目に映らない愚か者

連載第1回: 二心を抱く二人の腹心

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2023.
01.25Wed

二心を抱く二人の腹心

クリティカルではなくなったら私など何者でもない

I am nothing, if not critical.

William Shakespeare, Othello.

評家の柄谷行人は彼に噛みついてくる後進の批評家たちには文学的能力がないもともと批評の批評しかやったことがないから小説が読めない教養がない語学力もないこれらは致命的な欠陥で彼らがまともな批評家になれるわけがない1と切り捨てたことがあるこれらの資質が、 (文芸批評家ばかりか大学の研究者にも必須のものであるところに批評と研究の微妙な関係があらわれている

優れた研究者であるための必要条件は批評家であることの十分条件ではない大学はいくつもの学問分野disciplineの専門家の養成を目指していて専門家たちの分業体制によって教育という規律disciplineを学生に課すのだが批評家はそんな桎梏を超越すると見なされるからこそ強烈な光を放つ哲学者ジャン=ポール・サルトルはこのことを証明していた小説や戯曲を書き政治についても発言したこの哲学における何か神話的な双頭の反抗者2の魅力を柄谷と親交のあった理論家ポール・ド・マンも証言しているひとを全体のなかの一部の領域に位置づけそこに閉じこめておこうとする大学のディシプリンを超えることが批評家には不可欠だったと言えるだろう

 今日批評は大学に対してこの微妙な距離を保ちにくくなっている大学は今や生き残りのため縄張り意識をなし崩しにしてでも複雑化・多様化した現実に応じて開放的・学際的になりつつあるアカデミズムの内部で功成り名を遂げた学者であればどこかしら文学的こう言ってよければ批評家風のエッセイを書くこともある批評家の美点は大学人のセールスポイントのうちのひとつになったド・マンの言葉で言えばこれもまた 「『密猟者から転身した密猟監視人3というお馴染みのパターンだろうか

 だとすればこうした自由な学問によって見え難くなる権力こそ今日の批評の標的となるこれまで学術的思索の対象にならなかったポップカルチャーその他に対する権柄ずくの蔑視は改められるべきだろうしかしある対象の研究が学問の世界で市民権を得ても、 「専門家の領域に素人たちが流入するのを防ぐメカニズムは失効しないむしろそのメカニズムはそれによって包摂される個々の学問分野の豊かさに反比例して透明な形式と化し安全な交流をうながし危険な混交を避ける整流装置となるだろう

 たとえば今日社会全体を見渡してある種の診断をくだせる学問として期待されているという意味において批評に最も近いのは哲学でも文学でもなく社会学である自身の専門領域に埋没する研究者を揶揄してタコツボという表現が用いられるがこの表現を提起した政治学者の丸山昌男が興味深い指摘をしている丸山によれば社会学十九世紀後半以降の諸学問の個別化・専門化を受けて個々の具体的な内容ではなく人間関係の形式を問うようになった冗談だと前置きしつつも丸山は当初あらゆる国内業務を統括した日本の内務省が他の省庁の独立にともない警察をのぞく固有の業務を失っていった経緯に触れている。 「内務の主たる役目として最後にのこったのが警察──つまり社会の交通整理役だったということは変なたとえですけれども十九世紀の社会学の運命とちょっと似ているんじゃないかと思うのです4つまり乱立するタコツボのあいだでの交通整理役がどれほど必要不可欠であってもそれは警察と同様暴走しないよう常に警戒してしかるべきものであるかつて柄谷が対立する別個の立場のいずれにも定住せず移動する交通の一語を以って批評を語ったことを考えるとなんとも皮肉なことではある

