目に映らない愚か者

連載第4回: 一匹狼たち

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.28Sat

一匹狼たち

グラモフォンにおけるデリダの戦略の過激さは柄谷行人のそれと比較すると分かりやすくなるある時期以降の柄谷は全体のなかの一部や多数のなかの個物とは区別される単独性あるいは 「『このthis-ness)」 に注目した

単独性はあとでいうようにたんに一つしかないということではない単独性は特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対してもはや一般性に所属しようのない個体性である〔⋯〕むろんそれは、 「この私が取り替えできないほど特殊であることを少しも意味しない。 「この私この犬ありふれた何の特性もないものであってもなお単独的singularなのである1

 ジョイスを読みユリシーズについての講演の構想をまとめていたときにデリダが遭遇したあれこれの些事を形容するなら柄谷の言うこの単独性が最も適切だろうしかしここに陥穽がある柄谷自身を交えたある座談会で大澤真幸は実際に学生に柄谷の著作を読ませた際の経験から、 「単独性と対になる柄谷の鍵語普遍性に触れている

学生に隠喩としての建築を読ませたときに彼らが一番つまずいたのはその普遍性に関する議論です普遍性と一般性共同主観性とが違うということが強調されておりその違いは単独性と特殊性の違いと並行している特殊性と区別された単独性に関しては、 「というものを──たとえば学生であるとか日本人であるといった具合に──特殊化して説明されたときに、 「ちょっと違うよな」 「それでこの私は尽きないよなという実感に訴えるところがあってまだ理解させることができるしかし柄谷さんの議論はさらに単独性が普遍性に直結していくという論理になっていてそこでつまずく2

 柄谷の言う単独性はどうしても彼の読者一人一人が、 「確かにこの私はこの私だ私の特徴・属性をいくら数えあげてもこの私を説明し尽くすことにはならないとでもいった実感とともに理解されるだがそれは自らの生の一回性や実存をやや散文的に言い換えたものにすぎないそのように理解する学生は、 「この私が何かしら代替不能で固有の価値を有したものではないという柄谷の明確な断言を忘れ結果として彼の言う単独性を誤解するそしてだからこそその実感に支えられた理解では単独性が何故普遍性に直結するのかが理解できない正確には柄谷の普遍性文字通りあらゆる人間にあてはまるというという意味ではなく誰にあてはまったところでおかしくないという意味で普遍的なのだそれは宝くじに当たることとその当選者の特徴とのあいだに何ら有意味なつながりがないのと同様その個人の特質による限定から自由であるがゆえに普遍的でありそして実際に宝くじを買った人々のうちで大金を手にするのが極少数であるという点でそれは実に単独的な事態でもある

 この意味で柄谷の単独性/普遍性は決してわかりやすいわけではないのだがそのわかり難さを隠蔽する散文的な換言をさらに徹底するとデリダのように何故そんなことをあえて言葉にするのかわからない些末な体験の列挙になる要約的叙述と模倣的描写あるいは英米文学研究で常套の語る/見せるtell / show)」 という区別で言えば、 「この私を柄谷は語りデリダは見せる柄谷の文章の分かりやすさの印象デリダがあえて実演し描写する裸の単独性最低限とはいえ概念の一般性に依拠して説明したことによる啓蒙の光あるいは真理とは女であるというニーチェの名高い比喩を活用して言うなら柄谷が語る単独性衣服を脱ぐ途上にある女でありデリダは全裸になった女体そのものを見せつける柄谷の読者にとって、 「この私にも理解できる言葉で語る柄谷は彼の著作の頁という薄布の向こうからこの私を誘惑しているようにあるいは暗いトンネルの向こうの光のように感じられるがデリダの単独性は瞳を直撃する真理の光としてかえって見え難くなるか白昼堂々赤の他人が裸になったかのように目撃された途端目を背けたくなるもしくはこう言い換えてもいい柄谷の語る単独性一人の人間という個体として理解=誤解されるその個体は人類全体からすれば一部にすぎないが種々様々な体験や思考や感情を取りまとめる存在としては一つの全体となるデリダはそのような個人という全体にとってさらに部分にあたる断片的な体験を列挙しているのでありそこでデリダはもはや人としての原型を留めなないほどに四散するこれはデリダと柄谷いずれかの優位を示すものではないが柄谷の明快さとデリダの難解さがかなりの程度まで幻想であることは間違いないともあれ問題は明らかにその言説の流通範囲がアカデミズムであれジャーナリズムであれある文章のわかりやすさそのものに関わっている

 学際的になるアカデミズムに対して距離をとる言説として今日の批評を定義するならばその基準は自らが現に語っている事柄の断片性に対してどれ程自覚的かということだあるいは自らが語らんとしている内容の幅広さとそのために利用・動員できるテクスト・情報の少なさとのあいだの亀裂に対する危機感の有無といってよい批評家という肩書きを自ら引き受けるか否かを別にして言及すべきなのは東浩紀佐々木中蓮実重彦の三名である

