目に映らない愚か者

連載第3回: 赤裸々すぎるジャック・デリダ

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.27Fri

赤裸々すぎるジャック・デリダ

諸学の垣根を越える存在としてデリダに注目するという企図からしてアイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスを論じた彼のユリシーズ グラモフォン』 (以下グラモフォン』) 1を取りあげること自体は順当な選択と言えるこれはド・マンに言わせれば最も接近していながら最も相互貫入の難しい人間的知性の二つの活動2である哲学と文学の交錯であるそれ故、 『グラモフォンがジョイス論であるかに見えて専門家からなる学会や大学制度についての問題提起を含むのも当然と言える3デリダは彼の脱構築が引き起こすことになる専門家たちの共同体内部の不和を明確に指摘する。 『グラモフォンの元になった講演自体ジョイスに関する国際学会で行われたものでありその聴衆には高名な哲学者を招くことがジョイス研究の健全な新陳代謝になればという期待がある一方専門家としてこの門外漢を叩きのめし旧来の権威を再確認してやろうという下心もあるそしてそれは自らがジョイス作品の複雑さと多義性を知っているだけにジョイス専門家たちが自らの専門家たる資格を疑っているからだ。 「みなさんは自分たちの権利さらには自分たちの実践や方法や様式の共通性や同質性についてさえも過度の確信を抱くと同時に過度の疑心暗鬼に陥っている4程度の差はあれ同様の揺らぎはジョイスに限らず様々な哲学者・作家についての研究者集団に潜在しているだろう

 しかし、 『グラモフォンの過激さはデリダが明示的に語っていることではなくどんな知見・洞察であれそれをどのように導出しているのかというところにある一言で言えばこの著作でジャック・デリダは学者としてのデリダと単なるジャックに分裂している冒頭近くの、 「この会場に来る途中ずっと考えてきたのだが5といった発言はもちろん口頭発表においてなら必ずしも異様なものではないしかし彼はジョイスのユリシーズの細部を反復したかのようだという驚きをこめて彼自身の身辺の些事に言及し続けるもちろんその些事は、 『ユリシーズの断片と偶然一致したにすぎず文字通りまったくの些事でしかない。 『ユリシーズには一九〇四年の日露戦争の模様を伝える電報が描かれそこには東京の地名も含まれるのだが、 「さて私は一ヶ月以上前に東京にいてそこでこの講演の原稿を書き始めた6というデリダの発言は哲学者デリダというより単なるジャックのものだ。 「それはそうと私は東京にいてホテル・オークラの地階の廊下で絵葉書を買っているところだった7その地階の売店で、 『ノーと言わないための十六の方法なり、 『決してイエスを答えと思うななりおそらくは商売の駆け引きに関する書物8を見つけたと語る哲学者デリダに対して通常の学問的規範からすれば賛同も反論もできないましてそんなジャックの体験が彼の愛読書ユリシーズに登場する東京という地名やこの大作の最後の言葉 yesと偶然一致したとしてそれは文学作品に対する解釈どころか感想ですらない

 これはつい興に乗り話が脱線しているわけではなく身辺の些事を語りながらデリダは哲学的解釈も決して放棄しない。 『ユリシーズにおける電話に注目しある大学教授がオハイオという地名を口にしデンタルフロスを使う場面に注目したデリダはあたかもそれが彼の議論の説得力を増すかのごとく付け加える

私は今年東京に行く前にオクスフォードとオハイオに立ち寄りイタケーという名の薬屋でデンタルフロス──つまり風神の竪琴──を購入したこう言うとみなさんは信じないだろうが恐縮ながらみなさんのほうが間違っておられるこれは本当の話でそれを確認することもできるのだから9

 恐縮ながら確認できたとしたら何なのだと言うしかないここで生じているのは哲学と文学という二つの学問の交錯というより、 (哲学・文学に限らない学問的一般性とそれに資することのない全くの単独性との併置であり言い換えればデリダは哲学者としてと同時に一個人として全くの雑感を露出させているそれは学と学ならざるものとの間の緊張関係を身をもって語るのではなく示すということだ