 この文脈ではミシェル・フーコーが提示した規律権力の概念とそれを読みかえたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの知見が助けになるフーコーの言う規律権力を目に見える形で示していたのが大量の囚人を効率よく統制・馴致する監獄の一望監視装置だった5いつどのように見られているかわからない囚人たちはやがて個々の独房のなかでしかるべき行動規範を取りこんで自らを律するようになる支配は被支配者による自己支配となるしかもこの装置は実際に看守が特定の囚人を監視していなかったとしても機能するよう設計されているので力を持った上位者とそれに服従したり抵抗したりする下位者という権力構造のイメージに修正を迫るこの規律権力必要に応じ警察に通報する一般市民の相互監視によって社会全域に浸透するフランツ・カフカを論じたドゥルーズ=ガタリは、 「規律権力がピラミッド型構造の上から下へ行使されるものではなくいわば隣り合った小部屋同士で作用するものととらえた。 「資本主義のアメリカ官僚制のソ連ナチスのドイツ──実際分節されて隣接したノックによってカフカの時代にドアを叩いていた来るべき《悪しき力》」。 6戸を叩くノックの音という比喩は単なる装飾ではない今日の規律権力はマンションの自室で騒ぎをおこせば静かにしてもらえませんか警察沙汰にはしたくないので⋯⋯と訴える懇願とも脅迫ともつかない曖昧な隣人同士の権力である

 学問の世界での研究の自由と安全を保障する警察に似た何かを、 「批評は問わねばならない政治経済の比喩で言えば今日のアカデミズムの自由化資本主義を受け入れつつそれがもたらす不平等の是正を目指す社会民主主義的なものにとどまっている難解な理論を応用してライトノベルやアイドルを真面目に分析すること自体を下らないと切り捨てる権利は誰にもないしかし多様な意見が取り交わされる空間はそれを支える権力と暴力を否定しないばかりか必要としているマイノリティを擁護する政党が一定数の議席を獲得することを受け入れる社会も議事堂が無数の貧民に占拠されることには尻ごみする。 「貧困がそのテリトリーつまりゲットーから出てくるときいかなる社会民主主義が発砲する命令を下さなかったであろうか7とドゥルーズ=ガタリは書いているこのことに無自覚な言説は、 「研究と峻別された意味での批評とは言えない。 「批評家風のエッセイを書く教授たちは高尚な文化を享受する富裕層に似てくるし軽視されてきたサブカルチャーの専門家さしずめ貧しい家庭に生まれながら成功した企業家のようだ

 アカデミズム内部の規律権力を具現化しているのは例えば文字通り個々の学問分野と他分野の危険な衝突を回避するための学術論文の査読制度であるもちろん学位審査もこれに準ずるそれは専門家の権威であり教授と学生教える者と教わる者とのあいだの権力であるドゥルーズが極めて博識な哲学史家だったのは言うまでもないがその彼は哲学史こそ若い哲学徒たちを虐殺していたとも語っている

哲学史というものが哲学における抑圧の機能を果たしていることは明らかだあれは哲学におけるオイディプスだ。 「あれこれ読んであれについてのこれを読まないうちからまさかきみは自分の名において語るつもりじゃあないだろうなというわけだ8

 参考文献の少なさだけを指摘して何か意義のあることをした気になる査読者や博士号の審査員がこうした抑圧の声を発している場面は容易に想像できるすでに触れたカフカ論でドゥルーズとガタリは規律権力を膨れあがり拡散したオイディプスに喩えていたカフカの短編判決に描かれる父親のみすぼらしさは彼が息子に死刑判決を下す権威を持つことと矛盾しない自らを押さえつける力に屈従する父はその力に抗して立ち上がろうとする息子に対してのみ上位者として思うままその力を振るうあたかも専門外のことには慎み深く寡黙な専門家が相手の話が自身の縄張りに一歩踏みこむや門外漢の無知を声高に嘲るように

 大学が学際的inter-disciplinary)」 になろうとも学問の場で流通する言葉を規制し一方的に沈黙させられる権力は厳然と存在し続ける自由を奪っているのが明白な監獄はそのわかりやすさゆえにかえってフーコーの規律権力への分析の威力を狭い範囲に限定して監禁してしまいかねないわけでだからこそドゥルーズが言うように、 「しなやかで可動的な機能制御された交通自由な環境にも浸透して監獄などなしですますことを教えてくれるある組織網全体9こそが問われねばならない具体的に思い描きやすい監獄にとどまらない規律権力実にとらえ難い監獄の囚人が実在すらしないかもしれない看守の分身を自分自身のうちに住まわせるように査読済み論文の余白には透明な文字で共著者としての査読者が署名している携帯型電子端末を手放さない市民を介して警察は自らが不在の場所にもその触手を伸ばせる私たちは移動式タコツボの運転手だ

