『グラモフォン』 におけるデリダの戦略の過激さは、 柄谷行人のそれと比較すると分かりやすくなる。 ある時期以降の柄谷は、 全体のなかの一部や多数のなかの個物とは区別される 「単独性」 あるいは 「『この』 性 (this-ness)」 に注目した。
単独性は、 あとでいうように、 たんに一つしかないということではない。 単独性は、 特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、 もはや一般性に所属しようのない個体性である。 〔⋯〕むろん、 それは、 「この私」 が取り替えできないほど特殊であることを少しも意味しない。 「この私」 や 「この犬」 は、 ありふれた何の特性もないものであっても、 なお単独的 (singular) なのである。 1
ジョイスを読み 『ユリシーズ』 についての講演の構想をまとめていたときにデリダが遭遇したあれこれの些事を形容するなら、 柄谷の言うこの 「単独性」 が最も適切だろう。 しかしここに陥穽がある。 柄谷自身を交えたある座談会で大澤真幸は、 実際に学生に柄谷の著作を読ませた際の経験から、 「単独性」 と対になる柄谷の鍵語 「普遍性」 に触れている。
学生に 『隠喩としての建築』 を読ませたときに、 彼らが一番つまずいたのはその普遍性に関する議論です。 普遍性と一般性 (共同主観性) とが違うということが強調されており、 その違いは、 単独性と特殊性の違いと並行している。 特殊性と区別された単独性に関しては、 「私」 というものを──たとえば 「学生である」 とか 「日本人である」 といった具合に──特殊化して説明されたときに、 「ちょっと違うよな」 「それでこの私は尽きないよな」 という実感に訴えるところがあって、 まだ理解させることができる。 しかし柄谷さんの議論は、 さらに単独性が普遍性に直結していくという論理になっていて、 そこでつまずく。 2
柄谷の言う 「単独性」 はどうしても、 彼の読者一人一人が、 「確かにこの私はこの私だ、 私の特徴・属性をいくら数えあげてもこの私を説明し尽くすことにはならない」 とでもいった実感とともに理解される。 だがそれは、 自らの生の一回性や実存をやや散文的に言い換えたものにすぎない。 そのように 「理解」 する学生は、 「この私」 が何かしら代替不能で固有の価値を有したものではない、 という柄谷の明確な断言を忘れ、 結果として彼の言う単独性を 「誤解」 する。 そしてだからこそ、 その実感に支えられた理解では、 単独性が何故普遍性に直結するのかが理解できない。 正確には、 柄谷の 「普遍性」 は、 文字通りあらゆる人間にあてはまるというという意味ではなく、 誰にあてはまったところでおかしくないという意味で普遍的なのだ。 それは、 宝くじに当たることとその当選者の特徴とのあいだに何ら有意味なつながりがないのと同様、 その個人の特質による限定から自由であるがゆえに普遍的であり、 そして、 実際に宝くじを買った人々のうちで大金を手にするのが極少数であるという点で、 それは実に単独的な事態でもある。
この意味で柄谷の 「単独性/普遍性」 は決してわかりやすいわけではないのだが、 そのわかり難さを隠蔽する散文的な換言をさらに徹底すると、 デリダのように、 何故そんなことをあえて言葉にするのかわからない些末な体験の列挙になる。 要約的叙述と模倣的描写、 あるいは英米文学研究で常套の 「語る/見せる (tell / show)」 という区別で言えば、 「この私」 を柄谷は語り、 デリダは見せる。 柄谷の文章の分かりやすさ (の印象) は、 デリダがあえて実演し描写する裸の 「単独性」 を、 最低限とはいえ概念の一般性に依拠して説明したことによる。 啓蒙の光、 あるいは真理とは女であるというニーチェの名高い比喩を活用して言うなら、 柄谷が語る 「単独性」 は、 衣服を脱ぐ途上にある女であり、 デリダは全裸になった女体そのものを見せつける。 