 しかし、 『グラモフォンは従来のデリダの読解の特徴を極点にまで押し進めたものであり例外ではなくむしろ範例であるデリダ自身が磐石な古典的教養を備えているが故に忘れられがちだが彼の脱構築は極めて些末な箇所にこだわるものでもあるもちろん彼自身が熱心に読みこんだテクストであればこそテクスト全体の整合性を揺るがす細部を見いだせるのだがそれでも彼が議論の俎上にのせる箇所はしばしば対象となるテクスト全体に対してかなり限定されている10さらに言えばすでに触れたグラマトロジーについてで彼自身詳細に述べているように西欧文明と哲学の全体を規定している傾向を如実に示す例としてルソーに注目すること自体ルソーの影響力の大きさを考慮に入れても明らかに常軌を逸した11振る舞いなのだありていを言えばデリダはルソーから具体的に引用するまでもなく彼自身の結論を示してしまえるそして有限の自然数がどんなに大きかろうとも無限大に比べれば無限に小さいのに似てデリダの発する問いの射程やその結論の含意の巨大さの前ではどんな著者のどんなテクストの一節もあまりにも小さく証拠能力に乏しくなるそのことを自覚的に示すグラモフォンでは個別具体的なデリダ自身の経験とジョイスのテクストの断片的語句をつないでいるのは単に単語のレベルでの実質において無に等しい類似性でしかない

 具体的すぎる例と一般的すぎる結論とのあいだの断絶が、 『グラモフォンでは論旨の連続性として現れる引用された具体的な語句から一般性を有する哲学的解釈をデリダが構築する過程はあまりにも性急である例えば内面思惟などと無媒介に結びついているかに見える自然な声がつねにすでに外的・人為的に媒介されているというデリダの読者にはおなじみの主張はグラモフォンにも見られる以下合田正人・中真生によるグラモフォン邦訳を訳者による補足までを含め引用する

何度も電話〔の呼び出し音〕が内的な」 (intériurものであることが記されている電話をかけたくなったとき、 「ミスター・ブルームは・・・奥のinner部屋に向かった」。 次に、 「電話がなかでinsideぶるるん鳴っ最後にミスター・ブルームが奥のinner部屋から電話していたとあるつまりは内面性としての電話なのだなぜなら近代になって電話という名の装置が発明される以前から電話的・遠隔音声的技術は声のエクリチュールを以下略下線部引用者12

声のエクリチュールを以下は他の著作でも繰り返されるデリダの基本テーゼを繰りかえしたものでありあえて引用しない。 「内面性としての電話は原文では intérioritétéléphonique13であり逐語訳すれば電話的内部性となる作品では単に室内の意味で内的であるにすぎない電話の声を当然のように内面性へとつなげるこの論述は邦訳者の配慮で多少目立ち難くなっているとはいえ明らかに飛躍している下線部のつまりはに対応する原文はdoncである14この語は我思うゆえに我あり Je pense, donc je suisにおけるように先行する文脈からの帰結を示す一方そこに異なった文脈を導入する意味もあるすでに引用したホテル・オークラの売店の部分で唐突に話題を変えるそれはそうとも原文ではdoncである15論旨の発展・延長は同時にその論旨の断絶であり、 “doncは論理的な架橋でもその架橋の失敗でもある