 今日この透明な力は大学制度の内外で常に働いているがそれを問題として認識しにくいのにも理由がある査読が一種の編集であることはわかりやすいが商業的媒体の編集者ならばある原稿をそれが売れそうにないという理由で却下してもかまわない人々がネットで盛んに自己主張するのは当たり前のことだが誰であれ自分自身の内面に関することなら自分が一番よくわかる専門家だからだ特にいわゆる SNS においてある情報を拡散するか否かが単なる好き嫌いの問題であることも多々ありそのとき生じているはずの無数の微細な査読に責任など求めてもあまり意味がない市場原理と社会民主主義の結託のなかで生きている限りそこに生じる欺瞞を欺瞞として認識することすら難しい

 しかし今日の大学がどれほど市場原理にさらされようと人文学は建前としてであれ人間の自由と平等を理想として掲げざるを得ない裏返せばその者の肩書きや発言の場の如何に関わらず普遍的な理念に訴えて語る者はそう語っている自身の行い自体がその理念に照らして妥当か否かという問いを避けることが理論的にはできないだからこそそれを避けるためには理論では正当化できない権力その権力を保証する制度が暗黙のうちに必要となる知的制度自体の権力こそその制度に従い生産される言説が真っ先に問い直さねばならないものでありかつ問い直すのが最も難しいものでもあるところで査読制度の避け難い弊害のようなものを証明する論文がどこかの学会誌の査読を通過しなかったとしたらそれはその論文の過ちを証明するだろうか通過したとしたらそこに書かれていることを真に受けていいのだろうか人文学の世界はハインリッヒ・フォン・クライストの喜劇こわれがめの法廷のようなものでありそこでは裁判官と罪人が同一人物となる

 今日の批評の責務のうちのひとつは、 「学問の教えをその学問を支える権威と制度にむけて突き返すことだそんな試みに対して抵抗が生じないなどという夢は見るべきでないしかしそんな試み無しに人文学が健全に発展しうると考えるならそれは夢ですらなく欺瞞であるアカデミック・ハラスメントに関する著作で湯川やよいは興味深い例を報告しているK 教授はある海外文献の邦訳にあたって修士課程在籍中のコウスケさん仮名他数名に実質的な作業を任せきりだったにも関わらずコウスケさんたちの名前を共訳者としてすらクレジットにのせようとしなかった K 教授は度重なる抗議に耳を貸さず自らの単独訳として出版したいわゆるポストコロニアル・スタディーズが専門と思われるこの K 教授との衝突をふり返るコウスケさんを打ちのめすのは湯川が適切にまとめるように

すなわち大学院の講義や翻訳などのアカデミックな議論の中では確かに K 教授と共有されていたはずの対話暴力的でないコミュニケーション」、 「対等な人間同士の関係という理念・思想がそうした議論をより多くの人々へ伝えるという志のもとで行われた協働作業においてはまったく実現されなかったという皮肉な状況に対する失望や悔しさである10

  K 教授は査読した論文の価値を認めなかったからではなく認めたからこそその著者を沈黙させ業績を横領する最悪の査読者に喩えられるあるいはどれほどきれいごとを言おうと口にされない力関係こそが社会の実相であるというシニシズムを実に雄弁に教えてしまう暴力的な教員といったところか今日アカデミズムでもジャーナリズムでも人文学に基づいた知的探求と社会変革の努力にとってこれ以上の脅威はそうそうあるまい

 本稿の着想の源のうちのひとつをここに書き記しておきたい二〇〇八年三月来日講演が予定されていたイタリアの政治思想家アントニオ・ネグリに対して外務省は直前になってそれまで要求していなかった書類の不備を理由に実質的に彼の来日を阻んだ東京大学をはじめとする会場ではネグリ自身をのぞいて予定通り他の研究者たちが登壇したフランスの哲学者ジャック・デリダがもちいた物質なき物質性メシアニズムなきメシア性という形容矛盾に近い表現を思いかえした私もこの奇妙なネグリなきネグリ講演会の聴衆の一人だったやはりフーコーの権力論を援用したある登壇者から現代の政治権力に対するネグリの分析の正しさがこうして逆説的に示されたといった旨の発言があったことが思い出される