柄谷の読者にとって、 「この私」 にも理解できる言葉で語る柄谷は、 彼の著作の頁という薄布の向こうから 「この私」 を誘惑しているように、 あるいは暗いトンネルの向こうの光のように感じられるが、 デリダの 「単独性」 は瞳を直撃する真理の光としてかえって見え難くなるか、 白昼堂々赤の他人が裸になったかのように、 目撃された途端目を背けたくなる。 もしくはこう言い換えてもいい。 柄谷の語る 「単独性」 は、 一人の人間という個体として理解=誤解される。 その個体は人類全体からすれば一部にすぎないが、 種々様々な体験や思考や感情を取りまとめる存在としては一つの全体となる。 デリダは、 そのような個人という全体にとってさらに部分にあたる断片的な体験を列挙しているのであり、 そこで 「デリダ」 はもはや人としての原型を留めなないほどに四散する。 これはデリダと柄谷いずれかの優位を示すものではないが、 柄谷の明快さとデリダの難解さがかなりの程度まで幻想であることは間違いない。 ともあれ、 問題は明らかに、 その言説の流通範囲がアカデミズムであれジャーナリズムであれ、 ある文章の 「わかりやすさ」 そのものに関わっている。
学際的になるアカデミズムに対して距離をとる言説として今日の 「批評」 を定義するならば、 その基準は、 自らが現に語っている事柄の断片性に対してどれ程自覚的かということだ。 あるいは、 自らが語らんとしている内容の幅広さと、 そのために利用・動員できるテクスト・情報の少なさとのあいだの亀裂に対する危機感の有無といってよい。 批評家という肩書きを自ら引き受けるか否かを別にして言及すべきなのは、 東浩紀、 佐々木中、 蓮実重彦の三名である。
東浩紀は弁解する。 東の主題は多岐に渡るが、 ここでは彼の 『一般意思 2.0』 に注目する。 東はこの著作で、 個々の問題に対し知識を有する専門家たちの討議と、 多かれ少なかれ印象と感情に左右される大衆を、 代表者を選ぶことなく情報技術によって媒介する政策決定システムを素描した。 その内容や実効性はここで問題ではない。 特筆すべきは、 東がこのアイデアを展開するにあたり、 ルソー『社会契約論』 の一節に含まれる奇妙な、 「コミュニケーションがなければ」 という箇所に注目していることだ3。 東自身も述べるようにこの一節は文脈上、 明らかに常識に反したもので、 翻訳者を戸惑わせる。 それを無意味なノイズと見なすことはできる。 東の文献の取り扱いが雑だと非難する教授的メンタリティを持つ読者もいくらでもいる。 そうした指摘が一概に無益でもない。 そして、 こうした論拠の弱さ、 あるいは彼自身の論述の思弁的な性格を自覚している東は、 何度となく読者に弁解し理解を求める。 しかし、 東はここで、 マルティン・ハイデッガーがほとんど使わなかった 「精神」 の一語を鍵に、 ハイデッガーのナチス協力の問題を問い直したデリダ4を反復している。 このことは、 文体や知的背景、 そのアイデアの妥当性云々を越えて、 東がデリダの最も反=アカデミックな特徴を継承している証だと言える。
佐々木中は糾弾する。 理論的主著 『夜戦と永遠』 の佐々木は、 「続けよう。 無論何よりも簡潔を旨として」 5のように、 信者を叱咤激励する宗教家のごとき語り口を特徴とする一方、 詳細なことは一目瞭然の原文典拠によって論を進める。 到底アカデミックとは言えない文体と、 過剰なほど学者的な慎重さを兼ね備える佐々木の貴重さに疑問の余地はない。 東の場合と同様、 『夜戦と永遠』 における佐々木の論旨の内容は問題ではない。 興味深いことに、 佐々木が読者に語りかけるのはしばしば、 彼が詳細に読んでいくフーコーその他のテクストの誤解・誤読の可能性に触れるときだ。 「そう、 われわれは、 ミシェル・フーコーを迎えることにしよう。 そして、 すぐ痙攣的な反批判をするなどというはしたない真似をせず、 彼の論旨を果ての果てまで追ってみることにしよう」 6。 東の場合は彼自身が誤解されることに対するせめてもの防御壁として文体に弁解が混じるのだが、 佐々木の場合、 彼が彼自身の読解を示そうとしているテクストの著者を誤解する者たちへの糾弾が混じる。 通常の意味での学問的信頼性を欠くが故に東は自身のテクストの誤読を予期せざるを得ず、 通常以上に学問的精確さを誇るが故に佐々木は彼とは違う読解を軽蔑する。 東が無数の査読者の視線に怯えているとすれば、 佐々木はフーコーを初めとする人々の論考に対する唯一無二の査読者として振舞う。
