脱構築が学問体系と大学制度にとってどうして危険なのかを、 ジャン=ジャック・ルソーを論じたデリダの 『グラマトロジーについて』 第二部1と、 それに対するド・マンの応答 「盲目さの修辞学」 を例にして確認しよう。
デリダは、 著者の自己撞着を仮借なく暴く査読者のようにルソーを読む。 自然を愛し、 人工的な文明を嫌悪したルソーは、 人間にとって最も信頼にたるのは音声言語であり、 なんらかの媒体を介在させる書き言葉ではないと語る。 しかしデリダは、 ルソーが強弁する音声/文字の二項対立は、 実際には互いに混じりあった境界のさだかならぬグレーゾーンであることを、 ルソー自身の言葉から証明する。 その詳細をここで再現するにはおよばない。 何かの媒体に記録されてそれを発した人間の意図を越えてしまうから書き言葉は危険だと言っても、 例えば、 そもそも私たちの肉声にしてからが空気という媒体なしには伝わらないし、 私の発言を聞いた人間が別の意味での媒体となって私の言葉を曲解し第三者に伝えることもありうる。 もちろんデリダはこの程度のことを長々語っているわけではないが、 問題はデリダが、 ルソーが言わんとしたであろうこと (ルソーのテクストの一般的解釈) とは真逆の事柄を、 ルソー自身のテクストから読みとれると示したことにある。 そのとき、 我知らずじわじわと自らを否定するルソーは、 さながら 「夢遊病」 2のように断崖にむけてしずしずと歩いていく。
ここで、 ド・マンの言葉で言えば 「認知の言語」 と 「権力の言語」 が重ねあわされたものとしてデリダのルソー論をとらえねばならない3。 言い換えれば、 果たしてデリダの読解がどこまでルソーに忠実なのかが問題にされねばならない。 デリダは、 ルソーの矛盾の目撃者なのか、 ルソーは矛盾していると私たちに伝える語り手なのか。 文学研究においては、 文学作品 (特に小説) の語り手 (および作者) を、 語られている登場人物たちよりも一段階上の水準で考えるが、 同様の差異がデリダとルソーのあいだにも生じている。 運命に連れ去られるかのようなルソーの失墜の物語は、 それを語るデリダにこそ強大な権威を付与する。 ルソーの査読者デリダは、 こうしてルソーの悲劇の作者となる。 そしてその権威は、 デリダがルソーを忠実に読んでいるだけの目撃者であり、 それを証言する信頼すべき語り手であるからこそ生じている。 とはいえ、 本稿の最終章で取りあげる論文でド・マンが言うように、 「語り手が目撃者のふりをして登場し、 出来事を忠実に模写して語った途端、 この第一の目撃者が信頼にたる者であることを請合う別の目撃者が必要とされ、 我々は一挙に無限後退に陥る」 4。 ルソーの恐るべき査読者として現れたデリダは無限の査読者を呼び寄せるわけだが、 無限の査読者が一人残らずデリダを認めることなど絶対にありえない。 そんなことがありうるなら、 それは、 デリダが正しいか否かを判定する人間が初めからまったく必要なかったことを意味してしまうからだ。
つまり、 デリダの権威には必然的に異議申し立てが生じる。 確かに、 人文学の不毛な多様化の責がデリダ一人に不当に押しつけられるようなこともあった。 度を失って怒り狂うある教授の言葉を引用したド・マンは、 デリダをめぐる状況をユーモラスに報告している。 「名指しで弾劾される主たる被告人ジャック・デリダは 『小悪魔的なパリっ子』 (彼は小悪魔的でもパリ生まれでもない) で、 『陳腐なニヒリズムを掠め取ろうという時だけ本当に一流の哲学者を参照する』 (例えばニーチェ) のだという」 5。 しかし、 個々の事例がどれほどその状況に左右された偶然であれ、 そうした事例が生じること自体は必然である。 ド・マンはまたある時、 言語の根本的な不確かさを探求する理論に対して抵抗を感じ、 そんな研究はすべきでないと主張するのは、 「人を死という運命から救うことができていないという理由で解剖を拒絶する」 6ようなものだと書いた。 その比喩を活用するならこう言える。 病死も事故死も自殺も他殺も、 究極的には避けられたかもしれない偶然にすぎない。 しかし、 個々の形態の死の危険を免れていることが不死を意味するわけではない。 デリダやド・マンの 「研究者」 たちはしばしば、 彼らを攻撃する者たちの無知や悪意に呆れて、 脱構築への異議申し立てが避けられないことを忘れてしまう。
