目に映らない愚か者

連載第2回: 戦友たちの喜劇

Avatar photo書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.26Thu

戦友たちの喜劇

脱構築が学問体系と大学制度にとってどうして危険なのかをジャン=ジャック・ルソーを論じたデリダのグラマトロジーについて第二部1それに対するド・マンの応答盲目さの修辞学を例にして確認しよう

 デリダは著者の自己撞着を仮借なく暴く査読者のようにルソーを読む自然を愛し人工的な文明を嫌悪したルソーは人間にとって最も信頼にたるのは音声言語でありなんらかの媒体を介在させる書き言葉ではないと語るしかしデリダはルソーが強弁する音声/文字の二項対立は実際には互いに混じりあった境界のさだかならぬグレーゾーンであることをルソー自身の言葉から証明するその詳細をここで再現するにはおよばない何かの媒体に記録されてそれを発した人間の意図を越えてしまうから書き言葉は危険だと言っても例えばそもそも私たちの肉声にしてからが空気という媒体なしには伝わらないし私の発言を聞いた人間が別の意味での媒体となって私の言葉を曲解し第三者に伝えることもありうるもちろんデリダはこの程度のことを長々語っているわけではないが問題はデリダがルソーが言わんとしたであろうことルソーのテクストの一般的解釈とは真逆の事柄をルソー自身のテクストから読みとれると示したことにあるそのとき我知らずじわじわと自らを否定するルソーはさながら夢遊病2のように断崖にむけてしずしずと歩いていく

 ここでド・マンの言葉で言えば認知の言語権力の言語が重ねあわされたものとしてデリダのルソー論をとらえねばならない3言い換えれば果たしてデリダの読解がどこまでルソーに忠実なのかが問題にされねばならないデリダはルソーの矛盾の目撃者なのかルソーは矛盾していると私たちに伝える語り手なのか文学研究においては文学作品特に小説の語り手および作者語られている登場人物たちよりも一段階上の水準で考えるが同様の差異がデリダとルソーのあいだにも生じている運命に連れ去られるかのようなルソーの失墜の物語はそれを語るデリダにこそ強大な権威を付与するルソーの査読者デリダはこうしてルソーの悲劇の作者となるそしてその権威はデリダがルソーを忠実に読んでいるだけの目撃者でありそれを証言する信頼すべき語り手であるからこそ生じているとはいえ本稿の最終章で取りあげる論文でド・マンが言うように、 「語り手が目撃者のふりをして登場し出来事を忠実に模写して語った途端この第一の目撃者が信頼にたる者であることを請合う別の目撃者が必要とされ我々は一挙に無限後退に陥る4ルソーの恐るべき査読者として現れたデリダは無限の査読者を呼び寄せるわけだが無限の査読者が一人残らずデリダを認めることなど絶対にありえないそんなことがありうるならそれはデリダが正しいか否かを判定する人間が初めからまったく必要なかったことを意味してしまうからだ

 つまりデリダの権威には必然的に異議申し立てが生じる確かに人文学の不毛な多様化の責がデリダ一人に不当に押しつけられるようなこともあった度を失って怒り狂うある教授の言葉を引用したド・マンはデリダをめぐる状況をユーモラスに報告している。 「名指しで弾劾される主たる被告人ジャック・デリダは小悪魔的なパリっ子』 (彼は小悪魔的でもパリ生まれでもない、 『陳腐なニヒリズムを掠め取ろうという時だけ本当に一流の哲学者を参照する』 (例えばニーチェのだという5しかし個々の事例がどれほどその状況に左右された偶然であれそうした事例が生じること自体は必然であるド・マンはまたある時言語の根本的な不確かさを探求する理論に対して抵抗を感じそんな研究はすべきでないと主張するのは、 「人を死という運命から救うことができていないという理由で解剖を拒絶する6ようなものだと書いたその比喩を活用するならこう言える病死も事故死も自殺も他殺も究極的には避けられたかもしれない偶然にすぎないしかし個々の形態の死の危険を免れていることが不死を意味するわけではないデリダやド・マンの研究者たちはしばしば彼らを攻撃する者たちの無知や悪意に呆れて脱構築への異議申し立てが避けられないことを忘れてしまう