 つまり、 『グラモフォンでのデリダの標的は一貫した論旨に従って展開される言説の構造分野や主題に関わらず特に学術論文で要求されるところの私たちがわかりやすい文章と呼ぶもののスタイル自体であるそれはスタイルというより具体例とそこから引き出される一般的命題とのあいだの調和と言ってもいい読者にも確かめることのできる経験的・具体的な事例を証拠として積み重ねることでそれらから一般的命題を引き出しそしてその命題が様々な別の事例を説明しうるとき私たちはそれをわかりやすいとみなす図式的に言えばこのようなわかりやすさを保証する図式に安住する言説とそのわかりやすさ具体性と一般性部分と全体の連関自体を疑う言説とのあいだの違いこそが重要であってそれぞれが取り扱うテクストが哲学書か文学作品かそれを展開する者が批評家か哲学者か文学者かといったことはあまり意味がないデリダは哲学者として文学作品を語っているのではなく単独なジャックとしてあたかも彼がユリシーズの登場人物であるかのように感じた体験を語っている嘘だと思うかもしれないがよりにもよってジョイスについて語ろうと考えているときに私はジョイスを反復していたのだ! こう言い換えればデリダが彼の体験に固執する理由もいくらかわかりやすくなるしかしその反復を具体的に列挙されても読者は多かれ少なかれ戸惑う他ない無限に小さい数を有限個いくら足し合わせても無限小のままであるのに似てそのような偶然の一致が学問の要求する一般性に届かないのは数が不足しているからではなくそれ自体が何かを例示するにはあまりに瑣末だからだ

 戸惑いとは違う反応を示しうる者がいるとすればデリダ同様ジョイスを愛読ししたがって自身にもジョイス作品を反復したかのような体験があるジョイス研究者たちだろうとはいえそんな研究者ですらデリダの講演を聞いて、 「そうだそういえば私にも⋯⋯とこれまた当の本人以外にとっては無意味な断片的記憶を語ることしかできないそれはジョイス専門家としてジョイス作品の解釈の正当性を判別するのとはまるで違う反応でありデリダはジョイス研究者という専門家集団に対して単なる個別のジョイス読者としてジョイスを反復し私を反復しろと迫っているのだ興味深いことに、 『グラモフォンの邦訳者の一人である合田正人は、 「訳者解説でこんな告白をしている。 「嘘のような本当の話だが合田が大学に入って始めて丸善で購入した洋書は何とユリシーズフィネガンズ・ウェイクだった16嘘のような本当の話という言葉に含まれる強い思い入れのようなものはジョイスなど読みもしないデリダ読者には永遠に分からないかもしれない合田はグラモフォンの哲学的内容を丁寧に要約しており引用した一節は彼が邦訳を引き受けた経緯を語る箇所に含まれるどれほど学術的な著作であれ後書き序文献辞等々にはしばしば執筆の背景の実に私的な事情などが吐露される一般性を獲得した言説の担い手である学者も単独の個人であることにはかわりない通常の学問的言説は後書きのようなテクストの周縁部分においてその単独性が露出することをいわば例外として認めているデリダが大胆なのは消去できずいずれ何らかの形で浮上するその著者の単独性をそのままテクストの本文に持ちこんだことにある

グラモフォンのなかに本稿が見出しているのは何かを論じ理解させようとする学問的言説に対するデリダの執拗な抵抗である邦訳されたジョイスユリシーズの註の多さを見ればわかるようにあるテクストが普通の意味でどれほど難解・複雑であってもそのテクストから何らかの意義ある真実を読み取りうるという信仰さえあれば専門家たちの共同体は形成されるしそれほど難解なテクストの読み方を習得した彼らには一層の権威が付与されるジョイス研究者たちをデリダ自身が世界で最もひとを怖気づかせる集団17と言っているのもそのためだしかし繰り返し言えば、 『グラモフォンでデリダが口にする哲学的命題は彼の読者にはおなじみのものでありその意味で難解とも複雑とも言えないそしてそれまでのデリダを熱心に読んでいる者ほどデリダの論旨の運びが実質的にはほとんど彼個人の思いつきによって勢いを得ていることを読み落とすだろう具体的過ぎて何かを例証する具体例とは言いがたい断片はそれに対する意味づけを多かれ少なかれ単なる気まぐれな連想のように見せてしまうのでありそこで論旨の糸は断ち切られていると同時につながれている真面目な学者たちにとってこれほど読み難いものはない正確には彼らがそんなテクストを読んだ場合十中八九私的な思いこみに基づくいい加減なレポートとして切り捨てるだろう