デリダの脱構築がその本性において論争的なのは、 それが、 ルソーのみならず特定の古典的テクストをめぐり形成される知的共同体に不和の種をまく7ためである。 一方で、 デリダの読解はルソーの肝心な点を読み違えているか曲解している、 と反発する者たちが出現する。 デリダの脱構築に憤慨する者たちの目に、 デリダは、 ルソーの盲目な自殺の目撃者や、 ルソー物語の信頼すべき語り手ではなく、 むしろルソーの偽の自伝の著者として現れる。 こうなると、 強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックの姿のせいでシェイクスピアの反ユダヤ主義が疑われるように、 デリダの悪意が嗅ぎとられるのは時間の問題となる。 例えば人気のある小説や漫画が実写映画化される際、 その出来栄えを酷評して 「原作レイプ」 などと言うが、 ある著作をその著者の身体に喩える発想をここでも利用しよう。 デリダに反発する者たちにとって彼は、 縛りつけられた犠牲者の身体を切りきざみひねりあげる拷問者となる。 そんな手段でルソーから引きだされた意外な告白は、 デリダが無理に言わせたにすぎないというわけだ。 他方には、 そうした反発者はルソーを盲信している、 とデリダの側につく者たちもいるが、 彼らは彼らで、 往々にしてルソーからデリダへ盲信の対象を変えたにすぎない。
ここに、 ド・マンが介入する。 やはりルソーに注目していたド・マンのデリダ批判は、 ルソーの自殺ともデリダの拷問とも違う物語を呈示する。 すなわち、 デリダがルソーのテクストの内的矛盾として指摘したことこそ、 むしろルソーが本当に言いたかったことではないのか──自然の無垢や音声の優位を、 ルソーは自分でも信じてなどいなかったのではないか、 ということにつきる。 これは、 デリダの戦略を数学でいう背理法による証明に喩えた柄谷行人とも共通する認識である8。 例えば、 ある条件を満たす自然数が少なくとも一つ存在することを証明するにあたって、 特定の自然数を具体的に挙げられれば証明は成功する。 しかしそれができないとき、 その条件を満たす自然数など一つも存在しない、 という逆の仮定から出発し、 その場合生じてしまう矛盾によって、 いわば裏側から当初の命題を証明できる。 通常ルソーに帰されている、 人為に対して自然が先行し音声が文字よりも信頼にたるという主張などデリダは信じていない。 しかしそれを仮に受け入れてそれに矛盾する箇所を見つけ出し、 当初受け入れた前提を否定する、 あるいはより正確には留保する。 ただし、 この論述の形式では、 ルソーがその前提を信じていたのかどうかを決定できない。 ルソーがその前提に矛盾する事柄を書いていることはデリダ自身が雄弁に示しているからだ。 ド・マンの卓抜な比喩を借りれば、 デリダはルソーを、 ボクシングで言う 「スパーリング」 9の相手にして自らの脱構築を鍛えあげているのであり、 ルソーを押し切っているかに見えるデリダがルソーの無言の寛容のもとでそうしているという可能性を否定することはできない。