 デリダの脱構築がその本性において論争的なのはそれがルソーのみならず特定の古典的テクストをめぐり形成される知的共同体に不和の種をまく7ためである一方でデリダの読解はルソーの肝心な点を読み違えているか曲解していると反発する者たちが出現するデリダの脱構築に憤慨する者たちの目にデリダはルソーの盲目な自殺の目撃者やルソー物語の信頼すべき語り手ではなくむしろルソーの偽の自伝の著者として現れるこうなると強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックの姿のせいでシェイクスピアの反ユダヤ主義が疑われるようにデリダの悪意が嗅ぎとられるのは時間の問題となる例えば人気のある小説や漫画が実写映画化される際その出来栄えを酷評して原作レイプなどと言うがある著作をその著者の身体に喩える発想をここでも利用しようデリダに反発する者たちにとって彼は縛りつけられた犠牲者の身体を切りきざみひねりあげる拷問者となるそんな手段でルソーから引きだされた意外な告白はデリダが無理に言わせたにすぎないというわけだ他方にはそうした反発者はルソーを盲信しているとデリダの側につく者たちもいるが彼らは彼らで往々にしてルソーからデリダへ盲信の対象を変えたにすぎない

 ここにド・マンが介入するやはりルソーに注目していたド・マンのデリダ批判はルソーの自殺ともデリダの拷問とも違う物語を呈示するすなわちデリダがルソーのテクストの内的矛盾として指摘したことこそむしろルソーが本当に言いたかったことではないのか──自然の無垢や音声の優位をルソーは自分でも信じてなどいなかったのではないかということにつきるこれはデリダの戦略を数学でいう背理法による証明に喩えた柄谷行人とも共通する認識である8例えばある条件を満たす自然数が少なくとも一つ存在することを証明するにあたって特定の自然数を具体的に挙げられれば証明は成功するしかしそれができないときその条件を満たす自然数など一つも存在しないという逆の仮定から出発しその場合生じてしまう矛盾によっていわば裏側から当初の命題を証明できる通常ルソーに帰されている人為に対して自然が先行し音声が文字よりも信頼にたるという主張などデリダは信じていないしかしそれを仮に受け入れてそれに矛盾する箇所を見つけ出し当初受け入れた前提を否定するあるいはより正確には留保するただしこの論述の形式ではルソーがその前提を信じていたのかどうかを決定できないルソーがその前提に矛盾する事柄を書いていることはデリダ自身が雄弁に示しているからだド・マンの卓抜な比喩を借りればデリダはルソーをボクシングで言うスパーリング9の相手にして自らの脱構築を鍛えあげているのでありルソーを押し切っているかに見えるデリダがルソーの無言の寛容のもとでそうしているという可能性を否定することはできない

 信じてもいないことを一旦は信じる振りをするというデリダの戦略的な倒錯を柄谷同様早くから見抜いていたド・マンは倒錯が倒錯と受け取られない可能性もまた強く認識していた背理法ではじめに仮定されついで棄却される前提は真面目に信じてはならない一種のフィクションなのだがそのフィクションは現実と取り違えられる危険性を排除できず遅かれ早かれ誤解が生じるそして示唆的なことにこの誤解によって攻撃されたのもド・マンだったド・マンは間違っていると非難されることで己の正しさを証明するすでに述べたデリダ批判を一通り述べてからド・マンは、 「これらいずれの論点も実質的なものではない10と明確にそれまでの仮定を放棄しているすなわちデリダに脱構築されずともルソーは自らを脱構築していたというド・マン自身が論証のため受け入れた前提である著しい文体の違いにも関わらずド・マンはデリダに対してデリダと同じ戦略で応答しているところが、 『グラマトロジーについての邦訳者である足立和浩は邦訳の後書きでド・マンの批判は支離滅裂」、 「前半好調に論を進めながらそれもデリダ理論の助けをかりて)、 後半デリダを批判しようとする瞬間に馬脚をあらわ、 「俺はルソーを正しく理解したがデリダは誤解しているというまことにくだらないことを言いたいだけだと一蹴している11他でもない邦訳者がデリダをまともに読んで理解していないはずはないし足立の盲目を笑う者は大方すでにド・マンの名がデリダと並び称されるときに漂う権威故にそうしているのだが問題はそういった多かれ少なかれ瑣末な事情を超えている

 そもそも信じてもいないことなら何故信じている振りなどするのかという至極もっともな反論を永遠に封じてはおけないそしてそんな常識からデリダやド・マンのフィクションはどこかで真面目に受け取られてしまうことになるが厳密にはそれを誤解とは言い切れない個々人の知的能力の多寡故に誰それかがデリダやド・マンを理解しているように見えたり見えなかったりすることはもちろんあるしその判断をいちいち宙吊りにするのは不可能だがそれでもそんな判断は脱構築の本当の厄介さを遠ざけている出発点としてのみある主張を受け入れやがて捨て去るという論述の過程は圧縮すれば、 「私が言うことは間違っているから信じないでほしいと言うに等しくそれに対しては信じることも疑うことも同じことだあなたはきっと私を誤解するという予言は絶対に外れない脱構築はそれを正しく理解することと誤解することが究極的・理論的には不可分であるからこそ正しい理解を目指し誤解の可能性をあくまで避けようとする学問にとって受け入れ難いものなのだ

