年長者の女性と若い娘さんの会話、 こういう場面が獅子文六はいいですねぇ。 ヒロインの父親が、 結末近くで意外に男前なところを見せる場面もよかったです。 慎一のモデルになったとおぼしき人物には 80 年代にお金がらみのスキャンダルがあったそうなので、 物語のその後をつい夢想してしまいます。 獅子文六はどの作品でも社会通念に囚われず、 どんな人間性も否定しません。 常識を疑うギャグの技巧としてであるとはいえ、 虹色のようなジェンダーの多様性すら受け入れます。 と同時に、 身支度をフネに手伝わせる波平のような感性も、 夫婦の交情のありようとして否定しません。 読者である当時の 「一般大衆」 を否定したら人気作家にはなれなかったでしょう。
たしかアーヴィングが同時多発テロについて、 「周縁の立場から書く」 といった意味のことを書いていました。 獅子文六もまた周縁の作家です。 何しろ 1954 年の小説なので、 言葉の上では偏見から完全に免れはしません。 でもそこに囚われて目の前の人間を見ないのが凡人であるならば、 彼は離れた場所からひとりひとりの人間性を、 常識に囚われず冷静に見抜きます。 だから時代の言葉による制約にもかかわらず、 人間性を無視しないのだと思います。 世間の偏見に抗うばかりでは受け入れられませんし、 ときに権力によって何をされるかわからない。 清濁併せ呑む、 とでもいいましょうか、 「わかりやすさ」 を装いながら——というより真っ向からまさにそのものに取り組みながら、 独自のまなざしをしたたかに潜ませるのが作家なのかもしれません。 安全な 「ニーズ」 に乗っかって個を断罪するだけでは三流以下です。
現代の読者にとってもっとも困惑させられるのが書名の 「怪談」 ではないでしょうか。 おそらくハロウィン向け喜劇映画 『毒薬と老嬢』 のような感じを意図したのだと思います。 どちらも価値観の急激な変化を題材にしていて、 雰囲気も似ています。 戦争の傷や敗戦後の混乱によって価値観が転倒 (当時の感覚で) したことを怪異、 ホラーと見なしたように思えます。 またストーカーの描写は、 当時としてはギャグだったのでしょうが実際に経験すると笑えません。 現代でさえ世間は被害者を責めますし、 警察も助けにならないことが多いと聞きます。 まして当時そのような暴力に晒されたら、 と思うと背筋が冷えます。 この物語でも登場人物は通報など考えもしません。 誰もが誹謗中傷を信じ込んで主人公たちが孤立する、 といった現実的な展開にならなかったのは幸いです。 ネタバレになるから詳しく書けませんが、 あの人物のあの攻撃は、 その後の展開を考えると、 慎一が潔癖症でよかったなと思いました。 手に入りそうな獅子文六の小説は残すところ 『大番』 だけ。 あとは図書館で読むしかありません。