信じてもいないことを一旦は信じる振りをするというデリダの戦略的な倒錯を、 柄谷同様早くから見抜いていたド・マンは、 倒錯が倒錯と受け取られない可能性もまた強く認識していた。 背理法ではじめに仮定されついで棄却される前提は、 真面目に信じてはならない一種のフィクションなのだが、 そのフィクションは現実と取り違えられる危険性を排除できず、 遅かれ早かれ誤解が生じる。 そして示唆的なことに、 この誤解によって攻撃されたのもド・マンだった。 ド・マンは、 間違っていると非難されることで己の正しさを証明する。 すでに述べたデリダ批判を一通り述べてからド・マンは、 「これらいずれの論点も実質的なものではない」 10と明確にそれまでの仮定を放棄している。 すなわち、 デリダに脱構築されずともルソーは自らを脱構築していた、 という、 ド・マン自身が論証のため受け入れた前提である。 著しい文体の違いにも関わらずド・マンはデリダに対してデリダと同じ戦略で応答している。 ところが、 『グラマトロジーについて』 の邦訳者である足立和浩は、 邦訳の後書きで、 ド・マンの批判は 「支離滅裂」、 「前半好調に論を進めながら (それもデリダ理論の助けをかりて)、 後半デリダを批判しようとする瞬間に馬脚をあらわ」 し、 「俺はルソーを正しく理解したがデリダは誤解している、 というまことにくだらないこと」 を言いたいだけだ、 と一蹴している11。 他でもない邦訳者がデリダをまともに読んで理解していないはずはないし、 足立の盲目を笑う者は大方、 すでにド・マンの名がデリダと並び称されるときに漂う権威故にそうしているのだが、 問題は、 そういった多かれ少なかれ瑣末な事情を超えている。
そもそも、 信じてもいないことなら何故信じている振りなどするのか、 という至極もっともな反論を、 永遠に封じてはおけない。 そしてそんな常識から、 デリダやド・マンのフィクションはどこかで真面目に受け取られてしまうことになるが、 厳密にはそれを 「誤解」 とは言い切れない。 個々人の知的能力の多寡故に誰それかがデリダやド・マンを理解しているように見えたり見えなかったりすることはもちろんあるし、 その判断をいちいち宙吊りにするのは不可能だが、 それでもそんな判断は、 脱構築の本当の厄介さを遠ざけている。 出発点としてのみある主張を受け入れやがて捨て去るという論述の過程は、 圧縮すれば、 「私が言うことは間違っているから信じないでほしい」 と言うに等しく、 それに対しては信じることも疑うことも同じことだ。 あなたはきっと私を誤解する、 という予言は、 絶対に外れない。 脱構築は、 それを正しく理解することと誤解することが (究極的・理論的には) 不可分であるからこそ、 正しい理解を目指し誤解 (の可能性) をあくまで避けようとする 「学問」 にとって受け入れ難いものなのだ。
脱構築の 「理解」 なるものがありうるとすれば、 それはもちろんデリダとド・マンのあいだでのことだろう。 ド・マンが数多のデリダの追随者と違うのは、 デリダの言葉をまともに受け取ってはならず、 自らもまた、 字義通り受け取られれば誤解される危険な形で書く他ないと理解していたためだ。 語弊のある言い方しかできない二人は、 お互いそんな言い方しかできないことまで含めて理解しあう。 そして、 彼らは言わんとすることを曖昧さを残さず語っている、 という想定を最後まで疑わない真面目一辺倒の人々の軍勢が、 彼らを取り囲む。 背中合わせで戦う戦友同士が、 「お前が死んだら、 ろくでなしがいなくなったのを祝って乾杯してやるよ」 「奇遇だな、 お前の命日を祝う酒を昨日注文したところさ」 と冗談混じりに言いあうように、 脱構築への応答は、 自らもそれを相手とは別の形で反復することだ。
したがって、 必然的にフィクションの様相を呈する脱構築の言説を、 ジョークやコメディに喩えてもよい。 ただしそれは、 真実を語るべき学者としては致命的な失墜を背景にした命懸けの戯れであり、 「死と遊戯を区別することの不可能性」 12を知るド・マンがデリダとのあいだで繰り広げているのは、 こちらに向かってくる大型トラックを巻きこんで不良少年たちが挑むチキンレースに近い。 ド・マンは、 デリダの言う西欧形而上学の脱構築なるものも、 あくまでも教育的なフィクションだと書いた。 「しかしデリダの追随者で言われたことをより文字通りに受け取ってしまう者のなかには悩ましく思う人もいるかもしれない」 13。 西欧形而上学の全体が音声言語に対して文字言語を抑圧してきた、 というデリダの視点を文字通り受けとめてしまう人々は、 暗黙のうちにデリダを、 そんな圧倒的抑圧から相対的には自由な存在とみなす。 そんな人々は、 いわば、 デリダの (漫才で言うところの) ボケがボケだと気づかず、 それにツッコんだド・マンがデリダに暴力を振るったと憤慨する。 真顔でボケるデリダや、 ツッコむそばから自分もボケるド・マンが悪いのか、 あるいはユーモアを解さない客が悪いのか、 それを追求する価値はあまりない14。