 脱構築の理解なるものがありうるとすればそれはもちろんデリダとド・マンのあいだでのことだろうド・マンが数多のデリダの追随者と違うのはデリダの言葉をまともに受け取ってはならず自らもまた字義通り受け取られれば誤解される危険な形で書く他ないと理解していたためだ語弊のある言い方しかできない二人はお互いそんな言い方しかできないことまで含めて理解しあうそして彼らは言わんとすることを曖昧さを残さず語っているという想定を最後まで疑わない真面目一辺倒の人々の軍勢が彼らを取り囲む背中合わせで戦う戦友同士が、 「お前が死んだらろくでなしがいなくなったのを祝って乾杯してやるよ」 「奇遇だなお前の命日を祝う酒を昨日注文したところさと冗談混じりに言いあうように脱構築への応答は自らもそれを相手とは別の形で反復することだ

 したがって必然的にフィクションの様相を呈する脱構築の言説をジョークやコメディに喩えてもよいただしそれは真実を語るべき学者としては致命的な失墜を背景にした命懸けの戯れであり、 「死と遊戯を区別することの不可能性12を知るド・マンがデリダとのあいだで繰り広げているのはこちらに向かってくる大型トラックを巻きこんで不良少年たちが挑むチキンレースに近いド・マンはデリダの言う西欧形而上学の脱構築なるものもあくまでも教育的なフィクションだと書いた。 「しかしデリダの追随者で言われたことをより文字通りに受け取ってしまう者のなかには悩ましく思う人もいるかもしれない13西欧形而上学の全体が音声言語に対して文字言語を抑圧してきたというデリダの視点を文字通り受けとめてしまう人々は暗黙のうちにデリダをそんな圧倒的抑圧から相対的には自由な存在とみなすそんな人々はいわばデリダの漫才で言うところのボケがボケだと気づかずそれにツッコんだド・マンがデリダに暴力を振るったと憤慨する真顔でボケるデリダやツッコむそばから自分もボケるド・マンが悪いのかあるいはユーモアを解さない客が悪いのかそれを追求する価値はあまりない14

 専門家たちによる研究・教育の制度がデリダとド・マンの教えを飲みこみきれない理由はすでに明らかだろう彼らはあたかも死のように誰であれ逃れられない宿命としての間違いの可能性を教えようとしているしかし間違いを避けることができるからこそ専門家は権威を有し教授が学生たちに対して有する権力は間違いは避けるべきであり避けるための術を誤解の余地なく伝授することができるという信頼によって正当化される脱構築は他人の間違いを指摘するだけでなく自らも間違ってみせることによってその間違いの不可避性を教えるだからこそ彼らの言葉は難解な語彙にあふれていようともどこかしらユーモアないしアイロニーに満ちたものになる私として忘れがたいド・マンのジョークを引用しておこうあらゆる経験的条件を超越transcendした厳密な哲学的認識を目指したフッサールはふと気が緩んでヨーロッパの人間としての自意識に屈したのかその哲学がヨーロッパに固有のものであるかのように語ってしまう超越するべき歴史的条件にすぎないヨーロッパとアジアの違いを前に間違いを犯すフッサールについてド・マンは言う。 「しかしながら要点は個人的事情を超越している15

 なるほど単なる専門家にすぎないという卑屈さの陰にエゴを隠して学生たちを虐げる教授などいくらでもいるがそうした卑小な尊大さを人格の問題として論ずるよりもそれを制度の要請として考えたほうがよい教壇に立つ専門家の権威は危険なものではあれ有用なものでもあるド・マンのもとで学んだ作家の水村美苗があるエッセイで語っているようにド・マンのイェール大での講義には彼の名声のためか他の教授たちまでが出席していた16現実的に誰かに何かを教えようというとき教師が何らかの形で権威を有していることはその教育において確かに役に立つ当たり前のことを急いで付け加えるがその権威は教育の入り口としてのみ役立つべきでその権威を相対化する懐疑が生じなければ教師は黒板を背にした権力者にすぎないド・マンやデリダが何やら有名な学者らしいから読んでやれという学生がいたらもちろん読ませた方がいいのだがあのデリダあのド・マンが言っているんだから正しいと思っている限り彼らの教えは飲みこめないしかし彼らの難解な著作を読み解いた者はしばしばその盲信に陥るか彼らを否定する権威を自らに与える権威は教育の最初と最後の両端において出現する脱構築はその二つの権威のあいだの危うい教育課程である