 東浩紀は弁解する東の主題は多岐に渡るがここでは彼の一般意思 2.0に注目する東はこの著作で個々の問題に対し知識を有する専門家たちの討議と多かれ少なかれ印象と感情に左右される大衆を代表者を選ぶことなく情報技術によって媒介する政策決定システムを素描したその内容や実効性はここで問題ではない特筆すべきは東がこのアイデアを展開するにあたりルソー社会契約論の一節に含まれる奇妙な、 「コミュニケーションがなければという箇所に注目していることだ3東自身も述べるようにこの一節は文脈上明らかに常識に反したもので翻訳者を戸惑わせるそれを無意味なノイズと見なすことはできる東の文献の取り扱いが雑だと非難する教授的メンタリティを持つ読者もいくらでもいるそうした指摘が一概に無益でもないそしてこうした論拠の弱さあるいは彼自身の論述の思弁的な性格を自覚している東は何度となく読者に弁解し理解を求めるしかし東はここでマルティン・ハイデッガーがほとんど使わなかった精神の一語を鍵にハイデッガーのナチス協力の問題を問い直したデリダ4を反復しているこのことは文体や知的背景そのアイデアの妥当性云々を越えて東がデリダの最も反=アカデミックな特徴を継承している証だと言える

 佐々木中は糾弾する理論的主著夜戦と永遠の佐々木は、 「続けよう無論何よりも簡潔を旨として5のように信者を叱咤激励する宗教家のごとき語り口を特徴とする一方詳細なことは一目瞭然の原文典拠によって論を進める到底アカデミックとは言えない文体と過剰なほど学者的な慎重さを兼ね備える佐々木の貴重さに疑問の余地はない東の場合と同様、 『夜戦と永遠における佐々木の論旨の内容は問題ではない興味深いことに佐々木が読者に語りかけるのはしばしば彼が詳細に読んでいくフーコーその他のテクストの誤解・誤読の可能性に触れるときだ。 「そうわれわれはミシェル・フーコーを迎えることにしようそしてすぐ痙攣的な反批判をするなどというはしたない真似をせず彼の論旨を果ての果てまで追ってみることにしよう6東の場合は彼自身が誤解されることに対するせめてもの防御壁として文体に弁解が混じるのだが佐々木の場合彼が彼自身の読解を示そうとしているテクストの著者を誤解する者たちへの糾弾が混じる通常の意味での学問的信頼性を欠くが故に東は自身のテクストの誤読を予期せざるを得ず通常以上に学問的精確さを誇るが故に佐々木は彼とは違う読解を軽蔑する東が無数の査読者の視線に怯えているとすれば佐々木はフーコーを初めとする人々の論考に対する唯一無二の査読者として振舞う

 両者はまさにデリダがジョイス学者に対して言った自信過剰と疑心暗鬼に苛まれている東に対して、 「言い訳がましくも話を進めるなら結局は自分の主張に絶対の自信があるのだろうと言ってもいいし佐々木に対して、 「執拗に誤読する者たちを糾弾するのは自分の読解も誤読ではないかと恐れているからだろうと言っても同じことだ東のようにルソーのテクストの断片を彼の時代にはありもしなかった情報技術につなげて考えることは学問の常識からすればありえない同様に専門的なフーコー研究者であれ佐々木ほど詳細にフーコー自身のテクストからの引用にこだわるものはおそらくほとんどいないその意味で彼らは決して大学の存在意義を否定するわけではないにしても概して学問大学の動向一般に懐疑的である規格化されたような論文を生産し続けるアカデミズムに対する彼らの懐疑はその規格が保証している読みやすさや同じ専門家集団からの理解・同意を失うことにつながりそれが東の弁解と佐々木の糾弾の口調の源であるそれらは、 「どうして私の読んでいるテクストを理解してくれないのかという愚痴であり自問自答である