両者はまさに、 デリダがジョイス学者に対して言った、 自信過剰と疑心暗鬼に苛まれている。 東に対して、 「言い訳がましくも話を進めるなら結局は自分の主張に絶対の自信があるのだろう」 と言ってもいいし、 佐々木に対して、 「執拗に誤読する者たちを糾弾するのは、 自分の読解も誤読ではないかと恐れているからだろう」 と言っても同じことだ。 東のように、 ルソーのテクスト (の断片) を彼の時代にはありもしなかった情報技術につなげて考えることは学問の常識からすればありえない。 同様に、 専門的なフーコー研究者であれ、 佐々木ほど詳細にフーコー自身のテクストからの引用にこだわるものはおそらくほとんどいない。 その意味で彼らは、 決して大学の存在意義を否定するわけではないにしても、 概して 「学問」 や 「大学」 の動向一般に懐疑的である。 規格化されたような論文を生産し続けるアカデミズムに対する彼らの懐疑は、 その規格が保証している読みやすさや同じ専門家集団からの理解・同意を失うことにつながり、 それが東の弁解と佐々木の糾弾の口調の源である。 それらは、 「どうして私の (読んでいる) テクストを理解してくれないのか」 という愚痴であり自問自答である。
アカデミズムとジャーナリズム、 大学とネットが曖昧に野合した現状において、 東や佐々木のような批評家は絶対に必要とされている。 ともすれば情けなかったり暑苦しかったりする彼らの口調は、 彼ら (が読もうとしている誰か) のテクストの読解の中断・放棄を少しでも先送りするためのものであり、 言い換えれば、 私たちはかつてないほど、 読むことを避ける社会のなかで生きている。 例えば現在、 各分野で論文のスタイルは英語圏のそれが主流になりつつある。 そのスタイルの要は、 (地獄への道を舗装する類の) 善意にあふれた大学人たちの紋切型で言えば、 その論文で結論として言わんとすることを初めに述べておき、 具体例を挙げて論証した末にもう一度それを繰り返す、 というものだ。 各段落の第一文ではその段落で言わんとすることを要約すべし、 と言われることもある。 『グラモフォン』 を例に私たちが語ってきた、 具体性と一般性とのあいだの断絶を隠蔽しているのは、 それ自体は非人称的なフォーマットとして浸透しているこうした論述形式そのものだ。 その形式は当然、 読み難く書かれているものを読む価値のないものとして切捨てることを正当化する。 読み難い形でしか書けないものがある──著者の怠慢や無知とは別の水準にある原因によって、 わかりやすく書くことが絶対にできない何かがあるということを、 人々がすぐに忘れてしまうこと自体は、 実にわかりやすい。 しかし、 すべてのものがわかりやすく語られる 「べき」 であるという理想から、 「べき」 が抜け落ち、 事実として何もかもがわかりやすく語られうると考えるのは、 危険というより暴力的である。 わかりやすくするためにあえて誇張した具体例で言えば、 それは、 レイプされたときのことを自分の口でわかりやすく説明できないのはレイプなどされていない証拠だと断定する警察の暴力だ。
この点で、 近年の蓮実重彦の試みは彼がなおも優れた 「批評家」 であることを証立てている。 大著 『『ボヴァリー夫人』 論』 に結実する彼のフィクション論は、 フィクションとは何かという問いをめぐる哲学者や理論家たちの言説の混乱を指摘する。 というより、 彼らが引き合いにだす具体例の選び方の杜撰さを、 蓮実は容赦なく批判する。 エマ・ボヴァリーと並べて某国の首相や書記長や大統領が言及される理由は、 どう考えても、 彼らが有名だからというだけことであり、 誰もが知る例を挙げさえすれば 「みずからのフィクションをめぐる理論が一般に許容されやすくなるだろうと思う理論家たちの、 ほとんど機械的というほかない身振りの安易さが不愉快なのである」 7。 そして、 単に理論的整合性を保つにすぎない人々を超えて蓮実自身が展開するフィクション論は、 「論」 というにはあまりに突飛なことに、 様々な作品・文献に氾濫する 「赤」 という色彩をひとつずつ数えあげていく。 蓮実はいわば、 東と佐々木それぞれの振る舞いを一人二役でこなしている。 本来フィクションを理論化する人々が備えているべき学者的慎重さによって彼らの理論を撃ち、 それでいて自らの言わんとすることを納得させる気があるのかどうか怪しまれるほど、 散逸した具体例によって語る蓮実は、 やはり貴重な 「批評家」 というべきだろう。