 本稿がいわゆる論文とは違う形で語ろうとしているのはこの危うさである通常理論的な論述の対象にすらならない瑣末な挿話や断片的な軽口をあえて引用しているのもそうした理由による脱構築は今やアカデミズムにほとんど吸収されてしまっている吸収されまいと誰よりも抵抗していたのもデリダでありド・マンだったはずなのだがデリダの条件なき大学の邦訳者である西山雄二はデリダから博士論文の指導を受けたカトリーヌ・マラブーの挿話を紹介しているヘーゲル哲学を可塑性の概念で読み直そうとするマラブーはその構想を発表した

デリダは発表にじっと耳を傾けながら唐突に今から私はジャック・デリダであることをやめて哲学者ヘーゲルとしてコメントしますと告げた彼は観念論哲学者ヘーゲル翁になり切って論点の甘さや文献資料の不十分さなどを矢継ぎ早に批判し始めた[ ⋯ ] 翌日マラブーの自宅にデリダから電話が入り、 「昨日は冗談が過ぎたようで悪かった博論執筆は前向きに頑張りなさいと励まされたという17

 ドゥルーズが彼にしては珍しく嫌悪感もあらわに口真似してみせた哲学史の専門家とこのデリダはよく似ているしかし専門家としての責任に付随する権力を行使せざるを得ずそして学生に対する抑圧を制度から強いられていることに自覚的である彼はまたしても悪びれもせず真顔でボケる以下天然ボケと思しきデリダについてさらに読解を進めていく。 (つづく

次回はあす 1 月 27 日ですお楽しみに!

注釈

  1. グラマトロジーについて上下巻足立和浩訳現代思潮新社1972 年)。 以下 DG と略記
  2. デリダDG, 下巻 122 頁
  3. ポール・ド・マン美学イデオロギー』 (上野成利訳平凡社2013 年317 頁以下 AI と略記
  4. ポール・ド・マンロマン主義のレトリック』 (山形和美・岩坪友子訳法政大学出版局1998 年355 頁以下 RR と略記
  5. ド・マンRT58 頁
  6. ド・マンRT41 頁
  7. デリダが引き起こした論争は数多いが例えばマルクスの亡霊たちに寄せられた様々な多かれ少なかれ誤解を含んだ非難に関して彼は、 「たぶん私ははじめからそれが避けがたいものであると判断していたことになるはずだとしているジャック・デリダマルクスと息子たち』 (國分功一郎訳岩波書店2004 年6 頁)。
  8. 定本柄谷行人集2隠喩としての建築』 (岩波書店2004 年88-91 頁およびド・マンBI207-09 頁
  9. ド・マンBI238 頁
  10. ド・マンBI212 頁
  11. デリダDG, 「訳者あとがき下巻 403-06 頁
  12. ド・マンRR,363-64 頁
  13. ド・マンBI235 頁
  14. ボケとツッコミの比喩に関して私は柄谷行人浅田彰岩井克人の座談会での発言からヒントを得ている彼らは労働者をボケ彼らの労働を利用=搾取する資本家をツッコミに例えつつ人々が様々な形で互いを利用し少しでも多くの利潤を獲得しようとする有様を何人ものツッコミが互いに殴りあっていると評した浅田彰逃走論 スキゾ・キッズの冒険ちくま文庫1986 年199-201 頁)。 柄谷はド・マン同様デリダの脱構築は彼が読むテクストが元来脱構築を内包しているからだとも語っているがこれは言語学者 J. L. オースティンのテクストを真面目に受け取ってはならないジョークとして読み解いたショシャナ・フェルマンとも共通する洞察である (『語る身体のスキャンダル:ドン・ジュアンとオースティンあるいは二言語による誘惑』, 立川健二訳勁草書房1991 年150-80 頁)。
  15. ド・マンBI35 頁邦訳者はフッサール現象学の鍵語である超越論的 transcendentalを踏まえた言葉遊びであることが明らかな動詞 transcend を超越するとは訳していないこの著作に限らずド・マンの邦訳者たちには彼の機知や皮肉が理解できていないかあるいはそれが分かるように訳すことを禁欲しているのではと思える節がある
  16. 水村美苗いつしか見知らぬ風景のなかに」 『思想』 (2013 年第 7 号岩波書店96-97 頁
  17. ジャック・デリダ条件なき大学』 (西山雄二訳月曜社2008 年) 「解説 1 哲学教育大学をめぐるジャック・デリダの理論と実践128 頁

英米文学を研究しているレッチリの大ファン。下唇の左側に複数のピアスあり。(文責:編集部)
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