 アカデミズムとジャーナリズム大学とネットが曖昧に野合した現状において東や佐々木のような批評家は絶対に必要とされているともすれば情けなかったり暑苦しかったりする彼らの口調は彼らが読もうとしている誰かのテクストの読解の中断・放棄を少しでも先送りするためのものであり言い換えれば私たちはかつてないほど読むことを避ける社会のなかで生きている例えば現在各分野で論文のスタイルは英語圏のそれが主流になりつつあるそのスタイルの要は、 (地獄への道を舗装する類の善意にあふれた大学人たちの紋切型で言えばその論文で結論として言わんとすることを初めに述べておき具体例を挙げて論証した末にもう一度それを繰り返すというものだ各段落の第一文ではその段落で言わんとすることを要約すべしと言われることもある。 『グラモフォンを例に私たちが語ってきた具体性と一般性とのあいだの断絶を隠蔽しているのはそれ自体は非人称的なフォーマットとして浸透しているこうした論述形式そのものだその形式は当然読み難く書かれているものを読む価値のないものとして切捨てることを正当化する読み難い形でしか書けないものがある──著者の怠慢や無知とは別の水準にある原因によってわかりやすく書くことが絶対にできない何かがあるということを人々がすぐに忘れてしまうこと自体は実にわかりやすいしかしすべてのものがわかりやすく語られるべきであるという理想から、 「べきが抜け落ち事実として何もかもがわかりやすく語られうると考えるのは危険というより暴力的であるわかりやすくするためにあえて誇張した具体例で言えばそれはレイプされたときのことを自分の口でわかりやすく説明できないのはレイプなどされていない証拠だと断定する警察の暴力だ

 この点で近年の蓮実重彦の試みは彼がなおも優れた批評家であることを証立てている大著 『『ボヴァリー夫人に結実する彼のフィクション論はフィクションとは何かという問いをめぐる哲学者や理論家たちの言説の混乱を指摘するというより彼らが引き合いにだす具体例の選び方の杜撰さを蓮実は容赦なく批判するエマ・ボヴァリーと並べて某国の首相や書記長や大統領が言及される理由はどう考えても彼らが有名だからというだけことであり誰もが知る例を挙げさえすればみずからのフィクションをめぐる理論が一般に許容されやすくなるだろうと思う理論家たちのほとんど機械的というほかない身振りの安易さが不愉快なのである7そして単に理論的整合性を保つにすぎない人々を超えて蓮実自身が展開するフィクション論は、 「というにはあまりに突飛なことに様々な作品・文献に氾濫するという色彩をひとつずつ数えあげていく蓮実はいわば東と佐々木それぞれの振る舞いを一人二役でこなしている本来フィクションを理論化する人々が備えているべき学者的慎重さによって彼らの理論を撃ちそれでいて自らの言わんとすることを納得させる気があるのかどうか怪しまれるほど散逸した具体例によって語る蓮実はやはり貴重な批評家というべきだろう

 柄谷佐々木そして蓮実という具体例をこうして列挙してみると本稿のはじめに指摘しておいた今日の大学の危機的な有様がおぼろげに浮かびあがる資本主義の弊害を認識しつつそれを撤廃できないとき社会民主主義はほとんど唯一の対応策となるこの流れのなか人文学全体は凡庸な権威にすりよっていくこの場合の凡庸な権威の源は突出して優れた研究者の名に付加される個人的なものでもあり多数の支持を集められるという意味で集合的なものでもあるいわゆるフランス現代思想がアメリカ合衆国で広まった際教員たちは氾濫する理論的テクストのなかから学生に読むべきもののリストを作ることを迫られ結果的には頻繁に参照される一群のテクストの断片が固定されてきたことをフランソワ・キュセは報告している。 「デリダであれば一九六六年のジョンズ・ホプキンズ大学での発表ないしグラマトロジーについてからの抜粋フーコーであれば監獄の誕生の一説と作者とはなにか?の講演8といったところだ私自身の経験に照らせば事態はこれよりさらに悪化している

 この傾向は市場原理がその本性として少しでも多くの利益をあげるため少しでも早く商品を生産しようとする以上避けられないアメリカの大学では研究者たちの競争の激しさを言い表して、 「出版せよさもなくば滅びよとすら言う研究者たちによる査読制度にこうした力が加わると厳しく各分野独自の文脈を外れないことが求められる一方その分野で共有される紋切型をなぞるだけの業績が増えるのは自明である紋切型とはそれを口にすることで最大多数の同意を期待できる言葉であり無限の正しさを目指した普遍性ではなく具体性の裏地としての一般性に依拠しているにすぎないこうした大きな流れに対する抵抗として理解しない限り誰よりも強大な権威を得てしまったデリダの極端に奇矯なテクストは、 『グラモフォンだけでなくデリダファンが珍重する玩具にしか見えないだろう

 この点でジャック・ラカンの精神分析理論を広範に応用したスラヴォイ・ジジェクはデリダとは鋭い対象をなすラカン=ジジェクの理論の詳細をここで述べる必要はないジジェクがラカンをそしてラカンが精神分析の祖であるフロイトをどれほど忠実に継承したのかもここでは問わないしかし精神分析の理論がその理論に反するかに見える具体例を苦もなく吸収する柔軟性を備えていることだけを具体例とともに示しておこう人間の見る夢はその人間の秘めたる願望を満たそうとするというフロイトにある聡明な女性が私の見た夢はあなたのおっしゃることには当てはまりませんと反論したことがあったフロイトは彼女の夢が自身の見解に矛盾する例であることを認めたうえで彼女は私に反駁して否定してやりたいという願望を抱いていたのだからやはり夢はその願望を満たすためのものだと分析する9ほとんど冗談のような屁理屈だが冗談抜きでこの柔軟性こそが精神分析の強みなのは間違いない