専門家たちによる研究・教育の制度が、 デリダとド・マンの教えを飲みこみきれない理由は、 すでに明らかだろう。 彼らは、 あたかも死のように、 誰であれ逃れられない宿命としての間違いの可能性を教えようとしている。 しかし、 間違いを避けることができるからこそ専門家は権威を有し、 教授が学生たちに対して有する権力は、 間違いは避けるべきであり避けるための術を誤解の余地なく伝授することができるという信頼によって正当化される。 脱構築は、 他人の間違いを指摘するだけでなく自らも間違ってみせることによってその間違いの不可避性を教える。 だからこそ、 彼らの言葉は、 難解な語彙にあふれていようともどこかしらユーモアないしアイロニーに満ちたものになる。 私として忘れがたいド・マンのジョークを引用しておこう。 あらゆる経験的条件を超越 (transcend) した厳密な哲学的認識を目指したフッサールは、 ふと気が緩んでヨーロッパの人間としての自意識に屈したのか、 その哲学がヨーロッパに固有のものであるかのように語ってしまう。 超越するべき歴史的条件にすぎないヨーロッパとアジアの違いを前に間違いを犯すフッサールについて、 ド・マンは言う。 「しかしながら、 要点は個人的事情を超越している」 15。
なるほど、 単なる専門家にすぎないという卑屈さの陰にエゴを隠して、 学生たちを虐げる教授などいくらでもいるが、 そうした卑小な尊大さを人格の問題として論ずるよりも、 それを制度の要請として考えたほうがよい。 教壇に立つ専門家の権威は、 危険なものではあれ有用なものでもある。 ド・マンのもとで学んだ作家の水村美苗があるエッセイで語っているように、 ド・マンのイェール大での講義には彼の名声のためか他の教授たちまでが出席していた16。 現実的に誰かに何かを教えようというとき、 教師が何らかの形で権威を有していることはその教育において確かに役に立つ。 当たり前のことを急いで付け加えるが、 その権威は教育の入り口としてのみ役立つべきで、 その権威を相対化する懐疑が生じなければ、 教師は黒板を背にした権力者にすぎない。 ド・マンやデリダが何やら有名な学者らしいから読んでやれという学生がいたら、 もちろん読ませた方がいいのだが、 あのデリダ、 あのド・マンが言っているんだから正しい、 と思っている限り彼らの教えは飲みこめない。 しかし彼らの難解な著作を読み解いた者はしばしばその盲信に陥るか、 彼らを否定する権威を自らに与える。 権威は、 教育の最初と最後の両端において出現する。 脱構築は、 その二つの権威のあいだの危うい教育課程である。
本稿がいわゆる 「論文」 とは違う形で語ろうとしているのは、 この危うさである。 通常、 理論的な論述の対象にすらならない瑣末な挿話や断片的な軽口をあえて引用しているのもそうした理由による。 脱構築は今やアカデミズムにほとんど吸収されてしまっている。 吸収されまいと誰よりも抵抗していたのも、 デリダでありド・マンだったはずなのだが。 デリダの 『条件なき大学』 の邦訳者である西山雄二は、 デリダから博士論文の指導を受けたカトリーヌ・マラブーの挿話を紹介している。 ヘーゲル哲学を 「可塑性」 の概念で読み直そうとするマラブーはその構想を発表した。