柄谷、 東、 佐々木、 そして蓮実という具体例をこうして列挙してみると、 本稿のはじめに指摘しておいた今日の大学の危機的な有様がおぼろげに浮かびあがる。 資本主義の弊害を認識しつつそれを撤廃できないとき、 社会民主主義はほとんど唯一の対応策となる。 この流れのなか、 人文学全体は凡庸な権威にすりよっていく。 この場合の凡庸な権威の源は、 突出して優れた研究者の名に付加される個人的なものでもあり、 多数の支持を集められるという意味で集合的なものでもある。 いわゆる 「フランス現代思想」 がアメリカ合衆国で広まった際、 教員たちは氾濫する理論的テクストのなかから学生に読むべきもののリストを作ることを迫られ、 結果的には頻繁に参照される一群のテクスト (の断片) が固定されてきたことを、 フランソワ・キュセは報告している。 「デリダであれば一九六六年のジョンズ・ホプキンズ大学での発表ないし 『グラマトロジーについて』 からの抜粋、 フーコーであれば 『監獄の誕生』 の一説と 「作者とはなにか?」 の講演」 8といったところだ。 私自身の経験に照らせば、 事態はこれよりさらに悪化している。
この傾向は、 市場原理がその本性として、 少しでも多くの利益をあげるため少しでも早く商品を生産しようとする以上、 避けられない。 アメリカの大学では、 研究者たちの競争の激しさを言い表して、 「出版せよさもなくば滅びよ」 とすら言う。 研究者たちによる査読制度にこうした力が加わると、 厳しく各分野独自の文脈を外れないことが求められる一方、 その分野で共有される紋切型をなぞるだけの 「業績」 が増えるのは自明である。 紋切型とは、 それを口にすることで最大多数の同意を期待できる言葉であり、 無限の正しさを目指した普遍性ではなく、 具体性の裏地としての一般性に依拠しているにすぎない。 こうした大きな流れに対する抵抗として理解しない限り、 誰よりも強大な権威を得てしまったデリダの極端に奇矯なテクストは、 『グラモフォン』 だけでなく、 デリダファンが珍重する玩具にしか見えないだろう。
この点で、 ジャック・ラカンの精神分析理論を広範に応用したスラヴォイ・ジジェクは、 デリダとは鋭い対象をなす。 ラカン=ジジェクの理論の詳細をここで述べる必要はない。 ジジェクがラカンを、 そしてラカンが精神分析の祖であるフロイトをどれほど忠実に継承したのかもここでは問わない。 しかし、 精神分析の理論が、 その理論に反するかに見える具体例を苦もなく吸収する柔軟性を備えていることだけを、 具体例とともに示しておこう。 人間の見る夢はその人間の秘めたる願望を満たそうとする、 というフロイトに、 ある聡明な女性が、 私の見た夢はあなたのおっしゃることには当てはまりませんと反論したことがあった。 フロイトは、 彼女の夢が自身の見解に矛盾する例であることを認めたうえで、 彼女は私に反駁して否定してやりたいという願望を抱いていたのだから、 やはり夢はその願望を満たすためのものだと分析する9。 ほとんど冗談のような屁理屈だが、 冗談抜きで、 この柔軟性こそが精神分析の強みなのは間違いない。
ラカンを介しそれを受け継ぐジジェクは、 ハリウッド映画や大衆的ミステリまで、 あらゆる具体例を動員してそれを自らの理論で説明することができる。 以下は、 ある論文の、 いかにもジジェクらしい冒頭である。