 しかしデリダの標的は具体例と抽象的命題が円環的に互いを支えあう構造そのものでありだからそんな議論を論理的飛躍や文脈の脱線にしか見えないものを抜きに語れるという思いこみこそがナイーヴなのだ私見の及ぶ限りこの方向でのデリダの脱構築が最も自由闊達に遂行されたのはすでに亡くなったド・マンを論じたタイプライターのリボン 有限責任会社 II18であるデリダ自身が明確に語っているようにこのテクストの元になった講演の鍵となるのは、 「ところで⋯についてを意味するフランス語のありふれた表現 à propos (de ⋯ )であるそれはグラモフォンdoncについて既に見たように論理的な断絶と連結を同時に意味する文脈上でいかにも好適な話題を導入する際にもそれまで何の予告もしていなかった話題に突然移行するときにも用いられるこの表現をデリダは何度となく繰り返す結果としてこのテクストでは某国諜報部員を主人公にした人気スパイ映画ユダヤ人の結婚式での風習ある恐竜映画でお馴染みの琥珀に閉じこめられた蚊などが言及されるデリダが盟友ド・マンの死を悼みド・マンの理論と真正面から対峙した論考としてこのテクストを読む者はおそらく失望するだろうデリダの名に学問的権威がつけばつくほど彼のこうしたテクストは黙殺されるか講演ゆえに即興性が混じったと弁解まじりに正当化されるかさもなくば無責任な性急さが現れているといって糾弾されるか──いずれにしてもデリダを読むためには学問の真面目さだけでは足りないということだそしてその限りで脱構築は私たちにとって、 「批評のひとつのモデルとなりうる。 (つづく

次回はあす 1 月 28 日ですお楽しみに!

注釈

  1. ユリシーズ グラモフォン:ジョイスに寄せるふたこと』 (合田正人・中真生訳法政大学出版局2001 年脚注では略号 UG を用いるなおこの著作は二部に別れそれぞれ別個の口頭発表を元にしているが著作として発表されるに際しデリダが附した序文の言葉を借りるなら、 「ひとつとなった二語」 (UG1 頁と見なすこととする
  2. ポール・ド・マン読むことのアレゴリー ルソーニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』 (土田知則訳岩波書店2012 年135 頁以下 AR と略記)。
  3. ジョイスは近代の大学の本質的限界を徴しづけたのである結局のところジョイスに関する能力・資格などというものは能力・資格という概念の確実で厳密な意味からしてもそれに付着した評価や認知の基準からしてもありえない」。 (UG117 頁
  4. デリダUG122 頁
  5. デリダUG13 頁
  6. デリダUG69 頁
  7. デリダUG72 頁
  8. デリダUG79 頁
  9. デリダUG92 頁
  10. 全体の中の限定された一部に過剰な重要性を与えるデリダの読解の特徴およびその異様さを結果的には覆い隠すことになる知識あるいは端的に先行研究への目配せについておそらく最も早い時期に指摘したのはガヤトリ・ C ・スピヴァクである。 『デリダ論 グラマトロジーについて英訳版序文』 (田尻芳樹訳平凡社2005 年177 頁
  11. デリダDG下巻 42 頁
  12. デリダUG93 頁
  13. Jacques Derrida, Ulysse gramophone: deux mots pour Joyce,éditions Galilée, 1987; 82.
  14. Derrida, Ulysse gramophone, 82.
  15. Derrida, Ulysse gramophone, 64.
  16. デリダUG, 「訳者解説203 頁
  17. デリダUG110 頁
  18. ジャック・デリダパピエ・マシン 物質と記憶』 (中山元訳ちくま学芸文庫2005 年上巻55-286 頁

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。