デリダは発表にじっと耳を傾けながら、 唐突に 「今から私はジャック・デリダであることをやめて、 哲学者ヘーゲルとしてコメントします」 と告げた。 彼は観念論哲学者ヘーゲル翁になり切って、 論点の甘さや文献資料の不十分さなどを矢継ぎ早に批判し始めた。 [ ⋯ ] 翌日、 マラブーの自宅にデリダから電話が入り、 「昨日は冗談が過ぎたようで悪かった。 博論執筆は前向きに頑張りなさい」 と励まされたという。 17
ドゥルーズが彼にしては珍しく嫌悪感もあらわに口真似してみせた哲学史の専門家と、 このデリダはよく似ている。 しかし、 専門家としての責任に付随する権力を行使せざるを得ず、 そして学生に対する抑圧を制度から強いられていることに自覚的である彼は、 またしても悪びれもせず真顔でボケる。 以下、 天然ボケと思しきデリダについて、 さらに読解を進めていく。 (つづく)
注釈
- 『グラマトロジーについて』 上下巻 (足立和浩訳, 現代思潮新社, 1972 年)。 以下 DG と略記。
- デリダ, DG, 下巻 122 頁。
- ポール・ド・マン 『美学イデオロギー』 (上野成利訳, 平凡社, 2013 年) 317 頁。 以下 AI と略記。
- ポール・ド・マン 『ロマン主義のレトリック』 (山形和美・岩坪友子訳, 法政大学出版局, 1998 年) 355 頁。 以下 RR と略記。
- ド・マン, RT, 58 頁。
- ド・マン, RT, 41 頁。
- デリダが引き起こした論争は数多いが、 例えば 『マルクスの亡霊たち』 に寄せられた様々な、 多かれ少なかれ誤解を含んだ非難に関して彼は、 「たぶん私は、 はじめからそれが避けがたいものであると判断していたことになるはずだ」 としている (ジャック・デリダ 『マルクスと息子たち』 (國分功一郎訳, 岩波書店, 2004 年, 6 頁)。
- 『定本柄谷行人集 〈2〉 隠喩としての建築』 (岩波書店, 2004 年) 88-91 頁および、 ド・マン, BI, 207-09 頁。
- ド・マン, BI, 238 頁。
- ド・マン, BI, 212 頁。
- デリダ, DG, 「訳者あとがき」 下巻 403-06 頁。
- ド・マン, RR,, 363-64 頁。
- ド・マン, BI, 235 頁。
- ボケとツッコミの比喩に関して、 私は柄谷行人、 浅田彰、 岩井克人の座談会での発言からヒントを得ている。 彼らは労働者をボケ、 彼らの労働を利用=搾取する資本家をツッコミに例えつつ、 人々が様々な形で互いを利用し少しでも多くの利潤を獲得しようとする有様を、 何人ものツッコミが互いに殴りあっている、 と評した (浅田彰 『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』 ちくま文庫, 1986 年, 199-201 頁)。 柄谷はド・マン同様、 デリダの脱構築は、 彼が読むテクストが元来脱構築を内包しているからだとも語っているが、 これは言語学者 J. L. オースティンのテクストを真面目に受け取ってはならないジョークとして読み解いたショシャナ・フェルマンとも共通する洞察である (『語る身体のスキャンダル:ドン・ジュアンとオースティン、 あるいは二言語による誘惑』, 立川健二訳, 勁草書房, 1991 年, 150-80 頁)。
- ド・マン, BI, 35 頁。 邦訳者は、 フッサール現象学の鍵語である 「超越論的 transcendental」 を踏まえた言葉遊びであることが明らかな動詞 transcend を 「超越する」 とは訳していない。 この著作に限らず、 ド・マンの邦訳者たちには、 彼の機知や皮肉が理解できていないか、 あるいはそれが分かるように訳すことを禁欲しているのではと思える節がある。
- 水村美苗 「いつしか見知らぬ風景のなかに」 『思想』 (2013 年第 7 号, 岩波書店) 96-97 頁。
- ジャック・デリダ 『条件なき大学』 (西山雄二訳, 月曜社, 2008 年) 「解説 1 哲学、 教育、 大学をめぐるジャック・デリダの理論と実践」 128 頁。