一九九八年で最も間抜けな人間を選ぶコンテストの受賞者は、 あるラテン・アメリカの愛国主義者のテロリストだった。 彼はアメリカの中米に対する政治介入に抗議するため合衆国領事館に郵便爆弾を送った。 彼は良心的市民として、 爆弾を仕掛けた小包に返送用の住所を書いてしまった。 しかし、 彼は必要なだけ切手を貼らなかったので、 それは彼のもとへ送り返されてしまった。 包んだものを忘れてしまった彼は、 それを開封し、 自爆してしまった──これは、 手紙が究極的にはかならずあて先に届くということの完全な例証である。 10
三面記事的な出来事でさえ例に挙げて語りだすジジェクは、 『ユリシーズ』 と自らの人生の偶然の一致から議論を進めるデリダとは似て非なる書き手である。 具体性と一般性とのあいだの媒介は常に失敗するか、 あるいは少なくとも書き手の意図した通りには成功しない。 この一般的認識自体は定義上、 その妥当性を証明する 「完全な例証」 を持たない。 一匹狼は何匹いても群れにならない。 おそらく、 これほどわかり難く同時にわかりやすい認識はない。 その究極のわかり難さに固執するデリダはわかり難く、 その困難をクリアしている (と自ら信じられる) ジジェクはわかりやすい。 一見トリッキーなジジェクは現在の人文学のアカデミズムにとって脅威ではないが、 デリダは飼いならされた犬の振りをした狼であり、 彼のテクストは未開封の郵便爆弾であり続けている。
ではド・マンの場合はどうだったのか、 というのが次なる問いだろう。 彼が学問制度、 そして文学教育一般の現状やそれを支えているイデオロギーに対して批判的であったことは確かであり、 同時に、 デリダに比べればはるかにいわゆる 「論文」 に近いものを書き残したのは、 彼がテクストの読解自体の力を信じていたためである。 彼自身はその信念の原点として、 かつて助手として実際にその様子を見た、 文学者リューベン・ブラウアーの授業を挙げている。 ブラウアーが学生たちに求めたのは、 とても堅実に、 読んでいるテクストから証拠を挙げられないようなことは決して言わず、 あくまでも内在的にそれを読むことだったが、 この授業は驚くほど学生たちを成長させた。
そのことで書くことが彼らにとって容易になったわけではなかったのだが、 というのも、 彼らはもはや頭に浮かんだ思いつきに好きにおぼれたり、 たまたま出くわした考えを言い換えたりするわけにはいかなくなったからである。 リューベン・ブラウアーの学生たちなら書けなかった本で、 この業界はとっ散らかっている。 良い読み手はしばしば書き手としては生産性に乏しいのだが、 それは文学研究の現状では、 それなりに十分良いことだ。 11
『グラモフォン』 を分析した本稿の文脈からすれば、 あまりにも多産なデリダへの批判のようにすら読める一節だが、 精読による教育を訴え、 「ある意味で、 古典的に教育的なものだけが、 本当にかつ効果的に転覆的だ」 12と語るド・マンについて何を言うにせよ、 彼自身のテクストを彼の流儀で読み何かを学ぶ作業を省くわけにはいかないだろう。 (つづく)
注釈
- 柄谷行人 『探究 2』 (講談社学術文庫, 1944 年) 11 頁。
- 柄谷行人 『近代文学の終り 柄谷行人の現在』 (インスクリプト, 2005 年) 234 頁。
- 東浩紀 『一般意思 2.0 ルソー、 フロイト、 グーグル』 (講談社, 2011 年) 53-57 頁。
- 『精神について ハイデッガーと問い』 (港道隆訳, 2009 年)。
- 佐々木中 『定本 夜戦と永遠フーコー・ラカン・ルジャンドル』 (上下巻, 河出文庫, 2011 年) 上巻 99 頁。
- 佐々木 『夜戦と永遠』 上巻 466 頁。
- 蓮實重彦 『「赤」 の誘惑―フィクション論序説』 (新潮社, 2007 年) 275 頁。
- フランソワ・キュセ 『フレンチ・セオリー:アメリカにおけるフランス現代思想』 (桑田光平・鈴木哲平・畠山達・本田貴久訳) 216 頁。
- ジークムント・フロイト 『夢判断』 (高橋義孝訳, 新潮文庫, 1969 年) 上巻 260-61 頁。
- 「二重の脅迫に抗して コソヴォ問題をめぐって」 『批評空間』 II 期 24 号 (森山達矢訳, 太田出版, 2000 年) 75 頁。
- ド・マン, RT, 60 頁。
- ド・マン, RT, 231 頁。