキルケゴールやクライストのあいだの共通点として最も無意味なもののうちのひとつだろうしかし憧れる有名人と同じ誕生日であることをそれなりに喜ばしく思ったりするように偶然による戯れは決して無意味ではない意味を生ぜしめるものがその根源においてまったく無意味な文字や数字の戯れでしかないことを示すのがド・マンの目的なのだがこの小説をクライストの自伝として読んでも無駄だと言い別の水準の結論に至るド・マンが結論の正当化のため具体例を捏造したのだとするとその結論を疑ってみる必要もあるだろう翻訳者の奇妙な間違いを足がかりとした議論はド・マン自身行っていて8彼の死後デリダがド・マンは若き日の許しがたい過ちを深く悔いていたのではと仄めかす時の間接証拠もド・マンによる誤訳だった9なぜ K かという追求もド・マン的読みの再試行として許されるだろう

 一九七五-七六年にイェール大で日本文学を教えていた際にド・マンとも親交を結んだ柄谷行人Kojin Karatani死後発掘されたド・マンの反ユダヤ主義的な記事によるスキャンダルについて自分はド・マンを夏目漱石こゝろ』 (英訳タイトル Kokoro先生のように感じていたと幾度か述べた10。 「先生が誰にも語らず考え続けた存在の頭文字は、 『こゝろの断片、 「先生の手紙を教科書で読んだことしかない者でも知っているしド・マンの学識を考えれば彼が漱石を読むはずがないとは言い難いがしかし仮に未読だとしたら尚更、 「運命の一語が浮かび、 「どのように解釈しようともいかがわしい話にならざるをえない」。 これは文字の力による分裂や断片化がそれでもなおある種の意味を持たざるをえないという洞察のための新たな例証だがこの例証自体が断片なのでこれを結論だと思うことこそ不可避の罠である11。 「この話ほんとうと思われますか?ド・マンをド・マンに従って読み読み方を学ぶことは、 「読みえないという否定的洞察すら学的認識とは言い難いものに断片化する事態を招く何もかも思いこみに見えるという結論を思いこみを排して示すことは可能だろうか? 自分の思いこみを読みこんだり書いたりしてはいけないと諭す大学教員やいつか同じ言葉を繰り返したいと願う学生たちにとってド・マンの教えは危険すぎる。 (つづく

最終回はあす 1 月 30 日ですお楽しみに!

注釈

  1. 竹峰義和熊の教え──ポール・ド・マンのクライスト読解をめぐって──」 (『思想第 1071 号岩波書店2013 年), 150-67 頁
  2. ド・マンRR372-73 頁
  3. ド・マンRR4 頁
  4. ド・マンRR366 頁
  5. 嫌味の漂う実に彼らしい風情で蓮実重彦は自身のゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察のあとがきでこう書いている。 「いかなるゴダール マネ フーコーもいかなるストローブ=ユイレ セザンヌ マラルメもこれ以前に書かれなかったのは誰もがマネやセザンヌを知っているこの時代にゴダールを見る者はフーコーを読まずフーコーを読む者はゴダールを見ずストローブ=ユイレを見る者はマラルメを読まずマラルメを読む者はストローブ=ユイレを見ないからなのだろうか。」 (同書 265 頁
  6. ①ハインリヒ・フォン・クライストチリの地震 クライスト短編集』 (種村季弘訳河出文庫2011: 217-31

    ② Heinrich von Kleist,Uber das Marionettentheater,Erz ä hlungen; Anekdoten; Gedichte; Schriften. 1. Aufl. (Frankfurt am Main: Deutscher Klassiker Verlag, 1990: 563)

    ③ Paul de Man, Rhetoric of Romanticism. (Columbia UP, New York; 1984: 275)

    各引用を下線で強調した

  7. ド・マンRR347 頁
  8. ド・マンRT162-72 頁
  9. デリダパピエ・マシン 物質と記憶』, 210-15 頁
  10. たとえば闘争のエチカ』 (蓮實重彦・柄谷行人河出文庫1994), 202-14 頁
  11. キーツに関して同様に結論自体の無限退行ないし理論的抽象性の不可能性に触れた箇所も参照。 (ド・マンRT47-49 頁

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。