 ラカンを介しそれを受け継ぐジジェクはハリウッド映画や大衆的ミステリまであらゆる具体例を動員してそれを自らの理論で説明することができる以下はある論文のいかにもジジェクらしい冒頭である

一九九八年で最も間抜けな人間を選ぶコンテストの受賞者はあるラテン・アメリカの愛国主義者のテロリストだった彼はアメリカの中米に対する政治介入に抗議するため合衆国領事館に郵便爆弾を送った彼は良心的市民として爆弾を仕掛けた小包に返送用の住所を書いてしまったしかし彼は必要なだけ切手を貼らなかったのでそれは彼のもとへ送り返されてしまった包んだものを忘れてしまった彼はそれを開封し自爆してしまった──これは手紙が究極的にはかならずあて先に届くということの完全な例証である10

 三面記事的な出来事でさえ例に挙げて語りだすジジェクは、 『ユリシーズと自らの人生の偶然の一致から議論を進めるデリダとは似て非なる書き手である具体性と一般性とのあいだの媒介は常に失敗するかあるいは少なくとも書き手の意図した通りには成功しないこの一般的認識自体は定義上その妥当性を証明する完全な例証を持たない一匹狼は何匹いても群れにならないおそらくこれほどわかり難く同時にわかりやすい認識はないその究極のわかり難さに固執するデリダはわかり難くその困難をクリアしていると自ら信じられるジジェクはわかりやすい一見トリッキーなジジェクは現在の人文学のアカデミズムにとって脅威ではないがデリダは飼いならされた犬の振りをした狼であり彼のテクストは未開封の郵便爆弾であり続けている

 ではド・マンの場合はどうだったのかというのが次なる問いだろう彼が学問制度そして文学教育一般の現状やそれを支えているイデオロギーに対して批判的であったことは確かであり同時にデリダに比べればはるかにいわゆる論文に近いものを書き残したのは彼がテクストの読解自体の力を信じていたためである彼自身はその信念の原点としてかつて助手として実際にその様子を見た文学者リューベン・ブラウアーの授業を挙げているブラウアーが学生たちに求めたのはとても堅実に読んでいるテクストから証拠を挙げられないようなことは決して言わずあくまでも内在的にそれを読むことだったがこの授業は驚くほど学生たちを成長させた

そのことで書くことが彼らにとって容易になったわけではなかったのだがというのも彼らはもはや頭に浮かんだ思いつきに好きにおぼれたりたまたま出くわした考えを言い換えたりするわけにはいかなくなったからであるリューベン・ブラウアーの学生たちなら書けなかった本でこの業界はとっ散らかっている良い読み手はしばしば書き手としては生産性に乏しいのだがそれは文学研究の現状ではそれなりに十分良いことだ11

グラモフォンを分析した本稿の文脈からすればあまりにも多産なデリダへの批判のようにすら読める一節だが精読による教育を訴え、 「ある意味で古典的に教育的なものだけが本当にかつ効果的に転覆的だ12と語るド・マンについて何を言うにせよ彼自身のテクストを彼の流儀で読み何かを学ぶ作業を省くわけにはいかないだろう。 (つづく

次回はあす 1 月 29 日ですお楽しみに!

注釈

  1. 柄谷行人探究 2』 (講談社学術文庫1944 年11 頁
  2. 柄谷行人近代文学の終り 柄谷行人の現在』 (インスクリプト2005 年234 頁
  3. 東浩紀一般意思 2.0 ルソーフロイトグーグル』 (講談社2011 年53-57 頁
  4. 精神について ハイデッガーと問い』 (港道隆訳2009 年)。
  5. 佐々木中定本 夜戦と永遠フーコー・ラカン・ルジャンドル』 (上下巻河出文庫2011 年上巻 99 頁
  6. 佐々木夜戦と永遠上巻 466 頁
  7. 蓮實重彦 『「の誘惑―フィクション論序説』 (新潮社2007 年275 頁
  8. フランソワ・キュセフレンチ・セオリー:アメリカにおけるフランス現代思想』 (桑田光平・鈴木哲平・畠山達・本田貴久訳216 頁
  9. ジークムント・フロイト夢判断』 (高橋義孝訳新潮文庫1969 年上巻 260-61 頁
  10. 二重の脅迫に抗して コソヴォ問題をめぐって」 『批評空間II 期 24 号森山達矢訳太田出版2000 年75 頁
  11. ド・マンRT60 頁
  12. ド・マンRT231 頁

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。