 こうした問題意識から以下本稿ではジャック・デリダとポール・ド・マンを取りあげる彼らの影響力が知的風土の違いを考えれば信じがたいほどアメリカや日本で広まったことは今更言うまでもないしかし彼らの名につきまとう脱構築大学教員の苛立ちの源でもあったマルクス資本論の詳細な解説で知られるデヴィッド・ハーヴェイはかつてジョンズ・ホプキンズ大学で価値や商品といった基礎概念の意味を学生たちが嬉々として詮索するため購読が遅々として進まなかったと回顧している要求してもいない資本論原書まで持参した彼らの背後に陰謀の黒幕の如くデリダが君臨していると知り学生にこんなやり方を焚きつけるとは知的にとは言わないが政治的にはバカ11に違いないとハーヴェイは確信したあるいはその学生たちこそが師の教えを曲解するバカだったのかもしれないとにかく彼らに対して師としての勤めを果たせず歯噛みするハーヴェイが脱構築に侵食される大学で例外ではなかったことは一九九二年デリダにケンブリッジ大学の名誉学位が授与されることに反対した教授たちがいたことからも知れる12

 そんなデリダとド・マンは、 「去る者日々に疎し」 (Out of sight, out of mindとは違ったたぐいの忘却にさらされている彼らを研究することはできるだからこそ彼らの脱構築に対するアカデミズムの抵抗が忘れられるド・マンはあるインタビューで語っている

よく言われることですが──そしてそれはある程度までは本当のことですが──デリダのテクストと彼の著作の中の何であれ大胆なもの何であれ本当に転覆的で鋭利なものは彼を学問化すること彼を文学を教えるための方法のうちのひとつにしてしまうことで骨抜きにされてしまうということです13

 以下に見るようにデリダについてのド・マンのこの評言は彼自身にも当てはまる骨抜きにされていない脱構築はアカデミズムにとってどう危険なのかデリダとド・マンを勇敢に新たな知の領域を征服した武将オセローとしてではなくその武将を破滅させる腹に一物あるイアーゴーとして読む術が模索されねばならない。 (つづく

次回はあす 1 月 26 日ですお楽しみに!

注釈

  1. http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/020418.html
  2. ポール・ド・マン理論への抵抗』 (大河内昌・富山太佳夫訳国文社1992 年235 頁以下 RT と略記)。 以下海外文献からの引用は邦訳における対応箇所のみを示すが原文を参照し適宜訳語は変更する
  3. ポール・ド・マン盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論』 (宮崎裕助・木内久美子訳月曜社2012 年), 209 頁以下 BI と略記
  4. 丸山真男日本の思想』 (岩波新書1961 年131-32 頁
  5. ミシェル・フーコー監獄の誕生: 監視と処罰』 (田村俶訳新潮社1977 年202-05 頁ただしフーコーの言う規律権力がそれに後続し人々をより自由に行動させつつ管理する権力と本質的に別物と言えるかどうかは微妙な問題であるこの点で私はフーコー自身よりもむしろやはり規律権力の概念を用いてヴィクトリア朝の英国小説を論じた D. A. ミラー小説と警察』 (村山敏勝訳国文社1996 年に多くを負う特にチャールズ・ディケンズ荒涼館を分析した第三章84-138 頁を参照
  6. ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリカフカ:マイナー文学のために』 (宇波彰・岩田行一訳法政大学出版局1978 年117-18 頁
  7. ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリ哲学とは何か』 (財津理訳河出文庫2012 年185 頁
  8. ジル・ドゥルーズ記号と事件― 1972-1990 年の対話』 (宮林寛訳河出文庫2007 年16 頁
  9. ジル・ドゥルーズフーコー』 (宇野邦一訳河出文庫2007 年84 頁
  10. 湯川やよいアカデミック・ハラスメントの社会学 学生の問題経験と領域交差実践』 (ハーベスト社2014 年258 頁
  11. David Harvey, A Companion to Marx’s Capital. (Verso, 2010), 4.
  12. ジェフ・コリンズビル・メイブリンデリダ』 (鈴木圭介訳ちくま学芸文庫2008 年11-17 頁
  13. ド・マンRT230 頁

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。